アバドとアルゲリッチのモーツァルト

図書館CD第5弾です。モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を無性に聴きたくなったので図書館データベースを検索したところ、アバド指揮モーツァルト管弦楽団、ピアノはアルゲリッチという願ったり叶ったりというCDがありました。

mozart_pkon25_abbado&argeri

モーツァルト
ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
クラウディオ・アバド指揮モーツァルト管弦楽団
ピアノ:マルタ・アルゲリッチ
録音:2013年3月、ルツェルン音楽祭におけるライブ録音
DG(国内盤UCCG-1649)

このCDを喜び勇んで借りてきたものの、CDプレーヤーにかけて聴いているうちに私はどんどんしんみりしてきました。どんどんというより、第25番の前奏からしんみりします。音量を絞って聴いているせいかと思い、大きな音で聴いてみましたが、やはりしんみり。私の気持ちが沈んでいるのだろうとも考え、別の日にも聴いてみましたが、やはりしんみり。何度繰り返して聴いてみてもしんみりしてしまいました。第1楽章はもうやりきれない気がするほどです。別にこの曲が私にとってしんみり聞こえるからといって問題とするには当たらないのですが、何とも奇妙な現象です。気になってamazonのレビューを見ると、そこには絶賛コメントが掲載されています。そして、誰も「しんみりする」などとは書いていません。

私はいろいろ理由を考えてみました。弦楽器奏者の数が絞られているからだとか、ぶつ切りのフレージングのせいだとか。はたまたアルゲリッチのピアノに焦点が当てられた録音になっているからだとか。しかし、どうも決定打がありません。謎は深まるばかりです。

私にとって第25番は豪奢な曲です。曲に対する自分の感じ方が変わったのかと思ってアバド指揮ウィーンフィル、ピアノ演奏はグルダという昔懐かしのCD(DG、1976年録音)を借りてきて聴いてみると、こちらは紛れもなく豪奢なモーツァルトでした。ということは、他でもない、このアバドとアルゲリッチの演奏から受ける印象が特別だということです。

そこに至って初めて私は自分がこのCDに音楽ではなく、物語を聴いてしまったのだと理解しました。つまり、アバドとアルゲリッチに関する物語であります。例えば、解説書にも書いてあるとおり、アバドのDGへの初録音はアルゲリッチとのラヴェルとプロコフィエフの協奏曲録音でした(1967年録音)。そして事実上のアバド最後の録音がこのモーツァルトなのです。共演者はまたもアルゲリッチだったのです。私はそんなことを意識しないで音楽を聴くことができると思っていたのですが、そうではないのですね。CDの解説書の中にも、CDケースの裏にも若かりし頃の2人の写真が掲載されています。その写真を見ると、万年青年に見えたアバドは本当に青年ですし、アルゲリッチは妖気を漂わせる美人ピアニストという雰囲気です。一方、CDジャケット写真には殆ど骨と皮になってしまったアバドと白髪の老婆となったアルゲリッチが写っているのです。これを見ると、私は時の流れを強く感じてしまうのです。最後にアルゲリッチは煌めくようなピアノをアバドにプレゼントしたのだ、そしてスーパースターであったアバドは死んだのだ、と心のどこかで思ったのでしょう。

私はDGの術中にまんまとはまったのかもしれません。もしこのピアノ協奏曲第25番を聴いて私と同じように感じた人がいたらぜひ感想を伺ってみたいものです。

(2015年7月16日)

アバドとアルゲリッチのモーツァルト」への2件のフィードバック

  1. 伊東さん

    このディスク、一般には絶賛されていたのですね・・・
    私は、即刻売り払ってしまいました。聴いていて辛かったディスクでした。原因とか理由は考えていません。単純な感覚でボツ指定したわけです。

    無理やり考えると、アバドの残したモーツァルトは、他の作曲家の録音と異なり、晩年のスタイルは私の嗜好に合いませんでした。(ベルリンフィルと残した交響曲の方が、晩年のモーツァルト管と残した交響曲録音よりも、私にはしっくり来るのです)

    伊東さんと同じに感じたのではないかも知れませんが、私も「残念なディスク」となってしまいました。なお、アルゲリッチは2曲とも再録音ですが、最初の録音も違った理由ですが、あまり好きではありません。

    アルゲリッチファンの皆様、ごめんなさい。

  2. amazonのレビューは、私はあてにならないと思っています。演奏評価も、音質評価も私の感覚とかけ離れたものが多いからです。多分、私とは随分違った聴き方をしている方々が書き込みをしているのだと思っています。

    なお、今回取り上げたディスクはもう図書館に返しましたが、このディスクを、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を聴くという目的のために手にすることはもうないと思います。「しんみりする」理由は特定できなかったのですが、松本さんの書かれたとおり私にとっても残念なディスクであることに変わりはありません。

    また、私はこのディスクのアルゲリッチのピアノは嫌いではありません。むしろ、特定できなかった原因のひとつはアバドの方にあるのかもしれないと考えています。ただ、特定できなかったのですから何とも言えないですね。本当に不思議な思いをしたCDでした。

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