クレンペラーのマーラー:交響曲第7番

CDはできるだけ買わずに、図書館から借りるようにしていたのだが、クレンペラーのマーラーが葛飾区にはないのである。そうなると余計に聴きたくなる。仕方なく、とうとうボックスCDを買ってしまった。目当ては交響曲第7番である。

以下、異論があるのは承知で私見を書く。

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マーラー
交響曲第7番
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:1968年9月18-21,24-28日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
EMI(輸入盤 2 48398 2)

クレンペラーがEMIに録音したのは交響曲第2番、第4番、第7番、第9番、そして「大地の歌」である。ここで問題となるのは交響曲第7番だ。クレンペラーは9日間もじっくりと時間をかけて録音している。これだけの時間を費やすことが分かっているのであれば、EMIのプロデューサーも少しは及び腰になるかもしれない。費用と、予想できるセールスを考慮すればマーラーの別の曲を録音するという選択肢があったはずだ。それにもかかわらず、交響曲第7番の録音が実現したというのは、指揮者の特に強い欲求があったことを例証する。

ところが、皆様がご存知のとおり、この交響曲第7番はマーラー演奏の歴史に残る珍盤だ。CD1枚にすっぽり収まる演奏だってあるのに、クレンペラーは延々100分をかけて演奏している。

これは他の演奏から比べれば異常としか言いようがないテンポ設定による。第1楽章から遅い。とても遅い。オーケストラもその遅いテンポで強靱かつ重量級の音を響かせる。そして、クレンペラーはそのまま第5楽章まで通すのだ。

しかし、どうだろう。クレンペラーのこのテンポはやはり異常なのだろうか。異常ではない、と私は考えるに至った。クレンペラーは最初からこのテンポを想定していたし、このテンポでこそこの曲が傑作として残る、と信じていたに違いない。なぜなら、他の演奏では第4楽章までと第5楽章の間に極端に大きな断絶があるのに、クレンペラー盤にはそれがないからである。クレンペラーはスコアを読んで、第1楽章から終楽章までつながるようにこの曲を設計し直したのだ。そして、それに必要なテンポで演奏したのだ。

交響曲第7番を私は長い間理解できずにいた。第4楽章まではマーラー的世界を堪能させてくれるこの曲は、第5楽章がまるでとってつけたようなのである。黄泉の国の音楽を奏でているはずのオーケストラは無理矢理脳天気な音楽を奏でなければならない。しかも、その理由が何もないのである。暗から明へ、苦悩から歓喜へという物語があるのであれば、途中に何らかの葛藤、闘争があってしかるべきなのに、それがないのである。なのに、いきなり明を表現し、歓喜へ到達しなければならない。そんな馬鹿な。そういう曲だと言えばそれまでなのだが、オーケストラ曲の達人であるマーラーがそのような曲を書くだろうか。また、そういう曲だとしたら、クレンペラーともあろう大指揮者がわざわざ選んで録音しようとするだろうか。いずれも答えは否だろう。

私の考えでは、クレンペラーは、この第5楽章を明でもなく、歓喜でもないように演奏したかったのだ。それこそ黄泉の国にいるままその狂気を表したかったのだ。だから、クレンペラーは端からは異常とも思えるスローテンポを第5楽章に適用したのだ。さらに、その第5楽章につながるように第1楽章から第4楽章までのテンポも決めたのだ。それがこの長大な演奏の理由なのだ。

私は録音でも実演でもこの曲を聴いてきた。奇妙奇天烈な曲だと思ってきた。今思うと、第5楽章を、どの指揮者も扱いかねていたのだろう。しかし、クレンペラー盤だけは違っている。他の指揮者の演奏は忘却の彼方に消えたが、クレンペラー盤の演奏だけは私の頭に違和感なく残った。クレンペラーのテンポは異常なのではない。他の指揮者が曲を掌中にしていなかったのだ。

・・・と私はこのCDを繰り返し聴いて確信した。

(2015年9月2日)

クレンペラーのマーラー:交響曲第7番」への2件のフィードバック

  1. 大昔、クーベリックのマーラーの第1回で、第7番を取り上げた際に、この音源も参照していますが、私もこの演奏を肯定的に捉える一人です。

    さすがに、最速も最遅もクレンペラーであるという、交響曲第2番になると、評価が割れるというより、聴き手も混乱しますが・・・(笑)

  2. 私が聴いたのはEMIのマーラー・ボックスでした。以前読者の方から教えて頂いたとおり、新規にリマスタリングされていました。そのお陰で以前私が所有していたCDよりずっと良い音でマーラーを聴くことができました。その音はちょっと驚くほどでした。

    ・・・という理由をつけて、新たにCDを購入したことを正当化しています。

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