昨日の続きである。葛飾区の図書館には、ショスタコーヴィチの交響曲第12番のCDもあった。
ショスタコーヴィチ
交響曲第12番 ニ短調 作品112 『1917年』
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1984年4月30日、レニングラード・フィルハーモニック大ホールにおけるライブ
STE(国内盤 VDC-25028)
ムラヴィンスキーの指揮で聴くと、交響曲第12番は傑作になる。例えば、第4楽章でトランペットとトロンボーンが極寒の空をバリバリと突き破るように鳴り響く神話的な音を聴くと、感嘆の声も出ない。
しかし、この曲は他の指揮者で聴く場合、時として生ぬるい映画音楽か安っぽい標題音楽になることがある。事実、この交響曲には『1917年』という標題が付いているし、ご丁寧にも4楽章それぞれに標題が付いているのだ。しかも、ショスタコーヴィチの音楽がまさにその標題を描写しているのである。さすがショスタコーヴィチと言いたいところだが、分かりやすすぎることが災いし、私は逆に音楽の底の浅さを感じたものである。
標題は、
第1楽章:「革命のペトログラード 」
第2楽章:「ラズリーフ」
第3楽章:「アヴローラ」
第4楽章:「人類の夜明け」
となっている。
こういうものを見ると、私は「やれやれ」という気になる。ショスタコーヴィチにしてみればこのような曲を書かなければ命が危ない。だから恥も外聞もなくあからさまな革命讃歌を書かざるを得なかったのだろう。だが、それ故につまらなさを感じる。この作曲家の反骨精神はどこに消えたのか、と思う。私は初めての曲を聴いた時にショスタコーヴィチの交響曲への関心を半減させた。今考えてみると、最初に聴いた演奏が、この曲の魅力を伝えていなかったのだ。いや、その演奏の指揮者が、この曲はただの革命讃歌だと認識していたからこそそんな演奏になったに違いない。
ちなみに、ショスタコーヴィチの交響曲第11番にも標題が付いている。こちらは『1905年』という。楽章毎に標題が付いている点も第12番と同じだ。第11番は次のような標題が付いている。
第1楽章:「宮殿前広場」
第2楽章:「1月9日」
第3楽章:「永遠の記憶」
第4楽章:「警鐘」
これまた「やれやれ」である。私としては標題がない方がよほど楽しめる。政治的スローガンが見え隠れすると私は興ざめしてしまうのである。そうなるのは私だけなのだろうか? もし日本でも同じような作品が当局によって要請され、有力な作曲家がそれに従って作曲し、著名演奏家が演奏するとしたら、どんな気持ちになるのだろう。音楽として楽しめるのだろうか。
具体的に想像してみよう。
日本国政府が国威発揚のためと称して、日本人作曲家に交響曲を作らせる。標題は「明治維新」だ。4楽章形式で、それぞれの楽章にも標題が付いている。例えば、以下のような。
第1楽章:黒船来航
第2楽章:薩長同盟
第3楽章:戊辰戦争
第4楽章:王政復古
こうなったら、私は純粋に音楽を聴くだろうか。私は音楽の中に込められたプロパガンダを聴き、もしかしたらそれを楽しんでしまうかもしれない。しかし、それはもう音楽を聴いているのではなく、国威発揚の物語を受容しているだけなのではないだろうか。
そう思うと、ムラヴィンスキーの演奏はすごい。この人の指揮は物語を音にするなどというレベルにとどまらない。はるかに高次元だ。聴き手を音楽だけに集中させるのである。『1917年』という標題など完全に超越している。この人はショスタコーヴィチのスコアに潜む何かを見ることができたのだろう。少なくとも、ムラヴィンスキーの指揮で聴く交響曲第12番は、「底が浅い」などとはとても言えない。
(2015年10月14日)