松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」13種類聴き比べ」を追加しました。今回はリストではなく、シューベルトですね。松本さん、原稿ありがとうございました。フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」大全という感じがします。
(2016年11月4日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」13種類聴き比べ」を追加しました。今回はリストではなく、シューベルトですね。松本さん、原稿ありがとうございました。フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」大全という感じがします。
(2016年11月4日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「2枚の《リスト「伝説曲」管弦楽曲版》を聴き比べる」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。
そういえば、今日は諸聖人の日であるとともに、An die Musikの開設記念日でもあるようです。このサイトは1998年の開設後、中断、閉鎖、中断と紆余曲折を経ながら現在に至っています。中断や閉鎖はひとえに私の不甲斐なさに起因するものです。それにもかかわらず、ずっとサイトを訪問して下さっている方々や、原稿を寄せて下さる盟友のお陰で今も何とか持ちこたえています。とても有り難いと思っています。また次のアニヴァーサリーに向けて頑張りたいと思います。
(2016年11月1日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「ショルティ&シカゴ響でリスト「ファウスト交響曲」と「がんばれシカゴベアーズ」を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。
今回は非常に気になるタイトルですね。ジャケット写真を並べてみて、同時に論じるべき何かがあるとはあまり考えられないものです。タイトルにはちょっと驚かされましたが、本文を読んで納得した次第であります。
(2016年10月30日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「リストの「伝説曲」をケンプとブレンデルで聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。松本さん、心配しないでください。「伝説」は名曲ですよ。
(2016年10月29日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「リスト「ピアノソナタロ短調」管弦楽編曲版2種類を聴き比べる」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。このようなディスクが存在するとは。ぜひ聴いてみたいです。
(2016年10月28日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「レスリー・ハワードで「ダンテを読んで」の作曲過程を聴き比べる」を追加ししました。松本さん、原稿ありがとうございました。
松本さんが紹介してくださったCDは演奏者による学術研究の成果物でもあるわけですが、商業ベースに乗ったというところがすごいです。hyperionがこれを全集として世に送り出したというのはレーベルとしても大きな決断だったでしょう。世界的には十分な需要ががあると判断されたのでしょうね。こういう企画は日本では考えられません。腹の据わり方が違うと思います。
(2016年10月27日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「ツィメルマンの2枚のリスト録音を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。
ツィメルマンについて
ツィメルマンのCDを私はかなり楽しんで聴いてきました。少なくとも演奏は今でも嫌いではありません。神経質と言われる演奏にもそれなりの良さを感じています。
しかし、その私ですら、ツィメルマンのリサイタルで政治演説を(日本語で!)聞かされた日からは二度と彼のリサイタルには行くまいと固く心に決めました。なぜなら、発言の内容がどのようなものであれ、それが気になってしまい、その後の演奏を白紙状態から聴くことができなくなってしまうからです。いくら何でもこればかりは反則です。ファンを裏切る行為です。ツィメルマンは自分の政治的発言によって聴衆が一人もいなくなっても構わないとうそぶいているようですが、本当にそれで良いのでしょうか。あれだけの才能を持った人物なのにもったいないと思わざるを得ません。
なお、CDでなら政治的発言など一切気にすることなく音楽そのものを楽しめます。今のところ、ツィメルマンを聴くならCDに限ると私は思っています。
(2016年10月26日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「シノーポリ&カペレで「リストのダンテ交響曲」を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。
シノーポリの存命中、彼がシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者であることに私は大変不満でした。シノーポリの指揮で次から次へと新録音が行われたわりにその内容に必ずしも満足できなかったからです。DGの録音はCD時代らしく非常に綺麗な音で収録されていましたが、そこに旧東独時代の音を聞き取る事が難しかったことが不満を持った最大の原因でした。今考えてみると、それは無い物ねだりだったのかもしれません。DGにしても、慣れないドレスデンの地で最善を尽くしたのでしょうから、当時の私はシノーポリとDGにあまりに多くを求めすぎたのだと反省しています。
シノーポリの死後、一時的にハイティンクやルイジがシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者となり、いくつかの録音も行われました。しかし、その量はシノーポリ時代に及ぶべくもありません。他の楽団の録音も減少していることを考慮したとしても、その減少ぶりは顕著です。今になって思うと、シノーポリ時代はシュターツカペレ・ドレスデンの録音面では非常に恵まれていたのです。シノーポリの指揮で多くの緒録音が残されたことは僥倖でした。もしシノーポリがいなければ、1990年代のドレスデンの演奏や音を我々は検証できなかったのです。シノーポリ存命中私は彼に悪態の限りを尽くしてきましたが、今は感謝するばかりです。そして、その悪態に対し、お詫びをしたいです。シノーポリさん、申し訳ありませんでした。また、多くの録音をしてくれて本当に感謝しています。
(2016年10月25日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「カーゾンの残した2枚のリスト録音を聴く(ロ短調ソナタを中心に)」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。これで4日連続です。今回のカーゾンのライヴ盤、ぜひ聴いてみたいです。ロ短調ソナタを大好物にしている私がそのディスクを持っていなかったのか、不思議でなりません。
(2016年10月23日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「チッコリーニの「リスト《詩的で宗教的な調べ》(2種類)」を聴き比べる」を追加しました。松本さん、3日連続の原稿ありがとうございます。というより、事実上松本さんによるリスト・シリーズが始まったように感じます。と、本人に無断でシリーズ開始を高らかに宣言するのであります。
(2016年10月22日)
松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「長富彩「リスト巡礼」を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。
この原稿は、事実上私が松本さんにお願いしたものであります。私はふとしたことからこのCDを手にしました。そして、このCDの最後に収録されている「孤独のなかの神の祝福」の演奏を聴いて文字通り心が震えるような気持ちになったのです。この曲を知らなかったわけではありません。それにもかかわらず初めてこの曲を知ったような不思議な体験をしたのです。そのことを松本さんにメールしたところ、その日のうちに当該CDのレビューを記してくださいました。こうしたいくつもの出会いに私は不思議な縁を感じます。
(2016年10月21日)
久しぶりにサイトを更新しました。松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「シフとショルティによるブラームス協奏曲第1番を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。久しぶりに更新するなら、私自身の記事を載せたいところですが、誠に面目ありません。
(2016年10月20日)
マーラー
交響曲第1番
ロリン・マゼール指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:2006年5月25-27日、ニューヨーク、エイヴリー・フィッシャー・ホールでのライブ
ニューヨーク・フィル自主制作(NYPFR06)
ニューヨークフィルからマゼールのマーラー録音が出ている。CDには「非売品」と書いてある。ニューヨーク・フィルのプロモーション用であって、商業録音ではないということらしい。しかし、それでも楽団側が公式にリリースするのだから、このCDはマゼールにとっても、ニューヨーク・フィルにとっても自信作であったに違いない。
確かに面白い。ショウ・ピースとしてのマーラーを聴きたい人には最高の演奏だろう。演奏はもはや歌舞伎的だ。ここぞというところでテンポを落とす、クライマックスの直前で長いパウゼを入れてためにためる。会場の聴衆はこの大見得をさぞかし喜んでいただろう。私も会場にいたならば欣喜雀躍していたに違いない。ニューヨークフィルは技術的にも優れていて、演奏の完成度はライブとはとても思えない水準だ。
音も現代的である。良く言えばとてもすてきな美しい音がする。こうした音がこ20年ほどの流行になっているようで、有名オーケストラによる自主制作盤でよく聴かれる音作りである。
しかし、このCDを聴いて私はいろいろなことを考えさせられてしまった。
まず、歌舞伎的な演奏についてだ。マゼールの演奏だから、私は何かをやるだろうとは予想していた。そして、予想通りというか、それを上回る歌舞伎的な演奏だった。私はそれを否定はしない。私自身が面白いと思って聴いたからだ。それも、笑いをこらえながら喜んで聴いたのだ。
問題は、私が笑ってしまうとか、吹き出してしまう、ということだ。なぜ笑ってしまいたくなるのだろう。私たちは今まで膨大な数のクラシック音楽の録音を聴いてきた。往年の大指揮者たちもいろいろなことをしてきている。それこそ、マゼールが採用した手法と同じものだって含まれている。しかし、その多くの場合、私はそれを歌舞伎的だと思っては聴いてこなかった。笑いもしない。真摯な音楽表現だと認識してきたのである。この差はどこから来るのだろう。
また、この現代的な音についてだ。最近の録音は、会場の空気感を重視するので、スピーカーの前にとても上品なふんわりとした優しい音が出現する。本当にすてきだし、美しい。しかし、それと引き替えに、演奏が持っていたであろう圧倒的なパワー・エネルギーは少なからず削り取られてしまっているように感じる。だから私は実際はもっと凄い音がしたのだろうと想像する。音は完全に収録できないものだとは分かってはいても、私は無い物ねだりをしてしまう習性が抜けない。困ったものである。
おっと、こんなケチをつけていては、楽しめるものも楽しめなくなってしまう。CDを聴いて考え込むのもほどほどにしておこう。
(2016年4月29日)
私はセッション録音を好んで聴くし、90年代以降、安易に量産されたライブ録音盤には殆ど魅力を感じない。しかし、ライブ録音といっても指揮者とオーケストラの本気演奏は、どれほど古くても価値があると思う。
例えば、セルがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮したCDだ。
CD1
ベートーヴェン
「コリオラン」序曲 作品82
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」
ピアノ:ニキタ・マガロフ
交響曲第5番 ハ短調 作品67
録音:1961年8月6日、ザルツブルク、祝祭劇場におけるライブ
CD2
ベートーヴェン
「エグモント」序曲 作品84
ブルックナー
交響曲第3番 ニ短調
録音:1965年8月2日、ザルツブルク、祝祭劇場におけるライブ
ジョージ・セル指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ANDANTE(輸入盤 AN2180)
セルには名盤が少なくないが、クリーブランド管弦楽団とのベートーヴェン録音についてはかねてから疑問符を付けていた。セルはオーケストラのコントロールを徹底しているから、その仕上がりは文句の付けようのないほど均整が取れている。しかし、それを聴いて身体が熱くなるような経験を私はしたことがないのである。演奏を聴いていると、楽団員が上司に睨まれながら仕事をこなしているのではないかとさえ思われることもあった。
ところが、このザルツブルクのライブ録音はどうだろう。オーケストラが喜んで演奏をした堂々のベートーヴェンである。コントロールという言葉が浮かぶ以前にベートーヴェンの音楽が私を燃え立たせる。指揮台に立っているのは本当に同じセルなのだろうか。
セルはシュターツカペレ・ドレスデンとは縁遠かった。これはザルツブルク音楽祭が産み出した特別な組み合わせなのだ。そういえば、セルは1969年にもザルツブルクでウィーン・フィルと熱狂的演奏を行っている。セルにとってウィーン・フィルはシュターツカペレ・ドレスデンよりは近い関係にあっただろうが、やはり他流試合であっただろう。そういうとき、セルはマジャールの血を燃えたぎらせてしまうらしい。こういう録音はもう出てこないのだろうか。ベートーヴェンの他の交響曲録音はないのか。
ひとつ疑問が生じた。セルはクリーブランドでのコンサートではどんなベートーヴェン演奏をしていたのだろう? セッション録音と似通った雰囲気の演奏だったのだろうか。もしかしたら、セッションとは別人になっていた可能性も否定できない。・・・などと私は妄想に耽っているのだが、その検証を実際にしてみたくてたまらなくなった。こういうのを正月ボケという。
(2016年1月5日)
私はハイドンが大好きである。その魅力にとらわれ、手に入れられる録音は片っ端から聴いた。交響曲全集は3種聴き通した。
ハイドンという、クリエイターとしては異常なほど健全な人格から生まれた交響曲はやはり健全極まりない。通常の音楽ファンに交響曲としてカウントされるは104曲あるが、それだけの数があるのに病んでいる曲はひとつもない。わずか10曲しかないのにその殆どが病んでいる作曲家もいることを考えると、ハイドンの健全さは際立つ。
健全なだけではない。注文主や聴衆を楽しませようという創意工夫が曲中に溢れている。たった一人の作曲家がよくもここまで同じジャンルで別の曲を作り続けられたものだと感心する。
具体的に見てみよう。
往年の指揮者ではカール・ベームがあの風貌に似合わず見事なハイドン演奏を聴かせる。ベームは職人として曲の勘所が分かったのだろう。現代の指揮者ではおそらく、サイモン・ラトルが随一だと私は睨んでいる。以下のCDは中でもとびきりの出来映えだ。特に第90番は必聴だ。
ハイドン
交響曲第88番 ト長調
交響曲第89番 ヘ長調
交響曲第90番 ハ長調
交響曲第91番 変ホ長調
交響曲第92番 ト長調「オックスフォード」
シンフォニア・コンチェルタンテ 変ロ長調
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年2月8-10,14-17日、ベルリン、フィルハーモニーにおけるライブ録音
EMI(輸入盤 3 94237 2)
ラトルはハイドンが好きらしく、バーミンガム市交響楽団時代にもハイドン録音を世に問うている。このCDに収録されている第90番に至っては再録音だ。しかし、こちらの方が圧倒的に面白い。
問題は第4楽章だ。一旦景気よく終わるのである。このCDはライブ録音されているから、そこで盛大な拍手が入る。しかし、終わりではない。ラトルはしれっとコーダ(と呼んでいいのか分からないが)をリピートするのである。リピートされたコーダは盛大に終わる。今度こそ全曲が終わったと思った聴衆はまた拍手をする。噂では、このときラトルは指揮棒を降ろしていたという。しかし、実は終わっていない。あろうことか、もう一度コーダを演奏するのである。会場は笑いとざわめきで一杯だ。
このアイディアは秀逸だ。ラトルのCDには、聴衆を2度も騙したライブ版だけでなく、真面目に、そして聴衆の拍手なしで演奏したセッション録音版も収録されている。どちらが面白いかは言うまでもない。私はハイドンがスコアにどんなふうに記しているのか知りたくて調べたこともあるが、ハイドンの交響曲第90番なんて曲はマイナーすぎて、そのスコアを自分の目で確認することはできなかった。私のような素人に「スコアを見てみたい」と思わせた曲はこの曲ぐらいなものである。本当にどうなっているのか見てみたい!
不思議なのは、この2度もある騙しのアイディアを、ベームはおろか誰も使っていないことだ。ラトルも旧盤では採用していない。なぜだろう。指揮者が知らないのか? そんなはずはない。指揮者も人とは違ったことをしたくないのか。それともこれはラトルが思いついた特殊な演奏方法だからか?
もっと多くの演奏家にハイドンを演奏してほしい。そして我々を楽しませてほしい。ハイドンの曲はそれを可能にする。私はラトルのこの演奏を聴いてラトルが好きになったし、ハイドンはもっと好きになった。もっと聴かれてもいいのに、と思う。
(2016年1月3日)