カテゴリー別アーカイブ: 図書館CD

ブランデンブルク協奏曲第5番

ルドルフ・ゼルキンのピアノを聴きたくなったので、バッハのブランデンブルク協奏曲を図書館から借りてきました。

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バッハ
管弦楽組曲(全4曲)
ブランデンブルク協奏曲(全6曲)
パブロ・カザルス指揮マールボロ音楽祭管弦楽団
録音:1964年6月(ブランデンブルク協奏曲第5番)
SONY(国内盤 SICC 1212-4)

なぜゼルキンのピアノを聴くのに、よりによってブランデンブルク協奏曲なのかという疑問があるかもしれませんが、私の中では全く問題がないのです。ゼルキンの弾くブランデンブルク協奏曲第5番のピアノが天下一品であるためです。

ブランデンブルク協奏曲第5番は事実上のチェンバロ協奏曲です。私はチェンバロが参加する演奏をたくさん聴いてきました。そしてある日、ゼルキンが弾くこの曲に出会って完全にノックアウトされたのです。ブランデンブルク協奏曲第5番はチェンバロでなく、ピアノで聴く方が断然かっこいい。それをゼルキンで聴くともっとかっこいいのです。冒頭からゼルキンのピアノは存在を明確にアピールしていますが、やはり第1楽章の長大なソロが圧巻です。完全にゼルキンの独壇場で、ゼルキンはチェンバロでは味わうことのできない壮麗かつ輝かしいピアノの音でバッハの目くるめく宇宙を展開しています。私は最初に聴いた時、あまりの至福に「音楽って本当に素晴らしい」と単純に感動したものです。その感想は今も変わりません。ゼルキンはこの録音当時61歳です。彼はマールボロ音楽祭を創設し、主宰したまさにその人です。自分のホームグラウンドともいうべき場で演奏するゼルキンの音楽は確信に満ちています。本来この録音ではカザルスを聴くべきなのでしょうが、私にとってはこの曲だけはゼルキンの演奏なのです。

ところで、私はブランデンブルク協奏曲のCDを手にするといつも第5番から聴き始めています。例外はありません。もちろん、第1楽章のソロをすぐに聴きたいからです。そのソロが始まるまで、私はひたすら待ち続けます。今か今かと待ち続けるのです。だからどのCDでも頭出しができないことにずっと不満でした。この曲最大の聴きどころなのですから。インデックスをつけるのは簡単だろうと思って期待していたのですが、結局そのようなCDは1枚も現れませんでした。私のような聴き方をする音楽ファンは他にいなかったのでしょうか? おっと、そういえば、古典派以降の大作曲家による協奏曲だってソロやカデンツァは頭出しされていませんね。ブランデンブルク協奏曲の、しかも第5番だけが特別扱いされるわけがないですよね。残念!

(2015年7月30日)

カイルベルトの『ワルキューレ』

図書館CDを検索していたら、カイルベルトの『ワルキューレ』が出てきたので早速借りてきました。

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ワーグナー
楽劇『ワルキューレ』全曲
ヨーゼフ・カイルベルト指揮バイロイト祝祭管弦楽団

  • ジークムント:ラモン・ヴィナイ
  • ジークリンデ:グレ・ブロウェンスティーン
  • ブリュンヒルデ:アストリッド・ヴァルナイ
  • フンディング:ヨーゼフ・グラインドル
  • ヴォータン:ハンス・ホッター

録音:1955年7月25日、バイロイト祝祭劇場
TESTAMENT(国内盤 UCCN 1067/70)

この録音が発掘されて大評判になったのは10年近く前でしたが、長らく聴きたいと思いつつも手許不如意のため購入できませんでした。しかし、図書館では無料で借りられるではないですか。何とありがたいのでしょう。図書館でクラシック音楽のCDを借りることを私は葛飾区に来るまで思ってもみませんでした。こうなったら葛飾区のクラシックCDを片っ端から聴いていく所存です。

このCDの演奏についてはもう語り尽くされたという気がしますが、やはり素晴らしいですね。力強いオーケストラの伴奏に乗って登場する歌手たちの神々しさったらありません。史上初のバイロイトでのステレオ録音だというのに、音質面での完成度もすごい。バイロイト・ピットの不思議な音響を体感できます。

私はこのCDを5回も通して聴きました。完全に堪能したと言えます。夢のような第1幕、長いはずの第2幕があっという間に終わる至福、異常に盛り上がる第2幕の最後、ドラマチックさに戦く第3幕。私の脳内は「ワルキューレ」一色になりました。

このような録音をありがたがって聴くのは、単なるノスタルジーではないのかと私は全曲を聴き終える度に自問しました。もしかしたらそうなのかもしれません。そうでないのかもしれません。私の中では、この録音はヴィーラント・ワーグナー時代のバイロイトで、ヴィーラントが選んだキャストで行われた特別な演奏です。これと同等の条件をもう一度揃えることなどできないのではないでしょうか。そしてバイロイト初のステレオ録音に挑戦したDECCAのスタッフも万全の仕事をしたはずです。こんな録音がそう何度も可能だとは思えません。私に古い時代へのノスタルジーがないとは言えません。しかし、決してそれだけでこの録音が多くのファンの支持を集めたわけではないとこの録音を聴く度に思った次第です。

(2015年7月26日)

アバドとアルゲリッチのモーツァルト

図書館CD第5弾です。モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を無性に聴きたくなったので図書館データベースを検索したところ、アバド指揮モーツァルト管弦楽団、ピアノはアルゲリッチという願ったり叶ったりというCDがありました。

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モーツァルト
ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
クラウディオ・アバド指揮モーツァルト管弦楽団
ピアノ:マルタ・アルゲリッチ
録音:2013年3月、ルツェルン音楽祭におけるライブ録音
DG(国内盤UCCG-1649)

このCDを喜び勇んで借りてきたものの、CDプレーヤーにかけて聴いているうちに私はどんどんしんみりしてきました。どんどんというより、第25番の前奏からしんみりします。音量を絞って聴いているせいかと思い、大きな音で聴いてみましたが、やはりしんみり。私の気持ちが沈んでいるのだろうとも考え、別の日にも聴いてみましたが、やはりしんみり。何度繰り返して聴いてみてもしんみりしてしまいました。第1楽章はもうやりきれない気がするほどです。別にこの曲が私にとってしんみり聞こえるからといって問題とするには当たらないのですが、何とも奇妙な現象です。気になってamazonのレビューを見ると、そこには絶賛コメントが掲載されています。そして、誰も「しんみりする」などとは書いていません。

私はいろいろ理由を考えてみました。弦楽器奏者の数が絞られているからだとか、ぶつ切りのフレージングのせいだとか。はたまたアルゲリッチのピアノに焦点が当てられた録音になっているからだとか。しかし、どうも決定打がありません。謎は深まるばかりです。

私にとって第25番は豪奢な曲です。曲に対する自分の感じ方が変わったのかと思ってアバド指揮ウィーンフィル、ピアノ演奏はグルダという昔懐かしのCD(DG、1976年録音)を借りてきて聴いてみると、こちらは紛れもなく豪奢なモーツァルトでした。ということは、他でもない、このアバドとアルゲリッチの演奏から受ける印象が特別だということです。

そこに至って初めて私は自分がこのCDに音楽ではなく、物語を聴いてしまったのだと理解しました。つまり、アバドとアルゲリッチに関する物語であります。例えば、解説書にも書いてあるとおり、アバドのDGへの初録音はアルゲリッチとのラヴェルとプロコフィエフの協奏曲録音でした(1967年録音)。そして事実上のアバド最後の録音がこのモーツァルトなのです。共演者はまたもアルゲリッチだったのです。私はそんなことを意識しないで音楽を聴くことができると思っていたのですが、そうではないのですね。CDの解説書の中にも、CDケースの裏にも若かりし頃の2人の写真が掲載されています。その写真を見ると、万年青年に見えたアバドは本当に青年ですし、アルゲリッチは妖気を漂わせる美人ピアニストという雰囲気です。一方、CDジャケット写真には殆ど骨と皮になってしまったアバドと白髪の老婆となったアルゲリッチが写っているのです。これを見ると、私は時の流れを強く感じてしまうのです。最後にアルゲリッチは煌めくようなピアノをアバドにプレゼントしたのだ、そしてスーパースターであったアバドは死んだのだ、と心のどこかで思ったのでしょう。

私はDGの術中にまんまとはまったのかもしれません。もしこのピアノ協奏曲第25番を聴いて私と同じように感じた人がいたらぜひ感想を伺ってみたいものです。

(2015年7月16日)

ブレンデルのバッハ

葛飾区図書館CD第4弾。検索していたら懐かしのCDがあったので思わずクリックしました。ブレンデルのバッハです。

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ヨハン・セバスチャン・バッハ

  • イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971
  • コラール・プレリュード「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ BWV639」(ブゾーニ編)
  • プレリュード(幻想曲)BWV922
  • 半音階的幻想曲とフーガ BWV903
  • コラール・プレリュード「来たれ、異教徒の救い主よ BWV659」(ブゾーニ編)
  • 幻想曲とフーガ BWV904

ピアノ:アルフレッド・ブレンデル
録音:1976年5月27日、ロンドン、ウォルサムストウ
PHILIPS(国内盤 32CD-153)

若い頃このCDをよく聴いたものです。その頃は何も疑問を感じることなく聴いていたのですが、クラシック音楽を一通り聴いてきたこの歳になって改めてこのCDを手にしてみると、実に奇跡的な録音だったのだと分かります。解説書冒頭には、ブレンデルがこの録音をした1976年時点でもブレンデルが演奏会でバッハを弾くことは珍しいと記載されています。その解説書の中でブレンデルは、バッハは現代のコンサートレパートリーに残すべきだと主張しています。そして現代のコンサートホールで演奏するには、古楽器ではなく、現代のピアノが適していると付け加えます。それは古楽器演奏の成果を十分吟味しての発言でした。さらに、ブレンデルはエトヴィン・フィッシャーのバッハ演奏から自由になり、自分のバッハ演奏ができるようになるのを待ったと語ります。つまり、このCDはブレンデルとしては満を持してのバッハ録音だったのです。

では、その後にブレンデルがバッハ録音を多数残したのかというと、そのような事実はありません。ブレンデルにはバッハ「だけ」を収録した録音はこのCD以外にないのです。私が若かった頃は、そのうちにブレンデルのバッハ録音がもっと出てくるだろうと高をくくっていたのですが、光陰矢の如しとはよく言ったもので、あっという間にブレンデルは引退しました。告別コンサートではコラール・プレリュード「来たれ、異教徒の救い主よ BWV659」を弾いていますが、バッハの記念碑的な鍵盤作品の数々は結局録音されていないのです。膨大な録音をし、再録音も多数残したブレンデルであったのに。ブレンデルの「平均律クラヴィーア曲集」「イギリス組曲」「フランス組曲」「パルティータ」「ゴルトベルク変奏曲」などの独奏曲はもちろん、ピアノ(クラヴィーア)協奏曲のような名曲も録音されることはありませんでした。「ゴルトベルク変奏曲」は「変奏曲」録音の中で予定が組まれていたそうですが、実現しなかったのは惜しいです。本当に惜しい。

そうなると、このCDに収録された曲目は、ブレンデルにとってよほど特別なものであったと考えられます。他の傑作を差し置いて弾きたかった曲ばかりなのでしょう。このバッハ録音に収録された曲は、イタリア協奏曲を除けば、やや陰鬱なものが多く、私は初めて耳にした際には気が滅入ったものでした。しかし、その後にその多彩な響きに魅せられ、さらにそのロマンチックさに溺れるようになったのです。今改めて聴いてみると、そのロマンチックさは並大抵のものではありません。「半音階的幻想曲とフーガ BWV903」はその極致と言えます。ブレンデルはこの曲でバッハ演奏でのロマンチシズム実現を極めてしまったのだと思わせられます。さらに、終曲の「幻想曲とフーガ BWV904」では駄目押しをしています。さすがブレンデルは徹底しています。もうこれ以上の表現はできないというところまで来てしまったのですね。

ここからは私の勝手な想像ですが、さしものブレンデルも、このような演奏を「平均律クラヴィーア曲集」や「イギリス組曲」「フランス組曲」「パルティータ」などで聴衆の前で繰り広げ、録音するというのは憚られたのはないでしょうか。もしくはPHILIPSが首を縦に振らなかったのかもしれません。時代は古楽器演奏を礼賛していましたから、ブレンデルが確信に満ちた演奏をしたとしても厳しい評価がなされた可能性があります。しかし、そうした時代の風潮はこの超絶的にロマンティックなバッハ演奏を埋もれさせることになりました。ブレンデルが弾いた、とびきりロマンティックな「パルティータ」を私はぜひとも聴いてみたいのですが、もはやブレンデルは引退しているのです。せめてこのCDを聴きながら想像し、思いを馳せるしかありません。

(2015年7月14日)


松本武巳さんのレビューを追加しました。こちらをご覧ください。
(2015年7月20日)

ピアノマニア

映画館で観ることができなかった『ピアノマニア』をDVDで観ました。

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これは、スタインウェイのピアノ調律師シュテファン・クニュップファーが、バッハの『フーガの技法』を録音するエマールのためにピアノを選定し、調律をしていく過程を中心にしたドキュメンタリーです。

この映画を観れば、私のような者でも調律師が少しずつピアノを調律する度に千変万化する音色を確認できるのではないかと淡い期待を寄せていたのですが、それはすぐに裏切られました。ピアノの違いによる音の違いは判別できますが、調律の前後での判別はそう簡単ではありませんでした。その場にいれば、微細な違いでも容易に聴き取れたのかもしれませんが、DVDというフォーマットを経由した後だからなのか、私の耳ではあまり感知できないのです。何10年もピアノ曲を聴き続けてきた私の耳はその程度のものだったのですね。私は自分の耳に落胆しました。

そうなってしまうのは、一流ピアニストたちの調律師に対する要求水準が尋常でないほど高いからなのかもしれません。要求される音のイメージは言葉としてなら私にも理解できます。しかし、調律師はそれを具体的にどうやって実現していくのでしょうか。もしかしたらピアニストは無理難題を突きつけているのかもしれませんが、調律師は「それは難しいね」などと否定的な言辞は一切発することなく黙々と調律します。それでもピアニストは満足しません。そして調律師はまた作業を繰り返すわけです。ピアニストの演奏する日時に合わせる必要もあるでしょうから時間的な制約もきついに違いありません。これが仕事だとはいえ、なかなか辛そうです。映画の中では、この仕事をしていて精神を病む人がいると説明がありましたが、それも頷けます。

どのような仕事でも、それを評価するのは自分ではありません。顧客であります。いかに芸術的に優れた調律師であっても、その仕事の成否は、顧客であるピアニストのひと言で決まってしまいます。ノーを突きつけられた日にはどのような気持ちになるのでしょう。よほどのピアノマニアでなければ続けられないでしょう。このDVDのタイトルが『ピアノマニア』となっているのにはそういった理由があるのだと思います。

しかし、その一方で、調律師の仕事がなければピアニストは自分が満足する音でピアノを弾くことはできないのです。労多い仕事ですが、それだけにその仕事がピアニストに認められ、賞賛された時には大変な満足を得ることができそうです。そして調律師の仕事は演奏会場の聴衆や、CDを聴いた人の耳に刻印されるのです。それはピアノマニアである調律師への勲章なのでしょうね。

(2015年7月7日)

図書館CDで聴く『千人の交響曲』

葛飾区図書館シリーズ第3弾です。まさかシリーズになるとは自分でも思っていませんでしたね。今回のCDはショルティが指揮したマーラーの交響曲第8番、通称『千人の交響曲』であります。

CDジャケット

マーラー
交響曲第8番『千人の交響曲』
ショルティ指揮シカゴ交響楽団、他多数
録音:1971年8-9月、ウィーン、ゾフィエンザール
DECCA(国内盤 POCL-6001)

この曲を生で聴くと、第1部における途方もない音量に驚きます。とんでもない音が前からどっと押し寄せてくるのです。それはベートーヴェンの『第九』の比ではありません。もう圧倒的だし、圧倒されるのが正しい聴き方だと思います。

CDで聴く時にはどうするか。できれば盛大に音量を上げて聴きたいところです。しかし、マンション暮らしになるとそれは容易にはできません。下手をすると退去を命じられるかもしれませんから。

転居後の私のアンプはフルに性能を発揮しているとは言えません。私の使っているGoldmundのプリアンプでは音量が数字で表記されます。一軒家のオーディオルームで使っていた際にはその数値は42から50くらいまでにしていました。オーディオルームは3階にあり、近所の家とはどことも接していませんでした。それでも窓は二重にしてなるべく音が外に漏れないようにしていました。しかるに、今度の部屋はマンションの最上階にあるので、上の部屋を気にせずとも、隣と下の部屋には気を配らねばなりません。すると、42から50などという音量でCDを聴くということは不可能になります。実際にはボリューム位置は22から30というところです。

その音量でショルティの『千人』を聴けるのか。それがしっかり聴けるのであります。貧相な感じは全くしません。小さい音でも痩せた音にはならず、演奏の細部まで明瞭に聞こえます。これにはちょっと驚きました。静かな環境に恵まれたということもあるのでしょうが、やはりDECCAの音作りがすごいのです。DECCA録音は、安物の粗末な再生機器でも満足しうる音質で聞けることは若い頃から知ってはいましたが、小音量でもよく聴かせてくれます。こういうのを本当の名録音というのでしょう。一部のレーベルの、大きな部屋で大音量再生することを前提とするCDは、いくらオーディオマニアの評判が良くても名録音だとは言えないと思っています。

私は改めてDECCAの録音スタッフを確認してみました。プロデューサーにデヴィッド・ハーヴェイ、録音エンジニアにケネス・ウィルキンソンとゴードン・パリーの名前が掲載されています。きっと彼らは、極東の島国でウサギ小屋に住むクラシックファンは大音量再生などできないことを知っていたのでしょう。さすがというほかありません。

ということで、マンションの一室ででもクラッシック音楽を鑑賞できることがよく分かりました。『千人の交響曲』が聴けるのですから、安心であります。

(2015年6月24日)

ワルターのマーラー 交響曲第1番

先日葛飾区の図書館でワルターのブラームスを借りてみたのですが、同時にマーラーの交響曲第1番も借りてきました。家に帰ってよく見ると、CDのジャケット、つまり解説が付いていません。どなたかが図書館にこのCDを寄贈してくださったのでしょうが、その時にはもうジャケットがなかったのでしょうね。しかし、この曲のCDを聴きたいという私のような人間のところに辿り着いたのですから、何の支障もありませんね。

マーラー
交響曲第1番  ニ長調『巨人』
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
録音:1960年前後?(解説書がないため転載不能)
SONY(国内盤 28DC 5052)

ワルターのマーラー、交響曲第1番とくれば当然あのジャケットだとクラシックファンなら容易に想像がつきます。私はそのジャケットを思い出しながらこのCDを聴き通してみました。

いやあ、実に素敵な音と演奏ではないですか。これが50年も前の録音だとは。私が初めて聴いたマーラーの1番は、もちろんこのワルター盤なので音のひとつひとつに懐かしさを感じずにはおれません。私たちの世代はこの録音の後に数々のマーラーに接しました。それでも原体験となったワルター盤の特別な地位は揺らぎそうもありません。しかも、良質のステレオ録音で残されたという僥倖をひしひしと感じます。この録音を聴きながら私はまさに「ノスタル爺」化し、満足のあまり昇天してしまいそうになりました。

ところで、この録音にはひとつだけ腑に落ちないことがあります。SONYからSACDが商品化されて出回り始めた頃、ワルターのより抜きの名盤がSACD化されました。モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、第40番、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、第6番「田園」、シューベルトの「未完成」、ブラームスの交響曲第4番です。これらは私もすべて集めました。その際不思議だったのは、この中にマーラーの交響曲第1番が含まれなかったことです。もしSACD化されれば、私のようなノスタル爺が先を争って購入しそうなディスクになるはずですから、そのうちにSONYがリリースするに違いないと読んでいました。しかし、それがSACD化されることはついぞありませんでした。これほどの名盤がなぜSACD化の対象から漏れたのか。通常盤でも全く音に不満がないのですが、SONYはあの手この手を使って音を変え、それらをリリースしてきました。そして、皮肉なことに、その度毎に音が悪くなったように私は感じていました。いろいろいじり回すのであれば、最初からSACDというフォーマットを使えば良いのに。これには何か裏事情でもあるのでしょうか?

とはいえ、そのようなことを思っている間に私のSACDに対する熱意はすっかり冷めてしまいました。ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデンによるR.シュトラウス管弦楽曲集がSACDに勝るとも劣らない音質で、しかもその10分の1近い価格で発売されたからです。高価なSACDを買った割にはそれに見合う音質が得られないことが続出したことも一因です。

今回私が葛飾区役所から借りてきたCDはマックルーアによる最初のCDのようです。私はこの古いCDの音で昇天しそうになったのですから、無類のノスタル爺なのでしょう。ノスタル爺には通常のCDで十分です。

(2015年6月22日)

ワルターのブラームスを渇望する

先日、ブルーノ・ワルターが指揮したブラームスを無性に聴きたくなりました。かといって、私の手許にはワルターのブラームスは1枚も残っていません。引っ越し前に処分したからです。「ああ、予想通りの展開になった。見境なく処分するのではなかった」と天を仰ぐことになりました。とはいえ、また新たに買うのも癪なので、葛飾区の図書館で借りてみました。図書館でCDを借りるのは生まれて初めてであります。

借りてきたのは以下のCDです。

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ブラームス
交響曲第2番 ニ長調 作品73
大学祝典序曲 作品80
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
録音:1960年1月11,14,16日
SONY(国内盤 28DC 5043)

発売時期や型番を見ると、どうやら運良くマックルーアがCD化したディスクを手にすることができた模様です。これは嬉しいです。さっそくCDプレーヤーにかけてみると、いかにもマックルーアのトラックダウンらしく、低弦が見事に強調された音が耳に飛び込んできます。それはともかく、欣喜雀躍した私は最初の部分だけを試しに聴くつもりがCD1枚分を丸々聴くことになってしまいました。ワルターは本当に聴かせ上手ですね。私はほとんど大満足です。なんだか微妙な表現ですが。

数年前に、私はブラームスの交響曲全集を片っ端から聴き比べしたことがあります。その際に、ふたつのことに気がつきました。批判や嘲笑を覚悟で申しあげますと、ひとつ目はアメリカのオーケストラによるブラームスは、地に足が着いていないような軽さがあり、それ故にわずかな違和感が感じられる場合が多いこと、ふたつ目はウィーンフィルハーモニー管弦楽団のブラームスというものがありそうだということでした。私の先入観なのかもしれませんが、誰が指揮台に立った録音でもウィーン・フィルのブラームスを聴いて違和感を感じたものは1枚たりともなく、それどころかウィーンフィルはブラームス演奏に必須の何かをDNA的に持っているのではないかと感じたものでした。

ワルターのブラームスは、アメリカの西海岸で録音されています。したがって、上記の観点からはあまり好ましからざる演奏のはずなのですが、私は最後までブラームスを満喫しました。さすがワルターの演奏であります。この演奏に対して、地に足が着いていないなどと恐ろしいことはとても言えません。ただし、「ほとんど大満足」と書いたように微妙な留保をつけたのには訳があります。1箇所だけ物足りなさを感じたからです。

この曲の第1楽章の終わり頃にやや長いホルンパートの出番がありますね。ここはブラームスが美しくも壮大な落日に惜別をおくるフレーズだと私は勝手に解釈しています。落日とは、実際に1日の落日を想起させるものでもありますし、人生の落日さえも描いているように思えます。私はその部分こそが第1楽章の白眉だと思っているのですが、ワルター盤はその箇所が少しあっけないのです。

しかし、そこまで聴いて、私がウィーンフィルのブラームスがあると感じた理由のひとつがはっきり分かりました。あくまでも理由のひとつに過ぎないでしょうが、それはホルンの音色のためです。ウィーンフィルの録音に聴くホルンの音色はやはり格別なのだと改めて思わずにはいられません。そして、コロンビア響とのセッションでは、ワルターのような大指揮者が指揮台に立ってさえ、それだけはどうにもならなかったのだと分かります。

それでもワルターのブラームスは魅力的です。たった1箇所物足りないところがあったからといってその価値を否定する気は毛頭ありません。今回はCDを図書館で借りましたが、やはり買い直した方が精神衛生上良さそうです。マックルーアのディスクを探して購入しようかと思います。

(2015年6月19日)