カテゴリー別アーカイブ: What’s new ?

アルプス登山への招待 R.シュトラウス:アルプス交響曲 文:青木さん

青木さんの「音の招待席」に「アルプス登山への招待」を追加しました。青木さん、原稿ありがとうございました。この文章、とてつもなくおもしろいですね。An die Musik山岳部の青木さんならではの痛快な文章です。登山とクラシック音楽に対する愛がこのように融合した例は希ではないでしょうか。

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そういえば、青木さんは「禿山の四夜」でも登山についての情熱を吐露していましたね。登山シリーズを期待してしまいそうです。

(2015年9月27日)

マーラーの交響曲第10番に聴くカタストロフ

マーラーの交響曲第3番を聴いた後、残った交響曲は第10番だけになった。図書館のデータベースを検索すると、ハーディング指揮ウィーン・フィル盤が出てきたので、早速借りてきた。

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マーラー
交響曲第10番(デリック・クック補筆完成全曲版)
ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年10月、ウィーン、ムジークフェラインザール
DG(国内盤 UCCG-1389)

私はマーラーの交響曲第10番を愛聴したことがない。マーラーを日常的に聴いていた頃でさえも第10番だけは敬遠してきた。恐ろしいのである。第1楽章アダージョのカタストロフが。最初に聴いたのがどの指揮者によるものだったか覚えていないが、その恐ろしさだけは未だに忘れられない。私にとっては背筋が凍りつくような恐怖体験だった。第1楽章を最後まで聴き通すことができなかった。その後時間を空けて何度か挑戦し、かろうじて第1楽章を最後まで聴いた。今も、できれば聴きたくない曲である。

ところが、指揮者たちにとってはこの曲がマーラー演奏のフロンティアになってしまったようで、マーラーが一応完成させたと推測されるのが第1楽章だけであるにもかかわらず、クック補筆全曲版などが録音されるに至った。クラシック音楽界ではすっかり定番の曲として扱われているような気配だ。他の人はこの曲が恐ろしくないのだろうか。

それはともかく、久しぶりにこの曲を聴いてまた衝撃を受けてしまった。

第1楽章のカタストロフが暴力的に聞こえなかったのである。何と、ハーディングとウィーン・フィルは、このカタストロフを異様なほど美しく奏でるのである。私は我が耳を疑った。カタストロフがオルガンの響きのように調和して耽美的に聞こえてくるのである。いや、そんなレベルにとどまらない。その響きはもはやエクスタシーに通じるほどだ。甘美なエクスタシー。そんなことって、あるのだろうか? これはカタストロフではないのか?

第1楽章が終わったところでしばらくCDを止め、私は考えた。もしかしたら、そういうことなのかもしれない。カタストロフは破滅であり、死である。だが、それは甘美なエクスタシーをもたらすことだってあり得るのだ。生は死と隣り合わせだ。生から死への移行は理解しやすい。しかし、死から見れば死は生はすぐ隣にある。タナトスの裏にはエロスがあるのだ。想像するだけでも恐ろしいことだが、カタストロフにはエクスタシーがあるのかもしれない。

それにしても何とすさまじい演奏だろうか。ハーディングとウィーン・フィルはそんなことを意識してこの第1楽章を演奏したのだろうか。私はあまりの衝撃に呆然となった。もうしばらくこの曲を聴かなくていい。

(2015年9月22日)

混沌の中に天国はある

以前は聴こうとしても身体が受け付けなかったマーラーを、転居後には全く支障なく聴けるようになったので、交響曲第3番を聴いてみた。図書館にはハイティンク指揮ベルリン・フィルのCDがあったので迷わずクリックした。

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マーラー
交響曲第3番ニ短調
ベルナルト・ハイティンク指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
アルト:ヤート・ファン・ネス
エルンスト=ゼンフ合唱団の女性たち
テルツ少年合唱団
録音:1990年12月16-18日、ベルリン、フィルハーモニー
PHILIPS(国内盤 PHCP-192/3)

第3楽章からは特に大きな感銘を受けた。至極マーラー的な、ある意味ではちんどん屋風の旋律で軽快に開始されるこの楽章冒頭は混沌としている。雑多で粗野で意味不明である。これがマーラーの音楽の魅力のひとつなのかもしれないが、都会の雑踏の中にいるような落ち着かなさを感じる。しかし、それだけでこの曲は終わらない。この曲は一体何なのだろうと首をひねっていると、突如として時間が止まり、ポストホルンの長大なソロにより天国が描かれるのである。それが一段落すると音楽はまた混沌に戻ろうとする。そこでもう一度天国が現れ、さらに、新たな世界が開けたようになって華々しく曲が終わる。その終わり方も混沌と言えば混沌であるが誠に鮮やかだ。奇妙奇天烈な音楽とも考えられる楽章ではあるが、聴き手に強烈な印象を与える。

マーラーは時々こんなふうに天国を描く。例えば、交響曲第9番の第3楽章の中にもある。それは現実世界の恐ろしい責め苦の中に突如として現れるトランペットの旋律だ。わずかに垣間見える天国である。

我々の人生では幸福ばかりが延々と続くわけではない。天国的幸福に永続的に浸りたいとは誰もが願うだろうが現実的には容易ならざることだ。そのような幸福を不断に味わえると考えるのはむしろ非現実的だろう。我々は混沌の世界の中に生きているのであり、現実の責め苦に中にいる時だってある。そして、ごく普通の人間にとって天国は憧れだ。特別な世界なのだ。そこにずっと浸っていたいが、垣間見るくらいが関の山のことだってあり得るし、それだからこそ憧れがより一層強くなることもあるだろう。天国が混沌にある、もしくは、現実世界の責め苦の中にあるというのは、天国を最も痛切に感じることができる設定なのだ。こういう曲を聴くと、マーラーの天才を感じずにはいられない。この大作曲家は人生の真理を直感的に音楽にできたのだとしか思えない。

(2015年9月21日)

グールドのボックス・セットに興奮する

私は転居後にはよほどの飢餓状態に陥ることがなければ新たにCDを購入しないことを決意していたのだが、先日のクレンペラーによるマーラー・ボックスだけでなく、グールド・ボックスを購入してしまった。HMVのホームページでこのボックスがリリースされることを知ってからというもの、完全な渇望状態に陥ったためである。しかも、どうしても発売日に手にしたいという子供じみた欲望にまで囚われてしまい、1か月前には予約注文していたのである。オリジナルジャケットである上に、DSDリマスタリング盤であることを理由に今回もまた自分が物欲にあっさり負けたことを正当化した。

届いた箱を開けると、ハードカバーの大判解説書が入っていた。これは416ページもあり、手にするとずっしりと重い。非常に立派な作りで、多数の写真が掲載されている。あくまでも解説書ではあるのだが、所有することの楽しみを味わわせてくれるものだ。心憎い。

81枚もあるCDの中から真っ先に選んだのはハイドンの後期ソナタ集(CD 73-74)である。これを最初に聴くのは1か月も前から決めていた。

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ハイドン

  • ピアノ・ソナタ第56番 ニ長調 Hob.XVI:42
  • ピアノ・ソナタ第58番 ハ長調 Hob.XVI:48
  • ピアノ・ソナタ第59番 変ホ長調 Hob.XVI:49
  • ピアノ・ソナタ第60番 ハ長調 Hob.XVI:50
  • ピアノ・ソナタ第61番 ニ長調 Hob.XVI:51
  • ピアノ・ソナタ第62番 変ホ長調 Hob.XVI:52

ピアノ:グレン・グールド
録音:1980年~1981年、ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ

ハイドンは現代の人気作曲家とは言えない。交響曲は一時復興期に入ったように感じられたが、それでもまだまだコンサートの軽い前座のような扱いだ。ましてやピアノ・ソナタは日陰者である。しかし、ハイドンのピアノ・ソナタは名作が揃っている。彼の性格を反映して、極端な感情の表出がなく、それ故、激烈さが抑えられているが音楽の愉悦を品良く届けてくれる。そのハイドンを楽しみながら演奏しているのがグールドである。グールドの後では他の演奏は聴けなくなる。この2枚のディスクをプレーヤーにかけてご満悦になった私は、もうひとつのハイドン(CD 5)を取り出した。

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ハイドン:ピアノ・ソナタ 第59番 変ホ長調 Hob.XVI:49
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330(300h)
モーツァルト:幻想曲とフーガ ハ長調K.394(383a)
ピアノ:グレン・グールド
録音:1958年1月7-10日、ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ

こちらにはハイドンは1曲のみ。ピアノ・ソナタの第59番は今回のボックスCDのために新たに再編集され、ステレオ音源として世に出ることになった。これがまた活きが良く、歌に溢れる演奏である。はっきり言ってこれ1曲でボックスセットを購入した甲斐があったと思わせる。しかも、その後に続くモーツァルトがとびきりの演奏だ。ピアノ・ソナタの第10番は言うに及ばず、「幻想曲とフーガ」が目眩をしそうなほど鮮やかで、まさにグールド節全開である。私にはこれ以上言葉がない。

そして、こんなディスクがまだまだ大量にあるのである。何という至福であろうか。物欲に負けた自分をしばらく許してあげようと思う。

(2015年9月15日)

蒸留水のような音

久しぶりにイングリット・ヘブラーのモーツァルトを聴いた。といっても、全曲ではなく、第8番イ短調K310と第11番イ長調K331だけだが。

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モーツァルト
ピアノ・ソナタ全集
ピアノ:イングリット・ヘブラー
録音:1986年~1991年、ドイツ、ノイマルクト、レジデンツプラッツ
DENON(国内盤 COCQ-83689/93)

転居の時に処分せず、手許に置いたセットである。久々に聴いてみると、実にすがすがしく、みずみずしいモーツァルトだ。音を撮ったのはアンドレアス・ノイブロンナーで、蒸留水のようなピュアな音でイングリット・ヘブラーのピアノを聴かせている。まるで純粋無垢のモーツァルトだ。煌めくばかりの演奏を前にして私はK310とK331の2曲だけで満足した。

それにしても、こういう蒸留水のような音で収録されたCDには心底驚く。本格的な装置で聴けば聴くほどその純粋さを私は強く感じる。これはちょっと信じられないような体験だ。時々、この世のものではない何かを聴いているような気にもなるのである。純粋すぎて怖いのである。私はその純粋無垢な音に驚嘆するのではあるが、その是非は未だにつけられない。不思議な録音である。

(2015年9月14日)

スウィトナー&カペレ「モーツァルト《フィガロの結婚》」を聴く 文:松本武巳さん

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「スウィトナー&カペレ「モーツァルト《フィガロの結婚》」を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。

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松本さんの文章を読んでいて、もう一度聞きたくてたまらなくなりました。このCDも処分してしまったので、手許にありません。どのCDにも思い出があるので自分ではなるべく見ないようにして処分してもらったのですが、こうしてCDのジャケットを見るだけで焦がれてしまうのだから、全くのお馬鹿さんという気がします。また、私はこのCDの試聴記を1999年に書いたのですね。しかも掲載日は私の誕生日でした。それから16年も経ってしまいました。驚きです。

(2015年9月12日)

キングスウェイ・ホール

先日購入したクレンペラーのマーラー・ボックスをしばらく聴き続け、殆ど陶酔してしまった。

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御大クレンペラーが選んだのは交響曲第2番、第4番、第7番、第9番、「大地の歌」と5つの歌曲のみであるが、いずれも名演奏であることを再確認した。さらに、リマスタリング(24-bit/96 KHz)効果が大きかったらしく、以前私が所有していたCDより音が良かった。クレンペラーのCDはHS-2088やらartやら、様々なリマスタリングをされていたが、このボックスが最も廉価で最も高音質になっている。この音で聴けるならば、クレンペラーの他のボックスも揃えたくなるのだが、どうやらリマスタリングをしてボックス化されたのはこのマーラーだけらしい。EMIからWarnerに版権が映る直前だったので、EMIはリマスタリングをするのさえ面倒になったのだろう。ということは、このマーラーボックスは誰か奇特なスタッフの手で幸運にも特別扱いされたものなのかもしれない。

EMIの音は玉石混淆で、石の方が多いと私は思っているが、クレンペラーのマーラーは玉の部類に入る。例えば、交響曲第4番だが、冒頭を聴いただけでスピーカーの前から離れられなくなる。非常に濃密なオーケストラの音が聴けるのだ。

クレンペラーのマーラー録音は、「大地の歌」の一部がアビーロード・スタジオで収録された。それ以外はすべてキングスウェイ・ホールで収録されている。多分、ホールの大きさ、形状のお陰で音の響き方と抜けが良かったのだろう。クレンペラーのマーラーを聴いていると、ホールに恵まれたという気もしてくる。

・・・などと書いているが、私はキングスウェイ・ホールがどんな形状のホールか知らなかった。検索してみると画像がたくさん出てくた。例えば、以下の画像がそうだ。

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このホールは地下にあり、さらにその下を地下鉄が通っているという。その点では録音技師泣かせではあったろう。それでもEMIもDECCAもここを使い続けたわけだから、いかに優れた音響が得られる場所だったか分かるというものだ。

しかし、このホールももはや存在しない。1983年に所有者が変わり、録音会場としての生命を終える。そして今は全面改装され、ホテルになっている。キングスウェイ・ホールは大レーベルが大演奏家とともに真剣に録音に取り組んだ古き良き時代を象徴するホールであり、それが失われたことは、録音芸術のひとつの終焉を表している。

(2015年9月6日)

ヤナーチェク「マクロプロスの秘事」を聴く(観る) 文:松本武巳さん

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「ヤナーチェク「マクロプロスの秘事」を聴く(観る)」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。現地で観て、さらにDVDでも鑑賞できるなんて、素晴らしいですね。

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(2015年9月5日)

音量について

『長岡鉄男のわけのわかるオーディオ』(音楽之友社)を手にしてみた。

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この本で改めて思い知らされたのは、私がかなり小さな音量でCDを聴いているという事実だった。スピーカーの能率やアンプの出力も絡んでくることなので、明確な基準はないとしても、大音量派はアンプのボリュームを11時以降にして聴いているらしい。11時! 一体どのような環境でなら11時以降のボリューム位置が実現できるのか。山の中の1軒屋だろうか? 完全防音を施したオーディオルームの中だろうか。かつて私は1軒屋に住み、少しばかりの防音を施した部屋を持っていたのにもかかわらず、それほどの大音量で音楽を聴いたことはない。一緒に暮らしている家族を無視するわけにはいかなかったし、真夜中には近所の迷惑も考えたからだ。

では、中音量はどのくらいなのかというと、アンプのボリューム位置が9時から11時までのあたりを指すらしい。ということは、転居前の私はかろうじて中音量派だったようだ。ボリューム位置は9時をちょっと過ぎるくらいで、10時を越えなかった。しかし、今の住居では9時も厳しい。階下で静かに暮らすお年寄りを想像すると無体なことはできない。

何故、今になって音量にこだわるのか。それはここ数年間聴けなかったマーラーとブルックナーを聴けるようになったことが大きい。気がついてみると、転居してからマーラーもブルックナーも違和感なく聴いている。マーラーは3番以外をすべて聴いた。ブルックナーは3番、4番、7番から9番までを聴いた。何年間も身体が受け付けなかった曲を聴けるようになったのは嬉しい。(マーラーやブルックナーを聴けなくなっていたのは、自分の体力の問題だとばかり思っていたのだが、そうではなかったのだ。)

マーラーやブルックナーを聴けるようになったのは良いのだが、これを音量を絞ったまま聴くのは少しストレスがたまる。例えば、マーラーの交響曲第6番はもう少し音を出して聴きたいところだ。しかし、そうすると端からはこれほどうるさく感じられる曲もないのだ。無遠慮にCDを聴こうとすれば、階下のお年寄りをノイローゼにしてしまいそうな気がする。

そして一番の問題は、本当の小音量だと、ディスクの音を十分に引き出していると感じられないことだ。理論的にはどうなのか分からないが、小音量だとアンプに働いてもらっている気がしないし、スピーカーの鳴り方が全く違うのだから、演奏家達が目指した音楽を聴けていないのではなどと愚にもつかぬことを考えてしまう。

もしかしたらオーディオ界のどこかには、そんなマンション暮らしのクラシック音楽ファンに役に立つノウハウがあるのかもしれないが、巨大な方舟のオーナーであった長岡鉄男は小音量とは無縁であったろう。だから、彼は『長岡鉄男のわけのわかるオーディオ』の「あとがき」に、とてつもなく重要で、現実的で、残酷なことを書いたのだ。曰く、「本当のオーディオは防音完備の広い部屋が必要である。つまり土地が必要なのだ。土地のない人にはオーディオはできない」。全く恐ろしいことを最後の最後に平気で書いてくれるものだ。

(2015年9月3日)

クレンペラーのマーラー:交響曲第7番

CDはできるだけ買わずに、図書館から借りるようにしていたのだが、クレンペラーのマーラーが葛飾区にはないのである。そうなると余計に聴きたくなる。仕方なく、とうとうボックスCDを買ってしまった。目当ては交響曲第7番である。

以下、異論があるのは承知で私見を書く。

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マーラー
交響曲第7番
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:1968年9月18-21,24-28日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
EMI(輸入盤 2 48398 2)

クレンペラーがEMIに録音したのは交響曲第2番、第4番、第7番、第9番、そして「大地の歌」である。ここで問題となるのは交響曲第7番だ。クレンペラーは9日間もじっくりと時間をかけて録音している。これだけの時間を費やすことが分かっているのであれば、EMIのプロデューサーも少しは及び腰になるかもしれない。費用と、予想できるセールスを考慮すればマーラーの別の曲を録音するという選択肢があったはずだ。それにもかかわらず、交響曲第7番の録音が実現したというのは、指揮者の特に強い欲求があったことを例証する。

ところが、皆様がご存知のとおり、この交響曲第7番はマーラー演奏の歴史に残る珍盤だ。CD1枚にすっぽり収まる演奏だってあるのに、クレンペラーは延々100分をかけて演奏している。

これは他の演奏から比べれば異常としか言いようがないテンポ設定による。第1楽章から遅い。とても遅い。オーケストラもその遅いテンポで強靱かつ重量級の音を響かせる。そして、クレンペラーはそのまま第5楽章まで通すのだ。

しかし、どうだろう。クレンペラーのこのテンポはやはり異常なのだろうか。異常ではない、と私は考えるに至った。クレンペラーは最初からこのテンポを想定していたし、このテンポでこそこの曲が傑作として残る、と信じていたに違いない。なぜなら、他の演奏では第4楽章までと第5楽章の間に極端に大きな断絶があるのに、クレンペラー盤にはそれがないからである。クレンペラーはスコアを読んで、第1楽章から終楽章までつながるようにこの曲を設計し直したのだ。そして、それに必要なテンポで演奏したのだ。

交響曲第7番を私は長い間理解できずにいた。第4楽章まではマーラー的世界を堪能させてくれるこの曲は、第5楽章がまるでとってつけたようなのである。黄泉の国の音楽を奏でているはずのオーケストラは無理矢理脳天気な音楽を奏でなければならない。しかも、その理由が何もないのである。暗から明へ、苦悩から歓喜へという物語があるのであれば、途中に何らかの葛藤、闘争があってしかるべきなのに、それがないのである。なのに、いきなり明を表現し、歓喜へ到達しなければならない。そんな馬鹿な。そういう曲だと言えばそれまでなのだが、オーケストラ曲の達人であるマーラーがそのような曲を書くだろうか。また、そういう曲だとしたら、クレンペラーともあろう大指揮者がわざわざ選んで録音しようとするだろうか。いずれも答えは否だろう。

私の考えでは、クレンペラーは、この第5楽章を明でもなく、歓喜でもないように演奏したかったのだ。それこそ黄泉の国にいるままその狂気を表したかったのだ。だから、クレンペラーは端からは異常とも思えるスローテンポを第5楽章に適用したのだ。さらに、その第5楽章につながるように第1楽章から第4楽章までのテンポも決めたのだ。それがこの長大な演奏の理由なのだ。

私は録音でも実演でもこの曲を聴いてきた。奇妙奇天烈な曲だと思ってきた。今思うと、第5楽章を、どの指揮者も扱いかねていたのだろう。しかし、クレンペラー盤だけは違っている。他の指揮者の演奏は忘却の彼方に消えたが、クレンペラー盤の演奏だけは私の頭に違和感なく残った。クレンペラーのテンポは異常なのではない。他の指揮者が曲を掌中にしていなかったのだ。

・・・と私はこのCDを繰り返し聴いて確信した。

(2015年9月2日)

二戸麻衣子(にとまいこ)ファーストアルバムを聴く 文:松本武巳さん

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「二戸麻衣子(にとまいこ)ファーストアルバムを聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。それにしても、女性ピアニストのCDに、そのような写真が使われているとは。

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(2015年9月1日)

ヨッフムのブルックナー交響曲第8番とドレスデン絨毯爆撃と旧ドイツ民主共和国 文:松本武巳さん

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「ヨッフムのブルックナー交響曲第8番とドレスデン絨毯爆撃と旧ドイツ民主共和国 文:松本武巳さん」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。このように面白い文章を読んだのは久しぶりです。

当時のシュターツカペレ・ドレスデンをトラバントに例えるというのは言い得て妙かもしれません。ドレスデンの団員には失礼かもしれませんけれども。でも、いいじゃないですか。本当の意味でユニークな演奏ができたのですから。あの演奏を聴いて、指揮者に必死についていくオーケストラの姿を思い浮かべない人はいないと思います。

トラバント

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松本さんの文章を読んで、私は東ドイツの名車トラバントを思い出しました。私にはトラバントにまつわる思い出があります。私はトラバントにはねられたことがあるのです。しかも、場所はドレスデンです。日本人でトラバントにはねられたなどという経験を持っているのは私だけでしょう。エッヘン。

1991年に私は仕事でドイツに滞在していました。11月にはやはり仕事でドレスデンに1週間行っておりました。夜は自由です。ある晩、ドレスデンのクルチュア・パラスト(文化宮殿)のコンサートからホテルに帰る際、横断歩道を渡っていた私をはねたのがトラバントです。信号は青でした。トラバントというのはプラスチックと段ボールでできていると言われていましたが、段ボールというのは眉唾としても、プラスチックでできているというのはおそらく本当です。もし私をはねたのがベンツやBMVだったら即死していたでしょう。トラバントにはねられた私は吹っ飛びましたが、左足をちょっと打ったくらいでピンピンしていました。今に至るまで後遺症も何もありません。

それから、フランクフルトに戻って生活をしていました。その頃はまだアウトバーンでトラバントをよく見かけたものです。親子で乗っているケースが多かったと記憶しています。トラバントはどんな車にも軽々と追い越されてしまいます。でも、トラバント(通称トラビー)は必死に走るのです。アウトバーンで普通の車に乗っている状態でトラバントを見ると、トラバントが静止しているように見えます。それでもトラバントは走っています。車体が壊れはしまいか、大丈夫か、雨が降ったら段ボールが保たないのではないかという感じで走るのです。私はそれを見ながら「がんばれ、トラビー!」と応援していたものでした。なんだか懐かしい思い出です。それからもう20年以上経つのですね。

(2015年8月26日)

ヨッフムのブルックナー 交響曲第8番

昨日の続き。

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ブルックナー
交響曲全集
オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1975-80年、ドレスデン、ルカ教会
EMI(輸入盤)

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ブルックナー
交響曲第8番 ハ短調
ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1976年11月3-7日、ドレスデン、ルカ教会
EMI(国内盤 TOCE-13244)

ヨッフムといえばブルックナーである。先日、amazonでヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデンによるブルックナーがどんな評価になっているのか見てみた。概ね高い評価がつけられている。しかし、中には手厳しい指摘もある。音質面でのマイナスを指摘する声もあるし、吹奏楽器の各奏者のピッチにバラつきがあることを指摘する声もある(第8番について)。いずれも、謂われがないわけではない。

音質面では最高級の音とは言えない。特に、以前も書いたとおり第8番は爆発的な名演奏だが、この録音は全集中で最も冴えない音で収録されている。東独ETERNAのLPで聴くとかなり見通しの良い音で聴けるのに、過去に私の手許にあったCDはどれもETERNA盤に及んでいない。何となく曖昧模糊とした感じがする。8番以外でも、国内廉価盤で聴いた人は口を揃えて音の悪さを訴えていた時期があった。EMIだから致し方ないとはいえ、全く音に恵まれない全集録音である。

管楽器のピッチについては、気になる人は気になってしょうがないだろう。第8番の演奏を聴いた友人に「ひどく下手くそなオーケストラである」と斬って捨てられたこともある。

指摘事項全くごもっともなのである。ついでにいうと、8番は破綻しかけていると思う。第3楽章でも第4楽章でもヨッフムはクライマックスに向けてオーケストラを煽って強引に加速するものだから、オーケストラ、特に金管楽器が崩壊しかけている。以前私は「トランペットがぴったり指揮について行った」と書いたのだが、最近はそれもぎりぎりだったのではないかと思うようになった。金管楽器は第3楽章ではやっとのことヨッフムの指揮についていった感がするし、第4楽章ではバランスもへったくれもなく勢いで吹きまくっている気がする。私が爆発的と呼ぶのはそのためなのだが、それをヨッフムはスタジオ録音でやってのけ、プロデューサーもそれを是としてディスクをリリースしたのだから恐れ入る。完璧主義の指揮者であれば、このような録音を公式盤として世に送ることは決してしないだろう。現に、ここまで強烈で、崩壊寸前の演奏をスタジオ録音で撮って、リリースした指揮者を私は他にテンシュテットくらいしか知らない。

しかし、崩壊寸前まで追い込むからこそ名演奏が生まれるのだ。ピッチが多少合わなくても、生きた演奏であることの方が大事なのだ。ヨッフムのような指揮者とシュターツカペレ・ドレスデンのようなオーケストラ、そしてその破天荒な演奏を良しとしてそのままリリースする関係者たちすべてが揃わなければこんな録音は生まれない。もともと優秀録音ではないし、音に難があるのは認めるが、こういう録音こそ貴重なのだ。この録音がPCオーディオの時代にどんな扱い方をされるのか不明だが、せめて私が生きている間はその良さをアピールし続けたいものである。

(2015年8月23日)

ヨッフムのマイスタージンガー

カラヤン指揮シュターツカペレ・ドレスデンの「マイスタージンガー」を聴きたくなったので、図書館のCDを検索してみた。ところが、それがない。他のCDがなくても、カラヤン=ドレスデン盤だけはあるだろうと疑わなかった私はひどく落胆した。しかし、「マイスタージンガー」はどうしても聴きたかったので、代替品としてヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ盤を借りてきた。

そして、私はすっかりこの演奏に陶酔してしまった。

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ワーグナー
楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』全3幕

  • ハンス・ザックス:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
  • ジクストゥス・ベックメッサー:ローラント・ヘルマン
  • ヴァルター・フォン・シュトルツィング:プラシド・ドミンゴ
  • エヴァ:カタリーナ・リゲンツァ

オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団、合唱団、ほか
録音:1976年3-4月、ベルリン、イエス・キリスト教会
DG(国内盤 UCCG-4557/60)

フィッシャー=ディースカウは何を歌ってもフィッシャー=ディースカウだ。うまいことは認めるが、どこかの大学の先生が歌っていますという雰囲気がするので私は時にこの大歌手を敬遠したくなる。ところがどうだ、このザックスは。インテリ臭は残るものの圧倒的な貫禄ではないか。全曲をフィッシャー=ディースカウが睥睨している。これこそ本物のマイスターだ。この録音ではヴァルターをドミンゴが歌っているのも特色で、雰囲気抜群だ。

しかし、このディスクの本当の主役はヨッフムだ。爆発的な演奏ではないが、じわりじわりと盛り上がってくる。声楽陣も美しさが追求されていて、私は純粋にその美しさに打たれるのだが、どうやらそれだけではなさそうだ。この演奏にはひたひたと迫る高揚感があるのだ。それも、大変な高揚感だ。特に第3幕は陶酔を避けられない。これはヨッフムが並々ならぬ力で伴奏をつけているからだ。録音当時ヨッフムは74歳。十分にお年を召されている。しかし、ヨッフムの音楽はこの頃絶頂期でもあるのだ。この美しくも、興奮を呼ばずにはいない演奏はヨッフムの指揮によって作られているのだ。

私はクラシック音楽を聴き続けていて良かったと心から思った。CDを陶酔するほどのめり込んで聴いたのは久しぶりだった。そのように音楽を聴けること自体が私は嬉しい。離婚と転居が決まり、CDも、本も処分した時、私はオーディオ機器もいっそのこと処分し、クラシック音楽を聴くという趣味も捨てて人生をやり直そうと思っていたのだ。しかし、オーディオ機器を処分しなくて良かったのだ。音楽をこのように楽しんで聴けるのだから。音楽は私の人生の友であり、糧であり、慰めである。私はそれを再確認できて嬉しい。図書館のCDがこれほどの幸福を与えてくれるとは夢にも思わなかった。

(2015年8月22日)

映像の力

映像は強い。音を聴いているつもりでも我々の感覚は映像に支配されている。

私は二人の女子の父だったので、子どもたちに付き合ってAKB48やら乃木坂46やらといったアイドルグループの映像を見ていた。そのため、おじさんにしてはアイドルに詳しい。AKBに至っては、子供と一緒に総選挙に参加して投票していた。ぞろぞろ出てくる女の子たちの顔と名前が私は少しは分かる(キモイと若い子から冷たい視線で見られそうだが)。

しかし、どうにも頂けないのは、彼女たちがいつも口パクであることである。たまに例外があるようだが、殆ど歌っていない。テレビやコンサートで彼女たちは自分たちが歌った録音に合わせてにこにこしながら踊っているだけなのである。それなら、マイクなど持たないで踊ればいいのに、と余計なことを言ってしまいそうだが、彼女たちはれっきとした歌手なのだ。ステージで歌わないだけで、スタジオでは歌っているからだ。紅白歌合戦にも堂々と出場する。

口パクの歌手というのは歌手なのか? 正直に申しあげて、私は理屈に合わないと思う。しかし、彼女たちが出るテレビ番組や動画をこの私だってなんやかんやと言いながら大いに楽しんで見てしまうのである。

クラシック界も口パクとは無縁ではない。私にとってはショッキングな事例がある。2006年トリノ・オリンピック開会式におけるパヴァロッティである。彼はその時、大編成のオーケストラをバックにプッチーニの「誰も寝てはならぬ」を歌った。それはテレビを見ていた世界中の人々から喝采を浴びた。ところが、しばらくしてその時のパヴァロッティは口パクだったことが判明したのである。体調不良だったらしい。驚いたのは、バックで演奏していたオーケストラも、録音に合わせて身体を動かしていたことだ。YouTubeの動画は今やかなり削除されてしまっているようだが、私の記憶では指揮者をはじめ、楽団員が音を出していないようにはとても見えなかった。それはそれで大変な努力をしたのだろう。実は、この事実が発覚して以来、私はテレビ放送されている生演奏が果たして本当に生なのか疑問を持つようになってしまった。

私をはじめ、多くの人がトリノ・オリンピック開会式のパヴァロッティに熱狂した。誰もパヴァロッティが口パクだなんて思っていなかった。なぜなら、我々は「誰も寝てはならぬ」をいとも易々と歌うパヴァロッティを知っていたからである。「3大テノール」の映像を見ても、ドミンゴやカレラスとは比較にならないほど余裕たっぷりに歌っている。そういうパヴァロッティを知っているからこそ、彼の口パクは衝撃でもあったのだが、そのパヴァロッティでも口パクをせざるを得ないとすれば、極東のアイドルが口パクになるのは驚くに当たらないとも言える。

他にもある。例えば、数年前に大流行した『のだめカンタービレ』だ。非常に面白いドラマだった。原作漫画では音を出せなかったが、テレビ版でも映画版でも存分に音を出せる。我々はそれを心ゆくまで楽しんだ。しかし、主要な登場人物は実際には音を出していないのだ。テレビ版もプロが吹き替えを行っていたし、映画版でのだめのピアノ演奏を行っていたのはラン・ランだったりする。そして我々はそれに対して別に疑問を抱いてはいない。

要するに我々の感覚を支配するものは映像なのだ。AKBが口パクだからってそれを非難することはできない。口パクに疑問を持っていた私だったが、時代はますます口パクを許容する方向に流れそうだ。そのうちに、エアバンドならぬエアオーケストラが登場するかもしれない。私はきっと喜んで見に行ってしまうだろう。

(2015年8月15日)


おまけ 朗々と歌うパヴァロッティの勇姿