カテゴリー別アーカイブ: CD試聴記

蒸留水のような音

久しぶりにイングリット・ヘブラーのモーツァルトを聴いた。といっても、全曲ではなく、第8番イ短調K310と第11番イ長調K331だけだが。

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モーツァルト
ピアノ・ソナタ全集
ピアノ:イングリット・ヘブラー
録音:1986年~1991年、ドイツ、ノイマルクト、レジデンツプラッツ
DENON(国内盤 COCQ-83689/93)

転居の時に処分せず、手許に置いたセットである。久々に聴いてみると、実にすがすがしく、みずみずしいモーツァルトだ。音を撮ったのはアンドレアス・ノイブロンナーで、蒸留水のようなピュアな音でイングリット・ヘブラーのピアノを聴かせている。まるで純粋無垢のモーツァルトだ。煌めくばかりの演奏を前にして私はK310とK331の2曲だけで満足した。

それにしても、こういう蒸留水のような音で収録されたCDには心底驚く。本格的な装置で聴けば聴くほどその純粋さを私は強く感じる。これはちょっと信じられないような体験だ。時々、この世のものではない何かを聴いているような気にもなるのである。純粋すぎて怖いのである。私はその純粋無垢な音に驚嘆するのではあるが、その是非は未だにつけられない。不思議な録音である。

(2015年9月14日)

クレンペラーのマーラー:交響曲第7番

CDはできるだけ買わずに、図書館から借りるようにしていたのだが、クレンペラーのマーラーが葛飾区にはないのである。そうなると余計に聴きたくなる。仕方なく、とうとうボックスCDを買ってしまった。目当ては交響曲第7番である。

以下、異論があるのは承知で私見を書く。

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マーラー
交響曲第7番
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:1968年9月18-21,24-28日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
EMI(輸入盤 2 48398 2)

クレンペラーがEMIに録音したのは交響曲第2番、第4番、第7番、第9番、そして「大地の歌」である。ここで問題となるのは交響曲第7番だ。クレンペラーは9日間もじっくりと時間をかけて録音している。これだけの時間を費やすことが分かっているのであれば、EMIのプロデューサーも少しは及び腰になるかもしれない。費用と、予想できるセールスを考慮すればマーラーの別の曲を録音するという選択肢があったはずだ。それにもかかわらず、交響曲第7番の録音が実現したというのは、指揮者の特に強い欲求があったことを例証する。

ところが、皆様がご存知のとおり、この交響曲第7番はマーラー演奏の歴史に残る珍盤だ。CD1枚にすっぽり収まる演奏だってあるのに、クレンペラーは延々100分をかけて演奏している。

これは他の演奏から比べれば異常としか言いようがないテンポ設定による。第1楽章から遅い。とても遅い。オーケストラもその遅いテンポで強靱かつ重量級の音を響かせる。そして、クレンペラーはそのまま第5楽章まで通すのだ。

しかし、どうだろう。クレンペラーのこのテンポはやはり異常なのだろうか。異常ではない、と私は考えるに至った。クレンペラーは最初からこのテンポを想定していたし、このテンポでこそこの曲が傑作として残る、と信じていたに違いない。なぜなら、他の演奏では第4楽章までと第5楽章の間に極端に大きな断絶があるのに、クレンペラー盤にはそれがないからである。クレンペラーはスコアを読んで、第1楽章から終楽章までつながるようにこの曲を設計し直したのだ。そして、それに必要なテンポで演奏したのだ。

交響曲第7番を私は長い間理解できずにいた。第4楽章まではマーラー的世界を堪能させてくれるこの曲は、第5楽章がまるでとってつけたようなのである。黄泉の国の音楽を奏でているはずのオーケストラは無理矢理脳天気な音楽を奏でなければならない。しかも、その理由が何もないのである。暗から明へ、苦悩から歓喜へという物語があるのであれば、途中に何らかの葛藤、闘争があってしかるべきなのに、それがないのである。なのに、いきなり明を表現し、歓喜へ到達しなければならない。そんな馬鹿な。そういう曲だと言えばそれまでなのだが、オーケストラ曲の達人であるマーラーがそのような曲を書くだろうか。また、そういう曲だとしたら、クレンペラーともあろう大指揮者がわざわざ選んで録音しようとするだろうか。いずれも答えは否だろう。

私の考えでは、クレンペラーは、この第5楽章を明でもなく、歓喜でもないように演奏したかったのだ。それこそ黄泉の国にいるままその狂気を表したかったのだ。だから、クレンペラーは端からは異常とも思えるスローテンポを第5楽章に適用したのだ。さらに、その第5楽章につながるように第1楽章から第4楽章までのテンポも決めたのだ。それがこの長大な演奏の理由なのだ。

私は録音でも実演でもこの曲を聴いてきた。奇妙奇天烈な曲だと思ってきた。今思うと、第5楽章を、どの指揮者も扱いかねていたのだろう。しかし、クレンペラー盤だけは違っている。他の指揮者の演奏は忘却の彼方に消えたが、クレンペラー盤の演奏だけは私の頭に違和感なく残った。クレンペラーのテンポは異常なのではない。他の指揮者が曲を掌中にしていなかったのだ。

・・・と私はこのCDを繰り返し聴いて確信した。

(2015年9月2日)

ヨッフムのブルックナー 交響曲第8番

昨日の続き。

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ブルックナー
交響曲全集
オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1975-80年、ドレスデン、ルカ教会
EMI(輸入盤)

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ブルックナー
交響曲第8番 ハ短調
ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1976年11月3-7日、ドレスデン、ルカ教会
EMI(国内盤 TOCE-13244)

ヨッフムといえばブルックナーである。先日、amazonでヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデンによるブルックナーがどんな評価になっているのか見てみた。概ね高い評価がつけられている。しかし、中には手厳しい指摘もある。音質面でのマイナスを指摘する声もあるし、吹奏楽器の各奏者のピッチにバラつきがあることを指摘する声もある(第8番について)。いずれも、謂われがないわけではない。

音質面では最高級の音とは言えない。特に、以前も書いたとおり第8番は爆発的な名演奏だが、この録音は全集中で最も冴えない音で収録されている。東独ETERNAのLPで聴くとかなり見通しの良い音で聴けるのに、過去に私の手許にあったCDはどれもETERNA盤に及んでいない。何となく曖昧模糊とした感じがする。8番以外でも、国内廉価盤で聴いた人は口を揃えて音の悪さを訴えていた時期があった。EMIだから致し方ないとはいえ、全く音に恵まれない全集録音である。

管楽器のピッチについては、気になる人は気になってしょうがないだろう。第8番の演奏を聴いた友人に「ひどく下手くそなオーケストラである」と斬って捨てられたこともある。

指摘事項全くごもっともなのである。ついでにいうと、8番は破綻しかけていると思う。第3楽章でも第4楽章でもヨッフムはクライマックスに向けてオーケストラを煽って強引に加速するものだから、オーケストラ、特に金管楽器が崩壊しかけている。以前私は「トランペットがぴったり指揮について行った」と書いたのだが、最近はそれもぎりぎりだったのではないかと思うようになった。金管楽器は第3楽章ではやっとのことヨッフムの指揮についていった感がするし、第4楽章ではバランスもへったくれもなく勢いで吹きまくっている気がする。私が爆発的と呼ぶのはそのためなのだが、それをヨッフムはスタジオ録音でやってのけ、プロデューサーもそれを是としてディスクをリリースしたのだから恐れ入る。完璧主義の指揮者であれば、このような録音を公式盤として世に送ることは決してしないだろう。現に、ここまで強烈で、崩壊寸前の演奏をスタジオ録音で撮って、リリースした指揮者を私は他にテンシュテットくらいしか知らない。

しかし、崩壊寸前まで追い込むからこそ名演奏が生まれるのだ。ピッチが多少合わなくても、生きた演奏であることの方が大事なのだ。ヨッフムのような指揮者とシュターツカペレ・ドレスデンのようなオーケストラ、そしてその破天荒な演奏を良しとしてそのままリリースする関係者たちすべてが揃わなければこんな録音は生まれない。もともと優秀録音ではないし、音に難があるのは認めるが、こういう録音こそ貴重なのだ。この録音がPCオーディオの時代にどんな扱い方をされるのか不明だが、せめて私が生きている間はその良さをアピールし続けたいものである。

(2015年8月23日)

ヨッフムのマイスタージンガー

カラヤン指揮シュターツカペレ・ドレスデンの「マイスタージンガー」を聴きたくなったので、図書館のCDを検索してみた。ところが、それがない。他のCDがなくても、カラヤン=ドレスデン盤だけはあるだろうと疑わなかった私はひどく落胆した。しかし、「マイスタージンガー」はどうしても聴きたかったので、代替品としてヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ盤を借りてきた。

そして、私はすっかりこの演奏に陶酔してしまった。

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ワーグナー
楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』全3幕

  • ハンス・ザックス:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
  • ジクストゥス・ベックメッサー:ローラント・ヘルマン
  • ヴァルター・フォン・シュトルツィング:プラシド・ドミンゴ
  • エヴァ:カタリーナ・リゲンツァ

オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団、合唱団、ほか
録音:1976年3-4月、ベルリン、イエス・キリスト教会
DG(国内盤 UCCG-4557/60)

フィッシャー=ディースカウは何を歌ってもフィッシャー=ディースカウだ。うまいことは認めるが、どこかの大学の先生が歌っていますという雰囲気がするので私は時にこの大歌手を敬遠したくなる。ところがどうだ、このザックスは。インテリ臭は残るものの圧倒的な貫禄ではないか。全曲をフィッシャー=ディースカウが睥睨している。これこそ本物のマイスターだ。この録音ではヴァルターをドミンゴが歌っているのも特色で、雰囲気抜群だ。

しかし、このディスクの本当の主役はヨッフムだ。爆発的な演奏ではないが、じわりじわりと盛り上がってくる。声楽陣も美しさが追求されていて、私は純粋にその美しさに打たれるのだが、どうやらそれだけではなさそうだ。この演奏にはひたひたと迫る高揚感があるのだ。それも、大変な高揚感だ。特に第3幕は陶酔を避けられない。これはヨッフムが並々ならぬ力で伴奏をつけているからだ。録音当時ヨッフムは74歳。十分にお年を召されている。しかし、ヨッフムの音楽はこの頃絶頂期でもあるのだ。この美しくも、興奮を呼ばずにはいない演奏はヨッフムの指揮によって作られているのだ。

私はクラシック音楽を聴き続けていて良かったと心から思った。CDを陶酔するほどのめり込んで聴いたのは久しぶりだった。そのように音楽を聴けること自体が私は嬉しい。離婚と転居が決まり、CDも、本も処分した時、私はオーディオ機器もいっそのこと処分し、クラシック音楽を聴くという趣味も捨てて人生をやり直そうと思っていたのだ。しかし、オーディオ機器を処分しなくて良かったのだ。音楽をこのように楽しんで聴けるのだから。音楽は私の人生の友であり、糧であり、慰めである。私はそれを再確認できて嬉しい。図書館のCDがこれほどの幸福を与えてくれるとは夢にも思わなかった。

(2015年8月22日)

ヴィヴァルディの『四季』

浅田次郎の『蒼穹の昴』を読んでいたら、中国清王朝の話なのにヴィヴァルディが登場してきてきました。Wikipediaで「乾隆帝」を見ると、右にその肖像画が表示されていますね。その絵を描いたのが『蒼穹の昴』で重要な役割を演じるイタリア人・ジュゼッペ・カスティリオーネです。彼がまだヴェネチアにいた頃、一人の女性を取り合った仲だったのがヴィヴァルディでした(その女性の件は浅田次郎の創作でしょう)。

というわけで、すっかりヴィヴァルディの気分になってしまったので、思わず図書館CDを検索しました。すると、ありました。アーヨの1959年盤が。

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ヴィヴァルディ
協奏曲集『四季』作品8
イ・ムジチ合奏団
ヴァイオリン:フェリックス・アーヨ
録音:1959年4月29日-5月6日、ウィーン
PHILIPS(国内盤 PHCP-24001)

もはや古典的録音と呼んでも差し支えがない演奏です。演奏にもCDにも貫禄があります。私が手にしたCDは紙ジャケットで、CDの番号を見ても特別な位置にあることが分かります。

少なくとも日本でのヴィヴァルディ人気を決定づけた録音はこのアーヨによる『四季』だったはずです。そもそもこの録音にかける意気込みからして普通ではなかったようです。図書館から借りてきたCDの解説書を改めてしげしげと眺めてみると、イ・ムジチはわずか43分のこの曲を8日かけて録音しています。そして演奏はオーソドックスとはこのことだと謂わんばかりの楷書であります。本当に隙がありません。何となく録音したというものでは決してないのですね。イ・ムジチによる演奏が音楽界を長く席巻した後に登場したピリオド・アプローチによる演奏をいくつも聴いた今では、もっと過激さを求めたくなるところもありますが、この録音が登場した頃は曲の真価を表す演奏としてこれ以上の録音はなかったのではないでしょうか。PHILIPSの音もいまだに古さを感じさせません。

これからヴィヴァルディが忘れ去られるとはあまり考えにくいのですが、イ・ムジチの『四季』はどうなのでしょうか。40年前、30年前ほどの圧倒的な人気はさすがにもうありませんね。あと10年、20年もすると、工夫を凝らした新しめの録音に人気を取って代わられ、それこそ忘れられていくのでしょうか。若い人たちにはイ・ムジチ自体が古めかしくなっているかもしれません。しかし、私はこうして1959年録音盤を聴くだけでも清々しさを感じます。他にも私は特に評判が良いわけでもないカルミレッリ盤(1982年録音)を気に入っていて、他の録音を聴いた後でも必ずカルミレッリ盤の良さを再確認したものでした。ずっと、しかもいくつものイ・ムジチの『四季』に接してきただけに簡単に別れ話はできません。もしかしたら、私は死ぬまでイ・ムジチの『四季』を聴き続けるのではないかという気がしてきました。それもクラシック音楽ファンの生き方なのかもしれません。

(2015年8月13日)

クレンペラー指揮の『大地の歌』

ワルターの『大地の歌』と同時にクレンペラー盤も図書館で借りていたので、追記します。

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マーラー
交響曲『大地の歌』
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団・ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
メゾ・ソプラノ:クリスタ・ルートヴッヒ
テノール:フリッツ・ヴンダーリッヒ
録音:1964年2月19-22日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
1964年11月7-8日、1966年7月6-9日、ロンドン、アビーロード第1スタジオ
EMI(国内盤 TOCE-59020)

ワルターと並んでマーラーの直弟子であったクレンペラーは、まるでワルターの向こうを張るかのように別次元の『大地の歌』を演奏・録音しています。同じ曲を演奏しているのに、よくこれだけ違うものができたものです。

ワルターはマーラーの音楽と一体化しています。ワルターはマーラーの人となりを知っているだけでなく、心の闇まで知っていたのかもしれません。その上でマーラーの音楽を理解しています。だからかもしれませんが、ワルターのマーラーはかなり主情的です。普通の聴き方をするのであれば、一度聴けば十分です。聴き手の心理が保たないのです。私は今回ワルターの『大地の歌』を何度か聴き比べしましたが、正直申しあげてワルター盤、特にウィーン・フィル盤は何度も聴くべき演奏ではないと思い知らされました。

クレンペラーはワルターと違ったアプローチをしています。音楽から距離を置いているのです。『大地の歌』は人間の燃えさかるような暗い情念が低く呻くように、そして燃えたぎるように激しく渦巻く作品ですが、クレンペラーはその中に身を置きません。このような曲であってもクレンペラーはあくまでも客観的に音符をひとつずつ確信をもって積み上げるアプローチをします。クレンペラー盤の演奏はワルター盤と違って、カチッとした外形を保ったように私は感じているのですが、これは音楽全体がクレンペラーの冷徹で強固な意志に貫かれているからだと思っています(マーラーの場合でも、そのようにして演奏された交響曲第9番は別格の演奏でした)。交響曲第9番のような形式をもつ曲だけではなく、『大地の歌』のような曲でもそのスタイル、アプローチ方法を変えずに曲を提示できるクレンペラーは本当に偉大な指揮者だったのですね。

ところで、このクレンペラー盤は1964年と1966年に録音されています。かなり長期にわたった録音ですが、幸運にもクリスタ・ルートヴッヒとフリッツ・ヴンダリッヒはそのまま録音に参加できました。しかし、オーケストラは、フィルハーモニア管とニュー・フィルハーモニア管の両方が並んでいます。フィルハーモニア管の実質的なオーナーであったウォルター・レッグが1964年3月10日に一方的に解散宣言をしたためです。つまり、解散宣言騒動の前後に録音が行われたのです。オーケストラの名称が変わっただけではありません。録音のプロデューサーはウォルター・レッグからピーター・アンドリーに、録音技師はダグラス・ラーターからロバート・グーチに代わっています。これは危ういところで命を繋いでもらえた運のいい録音であるわけですが、演奏からも、収録された音からもその間の継ぎ接ぎの様子は窺えません。目の眩むような色彩感を捉えきったEMI最高ランクの音と併せ、これほど奇跡的という言葉が似合う録音はありません。

(2015年8月10日)

ワルター指揮の『大地の歌』

ワルターが指揮する『大地の歌』を聴きたくなったのでウィーン・フィル盤とニューヨーク・フィル盤を図書館で借りてきました。さすがに戦前の録音は図書館では架蔵していませんでした。残念。

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マーラー
交響曲『大地の歌』
『リュッケルトの詩による5つの歌曲』から3曲
コントラルト:カスリーン・フェリアー
テノール:ユリウス・パツァーク
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1952年5月15-16日(大地の歌)、1952年5月20日(リュッケルト)、ウィーン、ムジークフェラインザール
DECCA(国内盤 UCCD-4417)

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マーラー
『大地の歌』
メゾ=ソプラノ:ミルドレッド・ミラー
テノール:エルンスト・ヘフリガー
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1960年4月18,25日、ニューヨーク、マンハッタンセンター
SONY(国内盤 28DC 5055)

ワルターはマーラーの愛弟子であるばかりではなく『大地の歌』の初演者でもあることから、ワルターの『大地の歌』録音は音楽ファンの中で決定盤的な位置づけにありました。

1952年のウィーン・フィル盤は、モノラル録音でありながらDECCAの優れた録音技術によってステレオ録音と比べても殆ど遜色がない音が収録されています。極彩色の大音響で開始される第1楽章からして驚異的であります。それを演奏するウィーン・フィルがこれまた立派です。合奏部分はもちろんのこと、この曲に登場する木管楽器のソロが極めつけの音を聴かせます。そして歌手です。ソロを努めるカスリーン・フェリアーとユリウス・パツァークには長い間厚い賛辞が寄せられてきました。これほど完成度の高い録音が60年以上も前に行われたことに驚きを禁じ得ませんし、ワルターの遺産としてこの録音を聴くことができる我々は幸福であると思います。

それに比べると、1960年のニューヨーク・フィル盤はやや日陰者扱いのような気がします。「マーラー=ワルター=ウィーン・フィル」という三位一体のようなブランドがニューヨーク・フィルには求められないからでしょう。第6楽章の「告別」を歌うミルドレッド・ミラーもカスリーン・フェリアーほどの賛辞を受けていないように思えます。しかし、私はこのニューヨーク・フィル盤はウィーン・フィル盤と比べて何ら劣るものではないと思っています。わずか2日間でこの曲を録音したワルターですが、マーラーの世紀末的な音響や情緒纏綿とした響きを聴くと、ニューヨーク・フィルをワルターがウィーン・フィルと同様に完全に掌中にしていることが窺えます。おそらく録音とは別に実演のための綿密なリハーサルがあったのではないかと私は推測しております(検証しておりませんので、想像の域を出ません)。

私はいずれの録音も優れていると思いますし、それぞれから大きな感銘を受けます。ただし、一長一短はあると感じています。1952年盤は『大地の歌』の歴史の一部となるような重みを聴き手に感じさせます。それゆえに説得力があるのです。しかし、どうしてもモノラル録音であることの制約はあるのです。DECCAの類い稀な録音技術があっても、肝心の第6楽章で私は物足りなさを感じます。それはオーケストラによる長い間奏部分でオーケストラの強奏による重い響きが聴き手を押しつぶす場面です。ここばかりは1960年ステレオ録音に叶わないのです。1960年盤を聴くと、この肺腑をえぐるような響きに圧倒されるのです。身体で感じるその響きのすごさは認めなければなりません。とはいえ、どちらもワルター畢生の遺産です。ありがたく拝聴するに限ります。

ここからは余談です。

曲目を記述する際には、国内盤の表記をそのまま転記しました。1952年盤は 交響曲 『大地の歌』と記載してあります。一方、1960年盤は 交響曲 とはどこにも記載がありません。逆に交響曲とは明記しなかった1960年盤の解説書ではアルマ=マーラーの言葉を引用し、交響曲だと説明しています。これに対し、曲目に交響曲と記載した1952年盤では「マーラーはこの『大地の歌』を交響曲として扱った」というマイケル・ケネディの出典不明の言葉が掲載されていますが、アルマ=マーラーの言葉は引用されていません。そして、CDのジャケットでは、両盤ともに「Symphony」という表記はありません。こうなると何が何だか分かりません。以前から気になっていたのですが、『大地の歌』は、交響曲と強弁しなければ何か問題があるのでしょうか? 『大地の歌』は『大地の歌』であり、別に交響曲でなくとも私は構いません。どうしてもアルマ=マーラーの言葉を引き合いに出したりして交響曲だと主張するのは、奇妙な気がします。歌曲集では格好良くないということなのでしょうか? いや、もしかすると、交響曲こそが最高の音楽形態であって、それ以外は格が下がるのだとでもいいたいのでしょうか? 我らのマーラーが作った曲なのだから最高の音楽形態である交響曲でなければ気が済まないとする音楽関係者がいるのでしょうか。まさかね。

(2015年8月9日)

ラフマニノフの交響曲第2番に聴くDECCA録音

図書館のCDにアシュケナージが指揮したラフマニノフの交響曲第2番があるのを発見したので借りてきました。

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ラフマニノフ
交響曲第2番 ホ短調 作品27
交響詩「死の島」作品29
ヴラディミール・アシュケナージ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:交響曲第2番=1983年1月、死の島=1981年9月
DECCA(国内盤 UCCD-50076)

真夏にこの曲を聴くと暑っ苦しくて耐えられないかもしれないという不安はCDを聴き始めてすぐに払拭されました。それは、このCDの音響があまりにも美しく、陶酔させられるからです。この録音を聴いて、その音に魅了されないなどというクラシックファンがいるでしょうか。この音で聴けるからこそ、この曲が精彩を放つのです。

ラフマニノフの交響曲第2番は、実演で聴くと長大なだけで退屈することがあります。ところが、アシュケナージ盤は音響だけで聴かせるという離れ業をやってのけます。それがアシュケナージ一人の功績かといえばとてもそうだとは言えません。コンセルトヘボウ管という希代のオーケストラとDECCAの録音スタッフにも多くを負っているのです。

私の世代はPHILIPSやDECCAの録音によってコンセルトヘボウ管の音を知りました。この二つのレーベルが聴かせた音こそがコンセルトヘボウの音でした。PHILIPSとDECCAだけがコンセルトヘボウというホールの特性とオーケストラの響きを完全に掌握した録音を生み出したのです。特にDECCAの録音は美しかった。美しすぎるとさえ思いました。だから、もしかすると、私が聴いていたのはコンセルトヘボウにおけるコンセルトヘボウ管の音ではなく、DECCAが作ったコンセルトヘボウ管の音なのではないかと疑念を持ったこともありました。しかし、実際にコンセルトヘボウでこのオーケストラを聴いた時に、その疑念は解消されました。

では、どのレーベルも、コンセルトヘボウでコンセルトヘボウ管の録音を行えば成功するのかといえば、そんなことはないのです。DGもいくつかの録音をコンセルトヘボウで行いましたが、このレーベルは結局ホールの特性を全く掴むことができなかったようでした。DGのコンセルトヘボウ録音は音響面では失敗作です。そして、もうひとつ。RCOLiveです。コンセルトヘボウ管の自主制作盤でありながら、音質面では今ひとつでした。DECCAのスタッフは単に何となく名録音を作れたのではなく、マイク・セッティングのノウハウなど、彼らにしかできなかった何かがあったのでしょう。

しかし、今やCDの録音自体がなくなってしまいました。アシュケナージのラフマニノフは、コンセルトヘボウでのコンセルトヘボウ管の音を最高品質で楽しめるCDとして骨董品的価値を持つに至りました。現在にではなく、30年も前に最高峰があるというのは寂しいものです。

(2015年8月3日)

ブランデンブルク協奏曲第5番

ルドルフ・ゼルキンのピアノを聴きたくなったので、バッハのブランデンブルク協奏曲を図書館から借りてきました。

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バッハ
管弦楽組曲(全4曲)
ブランデンブルク協奏曲(全6曲)
パブロ・カザルス指揮マールボロ音楽祭管弦楽団
録音:1964年6月(ブランデンブルク協奏曲第5番)
SONY(国内盤 SICC 1212-4)

なぜゼルキンのピアノを聴くのに、よりによってブランデンブルク協奏曲なのかという疑問があるかもしれませんが、私の中では全く問題がないのです。ゼルキンの弾くブランデンブルク協奏曲第5番のピアノが天下一品であるためです。

ブランデンブルク協奏曲第5番は事実上のチェンバロ協奏曲です。私はチェンバロが参加する演奏をたくさん聴いてきました。そしてある日、ゼルキンが弾くこの曲に出会って完全にノックアウトされたのです。ブランデンブルク協奏曲第5番はチェンバロでなく、ピアノで聴く方が断然かっこいい。それをゼルキンで聴くともっとかっこいいのです。冒頭からゼルキンのピアノは存在を明確にアピールしていますが、やはり第1楽章の長大なソロが圧巻です。完全にゼルキンの独壇場で、ゼルキンはチェンバロでは味わうことのできない壮麗かつ輝かしいピアノの音でバッハの目くるめく宇宙を展開しています。私は最初に聴いた時、あまりの至福に「音楽って本当に素晴らしい」と単純に感動したものです。その感想は今も変わりません。ゼルキンはこの録音当時61歳です。彼はマールボロ音楽祭を創設し、主宰したまさにその人です。自分のホームグラウンドともいうべき場で演奏するゼルキンの音楽は確信に満ちています。本来この録音ではカザルスを聴くべきなのでしょうが、私にとってはこの曲だけはゼルキンの演奏なのです。

ところで、私はブランデンブルク協奏曲のCDを手にするといつも第5番から聴き始めています。例外はありません。もちろん、第1楽章のソロをすぐに聴きたいからです。そのソロが始まるまで、私はひたすら待ち続けます。今か今かと待ち続けるのです。だからどのCDでも頭出しができないことにずっと不満でした。この曲最大の聴きどころなのですから。インデックスをつけるのは簡単だろうと思って期待していたのですが、結局そのようなCDは1枚も現れませんでした。私のような聴き方をする音楽ファンは他にいなかったのでしょうか? おっと、そういえば、古典派以降の大作曲家による協奏曲だってソロやカデンツァは頭出しされていませんね。ブランデンブルク協奏曲の、しかも第5番だけが特別扱いされるわけがないですよね。残念!

(2015年7月30日)

カイルベルトの『ワルキューレ』

図書館CDを検索していたら、カイルベルトの『ワルキューレ』が出てきたので早速借りてきました。

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ワーグナー
楽劇『ワルキューレ』全曲
ヨーゼフ・カイルベルト指揮バイロイト祝祭管弦楽団

  • ジークムント:ラモン・ヴィナイ
  • ジークリンデ:グレ・ブロウェンスティーン
  • ブリュンヒルデ:アストリッド・ヴァルナイ
  • フンディング:ヨーゼフ・グラインドル
  • ヴォータン:ハンス・ホッター

録音:1955年7月25日、バイロイト祝祭劇場
TESTAMENT(国内盤 UCCN 1067/70)

この録音が発掘されて大評判になったのは10年近く前でしたが、長らく聴きたいと思いつつも手許不如意のため購入できませんでした。しかし、図書館では無料で借りられるではないですか。何とありがたいのでしょう。図書館でクラシック音楽のCDを借りることを私は葛飾区に来るまで思ってもみませんでした。こうなったら葛飾区のクラシックCDを片っ端から聴いていく所存です。

このCDの演奏についてはもう語り尽くされたという気がしますが、やはり素晴らしいですね。力強いオーケストラの伴奏に乗って登場する歌手たちの神々しさったらありません。史上初のバイロイトでのステレオ録音だというのに、音質面での完成度もすごい。バイロイト・ピットの不思議な音響を体感できます。

私はこのCDを5回も通して聴きました。完全に堪能したと言えます。夢のような第1幕、長いはずの第2幕があっという間に終わる至福、異常に盛り上がる第2幕の最後、ドラマチックさに戦く第3幕。私の脳内は「ワルキューレ」一色になりました。

このような録音をありがたがって聴くのは、単なるノスタルジーではないのかと私は全曲を聴き終える度に自問しました。もしかしたらそうなのかもしれません。そうでないのかもしれません。私の中では、この録音はヴィーラント・ワーグナー時代のバイロイトで、ヴィーラントが選んだキャストで行われた特別な演奏です。これと同等の条件をもう一度揃えることなどできないのではないでしょうか。そしてバイロイト初のステレオ録音に挑戦したDECCAのスタッフも万全の仕事をしたはずです。こんな録音がそう何度も可能だとは思えません。私に古い時代へのノスタルジーがないとは言えません。しかし、決してそれだけでこの録音が多くのファンの支持を集めたわけではないとこの録音を聴く度に思った次第です。

(2015年7月26日)

アバドとアルゲリッチのモーツァルト

図書館CD第5弾です。モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を無性に聴きたくなったので図書館データベースを検索したところ、アバド指揮モーツァルト管弦楽団、ピアノはアルゲリッチという願ったり叶ったりというCDがありました。

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モーツァルト
ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K.503
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
クラウディオ・アバド指揮モーツァルト管弦楽団
ピアノ:マルタ・アルゲリッチ
録音:2013年3月、ルツェルン音楽祭におけるライブ録音
DG(国内盤UCCG-1649)

このCDを喜び勇んで借りてきたものの、CDプレーヤーにかけて聴いているうちに私はどんどんしんみりしてきました。どんどんというより、第25番の前奏からしんみりします。音量を絞って聴いているせいかと思い、大きな音で聴いてみましたが、やはりしんみり。私の気持ちが沈んでいるのだろうとも考え、別の日にも聴いてみましたが、やはりしんみり。何度繰り返して聴いてみてもしんみりしてしまいました。第1楽章はもうやりきれない気がするほどです。別にこの曲が私にとってしんみり聞こえるからといって問題とするには当たらないのですが、何とも奇妙な現象です。気になってamazonのレビューを見ると、そこには絶賛コメントが掲載されています。そして、誰も「しんみりする」などとは書いていません。

私はいろいろ理由を考えてみました。弦楽器奏者の数が絞られているからだとか、ぶつ切りのフレージングのせいだとか。はたまたアルゲリッチのピアノに焦点が当てられた録音になっているからだとか。しかし、どうも決定打がありません。謎は深まるばかりです。

私にとって第25番は豪奢な曲です。曲に対する自分の感じ方が変わったのかと思ってアバド指揮ウィーンフィル、ピアノ演奏はグルダという昔懐かしのCD(DG、1976年録音)を借りてきて聴いてみると、こちらは紛れもなく豪奢なモーツァルトでした。ということは、他でもない、このアバドとアルゲリッチの演奏から受ける印象が特別だということです。

そこに至って初めて私は自分がこのCDに音楽ではなく、物語を聴いてしまったのだと理解しました。つまり、アバドとアルゲリッチに関する物語であります。例えば、解説書にも書いてあるとおり、アバドのDGへの初録音はアルゲリッチとのラヴェルとプロコフィエフの協奏曲録音でした(1967年録音)。そして事実上のアバド最後の録音がこのモーツァルトなのです。共演者はまたもアルゲリッチだったのです。私はそんなことを意識しないで音楽を聴くことができると思っていたのですが、そうではないのですね。CDの解説書の中にも、CDケースの裏にも若かりし頃の2人の写真が掲載されています。その写真を見ると、万年青年に見えたアバドは本当に青年ですし、アルゲリッチは妖気を漂わせる美人ピアニストという雰囲気です。一方、CDジャケット写真には殆ど骨と皮になってしまったアバドと白髪の老婆となったアルゲリッチが写っているのです。これを見ると、私は時の流れを強く感じてしまうのです。最後にアルゲリッチは煌めくようなピアノをアバドにプレゼントしたのだ、そしてスーパースターであったアバドは死んだのだ、と心のどこかで思ったのでしょう。

私はDGの術中にまんまとはまったのかもしれません。もしこのピアノ協奏曲第25番を聴いて私と同じように感じた人がいたらぜひ感想を伺ってみたいものです。

(2015年7月16日)

ブレンデルのバッハ

葛飾区図書館CD第4弾。検索していたら懐かしのCDがあったので思わずクリックしました。ブレンデルのバッハです。

bach_brendel

ヨハン・セバスチャン・バッハ

  • イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971
  • コラール・プレリュード「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ BWV639」(ブゾーニ編)
  • プレリュード(幻想曲)BWV922
  • 半音階的幻想曲とフーガ BWV903
  • コラール・プレリュード「来たれ、異教徒の救い主よ BWV659」(ブゾーニ編)
  • 幻想曲とフーガ BWV904

ピアノ:アルフレッド・ブレンデル
録音:1976年5月27日、ロンドン、ウォルサムストウ
PHILIPS(国内盤 32CD-153)

若い頃このCDをよく聴いたものです。その頃は何も疑問を感じることなく聴いていたのですが、クラシック音楽を一通り聴いてきたこの歳になって改めてこのCDを手にしてみると、実に奇跡的な録音だったのだと分かります。解説書冒頭には、ブレンデルがこの録音をした1976年時点でもブレンデルが演奏会でバッハを弾くことは珍しいと記載されています。その解説書の中でブレンデルは、バッハは現代のコンサートレパートリーに残すべきだと主張しています。そして現代のコンサートホールで演奏するには、古楽器ではなく、現代のピアノが適していると付け加えます。それは古楽器演奏の成果を十分吟味しての発言でした。さらに、ブレンデルはエトヴィン・フィッシャーのバッハ演奏から自由になり、自分のバッハ演奏ができるようになるのを待ったと語ります。つまり、このCDはブレンデルとしては満を持してのバッハ録音だったのです。

では、その後にブレンデルがバッハ録音を多数残したのかというと、そのような事実はありません。ブレンデルにはバッハ「だけ」を収録した録音はこのCD以外にないのです。私が若かった頃は、そのうちにブレンデルのバッハ録音がもっと出てくるだろうと高をくくっていたのですが、光陰矢の如しとはよく言ったもので、あっという間にブレンデルは引退しました。告別コンサートではコラール・プレリュード「来たれ、異教徒の救い主よ BWV659」を弾いていますが、バッハの記念碑的な鍵盤作品の数々は結局録音されていないのです。膨大な録音をし、再録音も多数残したブレンデルであったのに。ブレンデルの「平均律クラヴィーア曲集」「イギリス組曲」「フランス組曲」「パルティータ」「ゴルトベルク変奏曲」などの独奏曲はもちろん、ピアノ(クラヴィーア)協奏曲のような名曲も録音されることはありませんでした。「ゴルトベルク変奏曲」は「変奏曲」録音の中で予定が組まれていたそうですが、実現しなかったのは惜しいです。本当に惜しい。

そうなると、このCDに収録された曲目は、ブレンデルにとってよほど特別なものであったと考えられます。他の傑作を差し置いて弾きたかった曲ばかりなのでしょう。このバッハ録音に収録された曲は、イタリア協奏曲を除けば、やや陰鬱なものが多く、私は初めて耳にした際には気が滅入ったものでした。しかし、その後にその多彩な響きに魅せられ、さらにそのロマンチックさに溺れるようになったのです。今改めて聴いてみると、そのロマンチックさは並大抵のものではありません。「半音階的幻想曲とフーガ BWV903」はその極致と言えます。ブレンデルはこの曲でバッハ演奏でのロマンチシズム実現を極めてしまったのだと思わせられます。さらに、終曲の「幻想曲とフーガ BWV904」では駄目押しをしています。さすがブレンデルは徹底しています。もうこれ以上の表現はできないというところまで来てしまったのですね。

ここからは私の勝手な想像ですが、さしものブレンデルも、このような演奏を「平均律クラヴィーア曲集」や「イギリス組曲」「フランス組曲」「パルティータ」などで聴衆の前で繰り広げ、録音するというのは憚られたのはないでしょうか。もしくはPHILIPSが首を縦に振らなかったのかもしれません。時代は古楽器演奏を礼賛していましたから、ブレンデルが確信に満ちた演奏をしたとしても厳しい評価がなされた可能性があります。しかし、そうした時代の風潮はこの超絶的にロマンティックなバッハ演奏を埋もれさせることになりました。ブレンデルが弾いた、とびきりロマンティックな「パルティータ」を私はぜひとも聴いてみたいのですが、もはやブレンデルは引退しているのです。せめてこのCDを聴きながら想像し、思いを馳せるしかありません。

(2015年7月14日)


松本武巳さんのレビューを追加しました。こちらをご覧ください。
(2015年7月20日)

ピアノマニア

映画館で観ることができなかった『ピアノマニア』をDVDで観ました。

pianomania_DVD

これは、スタインウェイのピアノ調律師シュテファン・クニュップファーが、バッハの『フーガの技法』を録音するエマールのためにピアノを選定し、調律をしていく過程を中心にしたドキュメンタリーです。

この映画を観れば、私のような者でも調律師が少しずつピアノを調律する度に千変万化する音色を確認できるのではないかと淡い期待を寄せていたのですが、それはすぐに裏切られました。ピアノの違いによる音の違いは判別できますが、調律の前後での判別はそう簡単ではありませんでした。その場にいれば、微細な違いでも容易に聴き取れたのかもしれませんが、DVDというフォーマットを経由した後だからなのか、私の耳ではあまり感知できないのです。何10年もピアノ曲を聴き続けてきた私の耳はその程度のものだったのですね。私は自分の耳に落胆しました。

そうなってしまうのは、一流ピアニストたちの調律師に対する要求水準が尋常でないほど高いからなのかもしれません。要求される音のイメージは言葉としてなら私にも理解できます。しかし、調律師はそれを具体的にどうやって実現していくのでしょうか。もしかしたらピアニストは無理難題を突きつけているのかもしれませんが、調律師は「それは難しいね」などと否定的な言辞は一切発することなく黙々と調律します。それでもピアニストは満足しません。そして調律師はまた作業を繰り返すわけです。ピアニストの演奏する日時に合わせる必要もあるでしょうから時間的な制約もきついに違いありません。これが仕事だとはいえ、なかなか辛そうです。映画の中では、この仕事をしていて精神を病む人がいると説明がありましたが、それも頷けます。

どのような仕事でも、それを評価するのは自分ではありません。顧客であります。いかに芸術的に優れた調律師であっても、その仕事の成否は、顧客であるピアニストのひと言で決まってしまいます。ノーを突きつけられた日にはどのような気持ちになるのでしょう。よほどのピアノマニアでなければ続けられないでしょう。このDVDのタイトルが『ピアノマニア』となっているのにはそういった理由があるのだと思います。

しかし、その一方で、調律師の仕事がなければピアニストは自分が満足する音でピアノを弾くことはできないのです。労多い仕事ですが、それだけにその仕事がピアニストに認められ、賞賛された時には大変な満足を得ることができそうです。そして調律師の仕事は演奏会場の聴衆や、CDを聴いた人の耳に刻印されるのです。それはピアノマニアである調律師への勲章なのでしょうね。

(2015年7月7日)

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に聴くカデンツァは

CD欠乏状態になって、図書館でCDを借りてくるようになった私がよほど哀れに見えたのか、先日友人がCD持参で我が新居に遊びに来てくれました。そのCDの中には下記のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲がありました。

CDジャケット

ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
ヴァイオリン:ヴォルフガング・シュナイダーハン
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年4月29-30日、ベルリン、イエス・キリスト教会
DG(タワーレコード 国内盤 PROC-1444)

カップリング曲
ヨハン・セバスチャン・バッハ
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
ヴァイオリン:ヴォルフガング・シュナイダーハン
録音:1955年1月12-15日、ウィーン、コンツェルトハウス、モーツァルトザール

このヴァイオリン協奏曲はLPでは大変なレアものだといいます。また、1959年録音なのにLPにはモノラルしかないのだとか。LP制作時に何か事故でもあったらしいのです。DGもわざわざステレオの時代にモノラル録音盤を残すわけにはいかなかったのか、全く同じ組み合わせで1962年に再録音をします。そちらはもちろんステレオでリリースされました。

奇妙なのは、タワーレコードから発売されたこのCDがステレオだということです。どこからステレオ音源が出てきたのでしょう? 何か事故でもあってステレオのテープが失われていたのではなかったのですかと好事家から疑問の声が聞こえてきそうです。もう時効でしょうから、何があったのか関係者が証言しても良さそうですね。

そうしたことは考古学に興味がある方々にお任せして私は演奏を楽しむことにします。

友人が貸してくれたこのベートーヴェンは、質実剛健の極みでした。タワーレコードの解説には、シュナイダーハンの演奏がロマンティックだと書いてありますが、ヨッフム指揮ベルリン・フィルは大変な硬派です。にこりともしません。完全に仏頂面のベートーヴェンであります。私にはシュナイダーハンのヴァイオリンもあまりロマンティックには聞こえません。そんなことを考えながらCDを聴いていると、突然妙な音楽が始まりました。第1楽章のカデンツァです。かなり斬新であります。ヴァイオリンとティンパニが掛け合いをやったりしています。しかもなかなか長大で、延々と楽しませてくれるではないですか。今までずっと仏頂面のベートーヴェンだと思っていたのですが、ここに来て様相は一転し、大娯楽作品に変貌です。このカデンツァがベートーヴェンの曲風に合っているかどうかは若干疑問もあるのですが、聴き手の度肝を抜く演奏という意味では実に立派です。カデンツァを弾くならこのくらいのことはやってほしいものです。

このカデンツァはシュナイダーハンが、ベートーヴェン自身がヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲として編曲した際に作ったカデンツァを元に作り直したものらしいです。なるほど、そうなるとかなり由緒正しいカデンツァだということになりますね。しかし、別に由緒正しくなくてもいいのです。演奏家が自作の面白いカデンツァを聴かせてくれるのならば。私が協奏曲録音を聴いていて常々不満に思うことは、カデンツァが演奏家の自作でない場合が殆どだということです。せっかく作曲者が演奏者にカデンツァを委ねているのですから、演奏者毎に違ったカデンツァがあって然るべきです。ところが、そんなことをする演奏家は今時あまりいません。私は以前An die Musikで、アンドラーシュ・シフが弾いたカデンツァについて書いたことがありましたが、それが珍しかったからです。クラシック音楽は伝統芸能だから仕方がないとしても、やはり死んだ音楽なのだとあきらめの気持ちが私にはあります。だから、私はこういう演奏を聴くと無性に嬉しいです。私にとっては久々に聴く大ヒットCDでした。

このCDを貸してくれた友人には深く感謝します。また楽しいCDを持ってきてくれることを期待します。自分で買いなさいと言われそうですが。

(2015年6月25日)

図書館CDで聴く『千人の交響曲』

葛飾区図書館シリーズ第3弾です。まさかシリーズになるとは自分でも思っていませんでしたね。今回のCDはショルティが指揮したマーラーの交響曲第8番、通称『千人の交響曲』であります。

CDジャケット

マーラー
交響曲第8番『千人の交響曲』
ショルティ指揮シカゴ交響楽団、他多数
録音:1971年8-9月、ウィーン、ゾフィエンザール
DECCA(国内盤 POCL-6001)

この曲を生で聴くと、第1部における途方もない音量に驚きます。とんでもない音が前からどっと押し寄せてくるのです。それはベートーヴェンの『第九』の比ではありません。もう圧倒的だし、圧倒されるのが正しい聴き方だと思います。

CDで聴く時にはどうするか。できれば盛大に音量を上げて聴きたいところです。しかし、マンション暮らしになるとそれは容易にはできません。下手をすると退去を命じられるかもしれませんから。

転居後の私のアンプはフルに性能を発揮しているとは言えません。私の使っているGoldmundのプリアンプでは音量が数字で表記されます。一軒家のオーディオルームで使っていた際にはその数値は42から50くらいまでにしていました。オーディオルームは3階にあり、近所の家とはどことも接していませんでした。それでも窓は二重にしてなるべく音が外に漏れないようにしていました。しかるに、今度の部屋はマンションの最上階にあるので、上の部屋を気にせずとも、隣と下の部屋には気を配らねばなりません。すると、42から50などという音量でCDを聴くということは不可能になります。実際にはボリューム位置は22から30というところです。

その音量でショルティの『千人』を聴けるのか。それがしっかり聴けるのであります。貧相な感じは全くしません。小さい音でも痩せた音にはならず、演奏の細部まで明瞭に聞こえます。これにはちょっと驚きました。静かな環境に恵まれたということもあるのでしょうが、やはりDECCAの音作りがすごいのです。DECCA録音は、安物の粗末な再生機器でも満足しうる音質で聞けることは若い頃から知ってはいましたが、小音量でもよく聴かせてくれます。こういうのを本当の名録音というのでしょう。一部のレーベルの、大きな部屋で大音量再生することを前提とするCDは、いくらオーディオマニアの評判が良くても名録音だとは言えないと思っています。

私は改めてDECCAの録音スタッフを確認してみました。プロデューサーにデヴィッド・ハーヴェイ、録音エンジニアにケネス・ウィルキンソンとゴードン・パリーの名前が掲載されています。きっと彼らは、極東の島国でウサギ小屋に住むクラシックファンは大音量再生などできないことを知っていたのでしょう。さすがというほかありません。

ということで、マンションの一室ででもクラッシック音楽を鑑賞できることがよく分かりました。『千人の交響曲』が聴けるのですから、安心であります。

(2015年6月24日)