ブレンデルのバッハ

葛飾区図書館CD第4弾。検索していたら懐かしのCDがあったので思わずクリックしました。ブレンデルのバッハです。

bach_brendel

ヨハン・セバスチャン・バッハ

  • イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971
  • コラール・プレリュード「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ BWV639」(ブゾーニ編)
  • プレリュード(幻想曲)BWV922
  • 半音階的幻想曲とフーガ BWV903
  • コラール・プレリュード「来たれ、異教徒の救い主よ BWV659」(ブゾーニ編)
  • 幻想曲とフーガ BWV904

ピアノ:アルフレッド・ブレンデル
録音:1976年5月27日、ロンドン、ウォルサムストウ
PHILIPS(国内盤 32CD-153)

若い頃このCDをよく聴いたものです。その頃は何も疑問を感じることなく聴いていたのですが、クラシック音楽を一通り聴いてきたこの歳になって改めてこのCDを手にしてみると、実に奇跡的な録音だったのだと分かります。解説書冒頭には、ブレンデルがこの録音をした1976年時点でもブレンデルが演奏会でバッハを弾くことは珍しいと記載されています。その解説書の中でブレンデルは、バッハは現代のコンサートレパートリーに残すべきだと主張しています。そして現代のコンサートホールで演奏するには、古楽器ではなく、現代のピアノが適していると付け加えます。それは古楽器演奏の成果を十分吟味しての発言でした。さらに、ブレンデルはエトヴィン・フィッシャーのバッハ演奏から自由になり、自分のバッハ演奏ができるようになるのを待ったと語ります。つまり、このCDはブレンデルとしては満を持してのバッハ録音だったのです。

では、その後にブレンデルがバッハ録音を多数残したのかというと、そのような事実はありません。ブレンデルにはバッハ「だけ」を収録した録音はこのCD以外にないのです。私が若かった頃は、そのうちにブレンデルのバッハ録音がもっと出てくるだろうと高をくくっていたのですが、光陰矢の如しとはよく言ったもので、あっという間にブレンデルは引退しました。告別コンサートではコラール・プレリュード「来たれ、異教徒の救い主よ BWV659」を弾いていますが、バッハの記念碑的な鍵盤作品の数々は結局録音されていないのです。膨大な録音をし、再録音も多数残したブレンデルであったのに。ブレンデルの「平均律クラヴィーア曲集」「イギリス組曲」「フランス組曲」「パルティータ」「ゴルトベルク変奏曲」などの独奏曲はもちろん、ピアノ(クラヴィーア)協奏曲のような名曲も録音されることはありませんでした。「ゴルトベルク変奏曲」は「変奏曲」録音の中で予定が組まれていたそうですが、実現しなかったのは惜しいです。本当に惜しい。

そうなると、このCDに収録された曲目は、ブレンデルにとってよほど特別なものであったと考えられます。他の傑作を差し置いて弾きたかった曲ばかりなのでしょう。このバッハ録音に収録された曲は、イタリア協奏曲を除けば、やや陰鬱なものが多く、私は初めて耳にした際には気が滅入ったものでした。しかし、その後にその多彩な響きに魅せられ、さらにそのロマンチックさに溺れるようになったのです。今改めて聴いてみると、そのロマンチックさは並大抵のものではありません。「半音階的幻想曲とフーガ BWV903」はその極致と言えます。ブレンデルはこの曲でバッハ演奏でのロマンチシズム実現を極めてしまったのだと思わせられます。さらに、終曲の「幻想曲とフーガ BWV904」では駄目押しをしています。さすがブレンデルは徹底しています。もうこれ以上の表現はできないというところまで来てしまったのですね。

ここからは私の勝手な想像ですが、さしものブレンデルも、このような演奏を「平均律クラヴィーア曲集」や「イギリス組曲」「フランス組曲」「パルティータ」などで聴衆の前で繰り広げ、録音するというのは憚られたのはないでしょうか。もしくはPHILIPSが首を縦に振らなかったのかもしれません。時代は古楽器演奏を礼賛していましたから、ブレンデルが確信に満ちた演奏をしたとしても厳しい評価がなされた可能性があります。しかし、そうした時代の風潮はこの超絶的にロマンティックなバッハ演奏を埋もれさせることになりました。ブレンデルが弾いた、とびきりロマンティックな「パルティータ」を私はぜひとも聴いてみたいのですが、もはやブレンデルは引退しているのです。せめてこのCDを聴きながら想像し、思いを馳せるしかありません。

(2015年7月14日)


松本武巳さんのレビューを追加しました。こちらをご覧ください。
(2015年7月20日)

ピアノマニア

映画館で観ることができなかった『ピアノマニア』をDVDで観ました。

pianomania_DVD

これは、スタインウェイのピアノ調律師シュテファン・クニュップファーが、バッハの『フーガの技法』を録音するエマールのためにピアノを選定し、調律をしていく過程を中心にしたドキュメンタリーです。

この映画を観れば、私のような者でも調律師が少しずつピアノを調律する度に千変万化する音色を確認できるのではないかと淡い期待を寄せていたのですが、それはすぐに裏切られました。ピアノの違いによる音の違いは判別できますが、調律の前後での判別はそう簡単ではありませんでした。その場にいれば、微細な違いでも容易に聴き取れたのかもしれませんが、DVDというフォーマットを経由した後だからなのか、私の耳ではあまり感知できないのです。何10年もピアノ曲を聴き続けてきた私の耳はその程度のものだったのですね。私は自分の耳に落胆しました。

そうなってしまうのは、一流ピアニストたちの調律師に対する要求水準が尋常でないほど高いからなのかもしれません。要求される音のイメージは言葉としてなら私にも理解できます。しかし、調律師はそれを具体的にどうやって実現していくのでしょうか。もしかしたらピアニストは無理難題を突きつけているのかもしれませんが、調律師は「それは難しいね」などと否定的な言辞は一切発することなく黙々と調律します。それでもピアニストは満足しません。そして調律師はまた作業を繰り返すわけです。ピアニストの演奏する日時に合わせる必要もあるでしょうから時間的な制約もきついに違いありません。これが仕事だとはいえ、なかなか辛そうです。映画の中では、この仕事をしていて精神を病む人がいると説明がありましたが、それも頷けます。

どのような仕事でも、それを評価するのは自分ではありません。顧客であります。いかに芸術的に優れた調律師であっても、その仕事の成否は、顧客であるピアニストのひと言で決まってしまいます。ノーを突きつけられた日にはどのような気持ちになるのでしょう。よほどのピアノマニアでなければ続けられないでしょう。このDVDのタイトルが『ピアノマニア』となっているのにはそういった理由があるのだと思います。

しかし、その一方で、調律師の仕事がなければピアニストは自分が満足する音でピアノを弾くことはできないのです。労多い仕事ですが、それだけにその仕事がピアニストに認められ、賞賛された時には大変な満足を得ることができそうです。そして調律師の仕事は演奏会場の聴衆や、CDを聴いた人の耳に刻印されるのです。それはピアノマニアである調律師への勲章なのでしょうね。

(2015年7月7日)

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に聴くカデンツァは

CD欠乏状態になって、図書館でCDを借りてくるようになった私がよほど哀れに見えたのか、先日友人がCD持参で我が新居に遊びに来てくれました。そのCDの中には下記のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲がありました。

CDジャケット

ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61
ヴァイオリン:ヴォルフガング・シュナイダーハン
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年4月29-30日、ベルリン、イエス・キリスト教会
DG(タワーレコード 国内盤 PROC-1444)

カップリング曲
ヨハン・セバスチャン・バッハ
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
ヴァイオリン:ヴォルフガング・シュナイダーハン
録音:1955年1月12-15日、ウィーン、コンツェルトハウス、モーツァルトザール

このヴァイオリン協奏曲はLPでは大変なレアものだといいます。また、1959年録音なのにLPにはモノラルしかないのだとか。LP制作時に何か事故でもあったらしいのです。DGもわざわざステレオの時代にモノラル録音盤を残すわけにはいかなかったのか、全く同じ組み合わせで1962年に再録音をします。そちらはもちろんステレオでリリースされました。

奇妙なのは、タワーレコードから発売されたこのCDがステレオだということです。どこからステレオ音源が出てきたのでしょう? 何か事故でもあってステレオのテープが失われていたのではなかったのですかと好事家から疑問の声が聞こえてきそうです。もう時効でしょうから、何があったのか関係者が証言しても良さそうですね。

そうしたことは考古学に興味がある方々にお任せして私は演奏を楽しむことにします。

友人が貸してくれたこのベートーヴェンは、質実剛健の極みでした。タワーレコードの解説には、シュナイダーハンの演奏がロマンティックだと書いてありますが、ヨッフム指揮ベルリン・フィルは大変な硬派です。にこりともしません。完全に仏頂面のベートーヴェンであります。私にはシュナイダーハンのヴァイオリンもあまりロマンティックには聞こえません。そんなことを考えながらCDを聴いていると、突然妙な音楽が始まりました。第1楽章のカデンツァです。かなり斬新であります。ヴァイオリンとティンパニが掛け合いをやったりしています。しかもなかなか長大で、延々と楽しませてくれるではないですか。今までずっと仏頂面のベートーヴェンだと思っていたのですが、ここに来て様相は一転し、大娯楽作品に変貌です。このカデンツァがベートーヴェンの曲風に合っているかどうかは若干疑問もあるのですが、聴き手の度肝を抜く演奏という意味では実に立派です。カデンツァを弾くならこのくらいのことはやってほしいものです。

このカデンツァはシュナイダーハンが、ベートーヴェン自身がヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲として編曲した際に作ったカデンツァを元に作り直したものらしいです。なるほど、そうなるとかなり由緒正しいカデンツァだということになりますね。しかし、別に由緒正しくなくてもいいのです。演奏家が自作の面白いカデンツァを聴かせてくれるのならば。私が協奏曲録音を聴いていて常々不満に思うことは、カデンツァが演奏家の自作でない場合が殆どだということです。せっかく作曲者が演奏者にカデンツァを委ねているのですから、演奏者毎に違ったカデンツァがあって然るべきです。ところが、そんなことをする演奏家は今時あまりいません。私は以前An die Musikで、アンドラーシュ・シフが弾いたカデンツァについて書いたことがありましたが、それが珍しかったからです。クラシック音楽は伝統芸能だから仕方がないとしても、やはり死んだ音楽なのだとあきらめの気持ちが私にはあります。だから、私はこういう演奏を聴くと無性に嬉しいです。私にとっては久々に聴く大ヒットCDでした。

このCDを貸してくれた友人には深く感謝します。また楽しいCDを持ってきてくれることを期待します。自分で買いなさいと言われそうですが。

(2015年6月25日)

図書館CDで聴く『千人の交響曲』

葛飾区図書館シリーズ第3弾です。まさかシリーズになるとは自分でも思っていませんでしたね。今回のCDはショルティが指揮したマーラーの交響曲第8番、通称『千人の交響曲』であります。

CDジャケット

マーラー
交響曲第8番『千人の交響曲』
ショルティ指揮シカゴ交響楽団、他多数
録音:1971年8-9月、ウィーン、ゾフィエンザール
DECCA(国内盤 POCL-6001)

この曲を生で聴くと、第1部における途方もない音量に驚きます。とんでもない音が前からどっと押し寄せてくるのです。それはベートーヴェンの『第九』の比ではありません。もう圧倒的だし、圧倒されるのが正しい聴き方だと思います。

CDで聴く時にはどうするか。できれば盛大に音量を上げて聴きたいところです。しかし、マンション暮らしになるとそれは容易にはできません。下手をすると退去を命じられるかもしれませんから。

転居後の私のアンプはフルに性能を発揮しているとは言えません。私の使っているGoldmundのプリアンプでは音量が数字で表記されます。一軒家のオーディオルームで使っていた際にはその数値は42から50くらいまでにしていました。オーディオルームは3階にあり、近所の家とはどことも接していませんでした。それでも窓は二重にしてなるべく音が外に漏れないようにしていました。しかるに、今度の部屋はマンションの最上階にあるので、上の部屋を気にせずとも、隣と下の部屋には気を配らねばなりません。すると、42から50などという音量でCDを聴くということは不可能になります。実際にはボリューム位置は22から30というところです。

その音量でショルティの『千人』を聴けるのか。それがしっかり聴けるのであります。貧相な感じは全くしません。小さい音でも痩せた音にはならず、演奏の細部まで明瞭に聞こえます。これにはちょっと驚きました。静かな環境に恵まれたということもあるのでしょうが、やはりDECCAの音作りがすごいのです。DECCA録音は、安物の粗末な再生機器でも満足しうる音質で聞けることは若い頃から知ってはいましたが、小音量でもよく聴かせてくれます。こういうのを本当の名録音というのでしょう。一部のレーベルの、大きな部屋で大音量再生することを前提とするCDは、いくらオーディオマニアの評判が良くても名録音だとは言えないと思っています。

私は改めてDECCAの録音スタッフを確認してみました。プロデューサーにデヴィッド・ハーヴェイ、録音エンジニアにケネス・ウィルキンソンとゴードン・パリーの名前が掲載されています。きっと彼らは、極東の島国でウサギ小屋に住むクラシックファンは大音量再生などできないことを知っていたのでしょう。さすがというほかありません。

ということで、マンションの一室ででもクラッシック音楽を鑑賞できることがよく分かりました。『千人の交響曲』が聴けるのですから、安心であります。

(2015年6月24日)

ワルターのマーラー 交響曲第1番

先日葛飾区の図書館でワルターのブラームスを借りてみたのですが、同時にマーラーの交響曲第1番も借りてきました。家に帰ってよく見ると、CDのジャケット、つまり解説が付いていません。どなたかが図書館にこのCDを寄贈してくださったのでしょうが、その時にはもうジャケットがなかったのでしょうね。しかし、この曲のCDを聴きたいという私のような人間のところに辿り着いたのですから、何の支障もありませんね。

マーラー
交響曲第1番  ニ長調『巨人』
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
録音:1960年前後?(解説書がないため転載不能)
SONY(国内盤 28DC 5052)

ワルターのマーラー、交響曲第1番とくれば当然あのジャケットだとクラシックファンなら容易に想像がつきます。私はそのジャケットを思い出しながらこのCDを聴き通してみました。

いやあ、実に素敵な音と演奏ではないですか。これが50年も前の録音だとは。私が初めて聴いたマーラーの1番は、もちろんこのワルター盤なので音のひとつひとつに懐かしさを感じずにはおれません。私たちの世代はこの録音の後に数々のマーラーに接しました。それでも原体験となったワルター盤の特別な地位は揺らぎそうもありません。しかも、良質のステレオ録音で残されたという僥倖をひしひしと感じます。この録音を聴きながら私はまさに「ノスタル爺」化し、満足のあまり昇天してしまいそうになりました。

ところで、この録音にはひとつだけ腑に落ちないことがあります。SONYからSACDが商品化されて出回り始めた頃、ワルターのより抜きの名盤がSACD化されました。モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、第40番、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、第6番「田園」、シューベルトの「未完成」、ブラームスの交響曲第4番です。これらは私もすべて集めました。その際不思議だったのは、この中にマーラーの交響曲第1番が含まれなかったことです。もしSACD化されれば、私のようなノスタル爺が先を争って購入しそうなディスクになるはずですから、そのうちにSONYがリリースするに違いないと読んでいました。しかし、それがSACD化されることはついぞありませんでした。これほどの名盤がなぜSACD化の対象から漏れたのか。通常盤でも全く音に不満がないのですが、SONYはあの手この手を使って音を変え、それらをリリースしてきました。そして、皮肉なことに、その度毎に音が悪くなったように私は感じていました。いろいろいじり回すのであれば、最初からSACDというフォーマットを使えば良いのに。これには何か裏事情でもあるのでしょうか?

とはいえ、そのようなことを思っている間に私のSACDに対する熱意はすっかり冷めてしまいました。ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデンによるR.シュトラウス管弦楽曲集がSACDに勝るとも劣らない音質で、しかもその10分の1近い価格で発売されたからです。高価なSACDを買った割にはそれに見合う音質が得られないことが続出したことも一因です。

今回私が葛飾区役所から借りてきたCDはマックルーアによる最初のCDのようです。私はこの古いCDの音で昇天しそうになったのですから、無類のノスタル爺なのでしょう。ノスタル爺には通常のCDで十分です。

(2015年6月22日)

ワルターのブラームスを渇望する

先日、ブルーノ・ワルターが指揮したブラームスを無性に聴きたくなりました。かといって、私の手許にはワルターのブラームスは1枚も残っていません。引っ越し前に処分したからです。「ああ、予想通りの展開になった。見境なく処分するのではなかった」と天を仰ぐことになりました。とはいえ、また新たに買うのも癪なので、葛飾区の図書館で借りてみました。図書館でCDを借りるのは生まれて初めてであります。

借りてきたのは以下のCDです。

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ブラームス
交響曲第2番 ニ長調 作品73
大学祝典序曲 作品80
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
録音:1960年1月11,14,16日
SONY(国内盤 28DC 5043)

発売時期や型番を見ると、どうやら運良くマックルーアがCD化したディスクを手にすることができた模様です。これは嬉しいです。さっそくCDプレーヤーにかけてみると、いかにもマックルーアのトラックダウンらしく、低弦が見事に強調された音が耳に飛び込んできます。それはともかく、欣喜雀躍した私は最初の部分だけを試しに聴くつもりがCD1枚分を丸々聴くことになってしまいました。ワルターは本当に聴かせ上手ですね。私はほとんど大満足です。なんだか微妙な表現ですが。

数年前に、私はブラームスの交響曲全集を片っ端から聴き比べしたことがあります。その際に、ふたつのことに気がつきました。批判や嘲笑を覚悟で申しあげますと、ひとつ目はアメリカのオーケストラによるブラームスは、地に足が着いていないような軽さがあり、それ故にわずかな違和感が感じられる場合が多いこと、ふたつ目はウィーンフィルハーモニー管弦楽団のブラームスというものがありそうだということでした。私の先入観なのかもしれませんが、誰が指揮台に立った録音でもウィーン・フィルのブラームスを聴いて違和感を感じたものは1枚たりともなく、それどころかウィーンフィルはブラームス演奏に必須の何かをDNA的に持っているのではないかと感じたものでした。

ワルターのブラームスは、アメリカの西海岸で録音されています。したがって、上記の観点からはあまり好ましからざる演奏のはずなのですが、私は最後までブラームスを満喫しました。さすがワルターの演奏であります。この演奏に対して、地に足が着いていないなどと恐ろしいことはとても言えません。ただし、「ほとんど大満足」と書いたように微妙な留保をつけたのには訳があります。1箇所だけ物足りなさを感じたからです。

この曲の第1楽章の終わり頃にやや長いホルンパートの出番がありますね。ここはブラームスが美しくも壮大な落日に惜別をおくるフレーズだと私は勝手に解釈しています。落日とは、実際に1日の落日を想起させるものでもありますし、人生の落日さえも描いているように思えます。私はその部分こそが第1楽章の白眉だと思っているのですが、ワルター盤はその箇所が少しあっけないのです。

しかし、そこまで聴いて、私がウィーンフィルのブラームスがあると感じた理由のひとつがはっきり分かりました。あくまでも理由のひとつに過ぎないでしょうが、それはホルンの音色のためです。ウィーンフィルの録音に聴くホルンの音色はやはり格別なのだと改めて思わずにはいられません。そして、コロンビア響とのセッションでは、ワルターのような大指揮者が指揮台に立ってさえ、それだけはどうにもならなかったのだと分かります。

それでもワルターのブラームスは魅力的です。たった1箇所物足りないところがあったからといってその価値を否定する気は毛頭ありません。今回はCDを図書館で借りましたが、やはり買い直した方が精神衛生上良さそうです。マックルーアのディスクを探して購入しようかと思います。

(2015年6月19日)

葛飾区 新小岩に転居しました。

5月14日に転居しました。今度の住まいは東京都葛飾区、新小岩です。

私はさいたま市(浦和)に長く住んでおりました。駅で言いますと南浦和に9年、武蔵浦和に14年です。浦和はいかにも田舎っぽいのですが、住みやすいことこの上ない町でした。私は持ち家もあったのでそこを終の棲家とするつもりでいたのですが、今年2月に私の人生の中で最悪の事態が起きました。離婚が確定したのです。二人の愛娘にはもう会えません。私はひとりぼっちになるのです。そうなると、今度は8部屋もある家に男が一人で住み続けるわけにはいかなくなります。また、新たな人生を歩むためには浦和から離れた方が良いと判断し、暮らしやすそうな東京の下町、新小岩への転居を決めたのです。

そうと決めた後は大変です。離婚は紙切れに印鑑を押すだけで終わりますが、男一人が物理的に移動するには準備が要ります。まず家を売る。それとほぼ同時進行で新居を決めなければなりません。それに、引っ越しのために家財道具を処分しなければなりません。新居はマンションなので居住スペースはたかがしれています。やむなく大量の家財道具を破棄しました。CDはあらかじめ処分していましたが、これまた大量にあった蔵書もほぼすべてを処分しました。大事にしていたCDとも、本とも涙を飲んでお別れです。

CDは手許に数えられるほどしか残さなかったので、いっそのことオーディオ機器も売り払ってしまおうかと転居の前日まで悩みました。聴くCDがよくよくないのだから立派な機材があっても宝の持ち腐れなのです。オーディオ機器まで手放せば、本当に過去の自分と決別できそうな気もしたので真剣に悩みました。それに新居はマンションなので、以前のように自分の好きな音量でCDを聴くことはできないのです。オーディオという趣味を続けられそうにないとも考えられました。しかし、生来の優柔不断である私は、そこまでしていいものかどうか踏ん切りをつけることができませんでした。ついに時間切れになってしまい、オーディオ機器はとりあえず新居にそのまま持って来ることになりました。

新小岩に来てみると、予想した以上に快適な場所でした。全く縁もゆかりもない土地ではなかったのですが、ここが私の住む町だと思うと、都のように思えてくるものです。部屋の片付けも終わり、懸案のオーディオ装置のセッティングも終了しました。オーディオの環境としては劣悪に違いないと思ってきたのですが、今のところマンションの住民としてはほぼ満足できる音が出ています。というより、ほどほどで満足しなければなりません。

それはともかく、私はすっかり天涯孤独の身になりました。離婚が決まってからは道を歩いていても子どもたちとの幸福な日々を思い出して涙を流すという情けない状態だったのですが、いつまでも過去を振り返ってばかりはいられません。実際に私の新たな人生はこの地で始まっているのです。そして私は新たな人生を始めるためにこの地に来たのです。前向きに生きて、自分で人生を切り開いていきたいです。

(2015年5月28日)

シューベルトの幻想曲ハ長調 D934

つい最近まで自覚はなかったのですが、私はシューベルトが好きらしいです。An die Musik上でもよく取り上げてきたように思います。そしてCD大量処分後にも一定数のディスクが残りました。幻想曲ハ長調 D934もそのひとつでした。

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シューベルト
ヴァイオリン・ソナタイ長調 D574
幻想曲ハ長調 D934
「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲 D802 作品160(遺作)

ヴァイオリン:ギドン・クレーメル
ピアノ:ヴァレリー・アファナシエフ(D574 と D934)
ピアノ:オレグ・マイセンベルク(D802)

録音:1990年1月、ベルリン(D574 と D934)、1993年11月、ミュンヘン(D802)
DG(国内盤 UCCG-3648)

D940の幻想曲はピアノ連弾曲でしたが、D934はピアノとヴァイオリンのための曲です。さらにD760の幻想曲はピアノ独奏曲で、世に名高い「さすらい人」幻想曲ですね。

D934の幻想曲もD940同様、シューベルトの死の年に書かれた傑作です。全部で4つの部分に分かれていますが、それも他の幻想曲同様切れ目なく演奏されます。

静寂の中から細く細く音楽が紡ぎ出されてくる第1部の冒頭は神秘的であります。いきなりシューベルトの幽玄の世界に引き込まれます。第2部で音楽が高調していったん元の静けさに戻ると、第3部が始まり、聴き慣れた旋律が聞こえてきます。シューベルトの歌曲「挨拶を送らん(Sei mir gegruesst)」D741であります。シューベルトは自作の歌曲の主題に基づく変奏曲をこの幻想曲の第3部に置いたのです。この部分が全曲の半分近くを占めます。主題自身がシューベルトらしく心に染み入るような旋律である上に、馴染み深いこともあり、この第3部は実に聴き応えがあります。その最後の部分では第1部冒頭の旋律が回帰してきます。その素晴らしさ。第4部はフィナーレらしく明るく楽天的な曲となっていますが、最後にまた「挨拶を送らん」が登場してきます。「挨拶を送らん」はなんて愛くるしい曲なんでしょうね。胸が詰まりそうになります。

クレーメルとアファナシエフのCDはこの曲の美質を余すことなく伝えています。特にクレーメルのヴァイオリンは冴えわたっています。名録音を大量に残してきたヴァイオリニストですが、これは彼の隠れた名録音なのではないかと思っています。

(2015年3月14日)

ブラームスの風景

ブラームスを聴いていると、どこかの風景を思い浮かべることがあります。誰の耳にも分かりやすい例は交響曲第2番です。この曲を指して「ブラームスの田園交響曲である」というのはまことに陳腐ではありますが、私はいつものどかな風景を思い浮かべます。第1楽章はまさにドイツやオーストリアの田園風景です。山紫水明の景色の中に爽やかな風が吹き込んでくるような趣があります。ブラームスはよほど風光明媚な土地でこの曲を作曲したに違いない、その場所を是非この目で見たいものだと私は常々思ってきました。もちろん、交響曲第2番に限らず、ブラームスには様々な風景があります。そんなことを感じるのはブラームスの聴き方として正しくないといわれてしまいそうですが、私はどうしても風景を感じてしまうのです。

ブラームスの曲には風景があると考えたのは私だけではないらしくて、興味深いことに、ブラームスが名曲を作曲した地を写真付きで紹介している本が出ています。

ブラームス「音楽の森へ」
堀内みさ:文
堀内昭彦:写真
世界文化社
2011年刊

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本には作曲の地の美麗な写真が多数掲載されています(写真をクリックするとamazonの画面に飛びますのでご覧ください)。どれもため息が出そうな景色です。交響曲第2番やヴァイオリン・ソナタ第1番はペルチャッハ。写真が伝えるものは、現実以上に美化された断片でしょうが、それでも私の予想を裏付ける風景を見ることができました。交響曲第1番ではリヒテンタール。ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲ではアルプスのふもとトゥーン湖畔。クラリネット五重奏曲ではバート・イシュル。どの風景もブラームスの曲の中にこっそり入っていますし、この本を眺めた後で曲を聴くと「ああ、なるほどね」などと子どもじみた単純な感慨をもつのでありました。

実際はブラームスが生きた時代から100年以上経っているのですから元の風景がそのまま残されているわけではありません。また、写真はあくまでも風景の断片にしか過ぎません。この本の写真を見て過大に美化するのは危険ですが、私はやはりブラームスは風景を曲に織り込んだと思いたいです。この本を見たら、それぞれの作曲の地に行ってみたくてたまらなくなりました。

ちなみに、ブラームスは自分の赤裸々な心情を曲に盛り込むこともあります。典型例はピアノ協奏曲第2番第3楽章Andanteです。寂寥感漂うこの楽章ではブラームスがやけ酒でも飲んで「俺はもうだめだ。いいんだ、放って置いてくれ」とでもつぶやいているようです。私はそのAndanteを聴くとブラームスには失礼だと思いながらくすっと笑いたくなるのですが、そんな感情を曲に込めたブラームスも大好きです。しかし、ブラームスの作曲時における赤裸々な心情をピックアップした本にはまだ出会っていません。

(2015年3月8日)

追憶のアルバン・ベルク弦楽四重奏団

CD売却話の続きです。

CDを売却する際は量が膨大だったので、業者の人に自宅まで来てもらい、査定・梱包・発送までを一挙にやってもらいました。作業が無事終了して業者が帰った後ふとCD棚を見てみると、アルバン・ベルク弦楽四重奏団によるベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲集がぽつねんと取り残されていました。

CDジャケット

ベートーヴェン
後期弦楽四重奏曲集
アルバン・ベルク弦楽四重奏団
EMI(国内盤 CC30-3197-200)

アルバン・ベルク弦楽四重奏団のベートーヴェンは旧録音がボックスセット化されています。私はそれを所有しているので、かさばる旧盤は処分しても良いと判断したのですが、業者にとっては余りありがたくもないディスクだったのでしょう。何しろ、古い国内盤で、帯はなく、背表紙は日に焼けているときています。梱包するのを忘れたというより、商品価値なしとして捨て置かれたのかもしれません。

私がこの4枚組CDを買ったのは学生の時で、何と12,000円もしたのです。それが今や商品価値がなくなっているのだとすれば時代の移り変わりを感じざるを得ません。さんざん聴いたCDですし、思い出深いのに処分しようと思った私が悪かったのかもしれません。持って行かれなかったのはきっと何かの縁です。こうなったらこのCDをずっと大事にしていきたいと決心した次第です。ボックスセットの方はディスクの枚数制限があったのか窮屈なカップリングになっているので、これが残ったのは結果的に良かったのだと自分に言い聞かせます。

私は学生の頃、弦楽四重奏曲に熱中していました。アルバン・ベルク弦楽四重奏団が来日した際は、演奏を聴きに出かけたりしました。そして驚きました。演奏に、ではなく、その音にです。なぜなら、CDと同じ音がしたからです。本当に驚きました。私はオーケストラを聴いていてCDと同じ音だと感じたことは今まで一度もありません。これからもないと思います。アルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏をCDで聴いている時は、これほど明確で切れの良い音が聴けるのは録音技術のお陰だとばかり思っていたのですが、そうではなかったのです。それ以来、EMIのアルバン・ベルク四重奏団の録音は興味をもって聴いてきました。1990年代には弦楽四重奏曲の録音といえば何でもかんでもアルバン・ベルク四重奏団の名前が挙がるなど、違和感を覚えたこともあるのですが、歴史に名を残す四重奏団だったことは間違いないでしょう。振り返ってみるとハイドンの弦楽四重奏曲集など、手放すには惜しいCDが随分あったように思えます。だからこそ、EMIにはぜひアルバン・ベルク弦楽四重奏団の全曲録音ボックスセットを出してもらいたいものです。ボックスセットばやりの昨今なのに、あれほどの盛名を馳せたアルバン・ベルク弦楽四重奏団のボックスセットがないのは不思議です。弦楽四重奏曲という渋いジャンルが邪魔をしているのかもしれません。

わが世の春を謳歌していたかに見えたこの四重奏団も、2005年にヴィオラのトーマス・カクシュカが死去すると存続の危機に見舞われましたね。カクシュカの弟子であるイザベル・カリシウスが後を継いだのでそのまま続けるかと思いきや、2008年には四重奏団が解散してしまいました。まことにあっけない幕切れでした。今思えば、私が弦楽四重奏曲をこれまでずっと楽しんでこられたのはアルバン・ベルク弦楽四重奏団のお陰だったような気がします。せめて彼らの録音は聴き続けたいものです。

(2015年3月7日)

シューベルトの幻想曲 ヘ短調 D940

いつだったか、吉田秀和の本を読んでいたら「幻想曲ヘ短調 D940を知らなければ、シューベルトのピアノ曲を知っているとは言えない」という主旨の文章にぶつかりました。どうしても出典を思い出せないので、それが正確な表記だったか自信が持てないのですが、確かにそんな意味のことが述べられていました。私は結構シューベルトの曲を集めていたのに、その際幻想曲ヘ短調 D940と言われてもすぐに曲をイメージできませんでした。気になってCDラックを見てみると、何といくつも出てきました。私の頭に残っていなかったというのは、よほど真面目に聴いていなかったのでしょうね。

D940ですからシューベルト最晩年の作品です。聴いてみると、確かに美しい曲でした。名曲です。ピアノ連弾曲で、4つの部分からできていますが、それが途切れることなく演奏されます。いかにもシューベルトらしい切々たる旋律で始まりますが、現れる主題はどれも以前から知っていたような錯覚を覚えさせるもので、改めてシューベルトの天才を感じます。また、ピアノが激しく鳴り渡るところは「さすらい人幻想曲」に一脈通じるところがあります。ただし、「さすらい人幻想曲」がほとんど爆発的な音楽であるのに対し、幻想曲ヘ短調D940は基本的に内省的であります。なるほどこういう曲があったのかと吉田秀和に私は感謝したものでした。

それからというもの、私はこの曲を時時聴くようになったのですが、大量のCDを処分した今なお手許に残ったのはキーシンとレヴァインのCDのみでした。

CDジャケット

シューベルト
4手のためのピアノ作品集

  • 幻想曲 へ短調 D940 作品103 
  • アレグロ イ短調 D947 作品144「人生の嵐」 
  • ソナタ ハ長調 D812 作品140 「グランド・デュオ」
  • 性格的な行進曲 第1番 ハ長調 D968b 作品121-1 
  • 軍隊行進曲 第1番 ニ長調 D733 作品51-1 

ピアノ:エフゲニー・キーシン、ジェームズ・レヴァイン
録音:2005年5月1日、ニューヨーク、カーネギーホールにおけるライブ録音
RCA=BMG(国内盤 BVCC-38352-53)

この2枚組CDの特徴は、シューベルトの連弾用の曲を1台のピアノではなく、2台のピアノで弾いていることです。本来は家庭音楽として作曲された連弾用の曲を、3,000人も収容できるカーネギーホールですべての聴衆に聴かせるには無理があるので、苦肉の策として2台のピアノを使うことにしたそうです。そうでもしなければ、キーシンが巨漢のレヴァインの隣で弾くのは辛かったのだろうと私は勝手に想像していますが。

2台のピアノで弾いている時点で、このCDで聴くシューベルトは本来の持ち味とはかなり様相を異にしています。実際に2人ともコンサートの間ずっとバリバリ弾いています。スピーカーの左側がキーシンで、右側がレヴァイン。レヴァインはピアノの腕前も達者で、キーシンに引けを取らないパワーを見せつけます。こうなるとシューベルトの曲はコンサート用ショウ・ピースとして精彩を放ってきます。それもひとつの楽しみ方なのだと割り切ると大変楽しいです。

冒頭に演奏された幻想曲ヘ短調 D940では私がかつて持っていたどのCDよりもダイナミックな演奏が聴けます。シューベルトがこの演奏を聴いてどう思うか分かりませんが、私はダイナミズムを突き詰めた演奏として気に入っています。もしかしたら邪道なのかもしれませんが、こういう楽しみも許してもらいたいです。

(2005年3月1日)

ベームの1977年来日公演

CDを処分した際に手許に残したCDをこのところ一枚ずつ聴いています。今回はカール・ベームの1977年来日公演盤です。この演奏は当時中学生だった私がエアチェックして繰り返し聴いて内容をすっかり諳んじてしまったのに、なお、いや、それだからこそ処分できなかったCDの典型でした。不思議なことに、よく聴いた演奏であるのに今聴いてもまだまだ色褪せてきません。「レオノーレ」序曲第3番のフルートソロを耳にすると今更ながらすばらしいと思わずにはいられません。

この来日公演は私がクラシックを聴くことになったまさに原点です。引っ越しのために身を軽くし、いろいろなことを捨て去らなければならないのですが、これくらいを残したところで罰は当たらないと信じています。

なお、このCDについては、2002年5月19日の「What’s new?」でも触れていますね。引用するには若干長いのですが、以下に全文を転載しておきます。13年も前のことなのに、2002年の文章に付け加えるべきことが何もないことに我ながら驚いています。


2002年5月19日:すべてはここから始まった

ついにこんなCDが登場した。

CDジャケット

ベートーヴェン
交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
交響曲第5番ハ短調作品67
「レオノーレ」序曲第3番作品72b
カール・ベーム指揮ウィーンフィル
録音:1977年3月2日、NHKホールにおけるライブ
ALTUS(国内盤 ALT-026/7)

カール・ベーム最晩年の日本における人気は一体何だったのだろうか。まるで神様を崇め奉るようであった。・・・そんなことをいかにも訳知り顔で書く私だって、かつてはベームを神のように思っていたのであった。それもそのはず、私がクラシック音楽をまともに聴き始めたのは、このベーム指揮ウィーンフィルライブからなのである。当時私は中学3年生であった。

まだクラシック音楽になど興味のかけらもなかった私にウィーンフィルの話をやたらしたがる悪友のお陰で、私は1977年のベーム来日演奏をFMで聴かされたのだ。それもテープにまで収録しながら。ベートーヴェンの「運命」も、「田園」も、「レオノーレ」序曲もそれまで聴いたことがなかった。ベームのこの日の指揮で初めて聴いたのである。なぜか私はクラシック音楽がそのまま好きになり、テープに収録したテープを何回も聞き返した。テレビで放映された来日公演の模様も一所懸命見た。ついには、メロディーや演奏の間合いをすべて諳んじてしまった。

もし、この時私がベームの演奏に耳を傾けていなければ、今私はクラシック音楽を聴いていなかった確率が高い。どうしてそのままクラシック音楽を聴き続ける気になったのか不思議ではあるのだが、「カール・ベーム」という、当時最大級のブランドを頼りにクラシック音楽を追い求めていったわけだから、私にとって、最も重要な指揮者である。私がかなりドイツ・オーストリアものの、しかもオーケストラ曲を中心に音楽鑑賞をするようになっているのも、この人との出会いがなせる技なのだろう。

その後、私は最晩年のカール・ベームを高くは評価しないようになった。他の指揮者の演奏を数多く聴くにつれ、神とは崇めなくなった。最晩年のあの人気は過熱しており、異常であったと分かるようになった。最近では、「オペラはともかく、シンフォニーはどうもなあ...」などと宣う始末である。

しかし、このCDを改めて聴いてみると、カール・ベームはやはり立派なものだったのだと思う。ライブにつきものの乱れはあるものの、収録された3曲は実に見事な演奏で、私ははるか25年前の自分に戻って、かつての感動を追体験させられた。もしかしたらあの「運命」は駄演なのかもしれないが、私が初めて繰り返し繰り返し聴いた演奏だけに身体があの演奏に反応してしまう。「レオノーレ」序曲に登場する、天から舞い降りてくるように聞こえるフルートなど、今なお強く私を引きつけてやまない。「田園」を聴くと、宇野功芳氏が熱に浮かされたような賛辞を送っているのが頷ける。魅惑的なホルンセクション。ウィーンフィルがあのNHKホールでこのような鳴り方をしていたとは、驚きである。

今さら昔聴いていた演奏をCDで聴いても仕方がないかな、と思いつつこのCDを買ったが、25年の時を隔てても同じ感動が甦ってくるとは! 私の場合、すべてはこの演奏から始まっている。今にして思えば、クラシック音楽という豊饒の世界を私に直接に伝えたカール・ベームは私の大恩人である。ゆめゆめ疎略に扱ってはいけないと肝に銘じた次第。


(2015年2月28日)

マーラー 君に捧げるアダージョ

浦和で今週のみ『マーラー 君に捧げるアダージョ』が上映されると知って、慌てて映画館に駆け込みました。

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アルマはツェムリンスキー、クリムト、グロピウス、ココシュカ、そしてマーラーを虜にした魅力的な女性ででした。今残っている写真を見ても相当な美人であったことが想像されます。しかし、私は有名人ハンターであるアルマが好きではありません。彼女の奔放な男性遍歴を知れば知るほど共感を持てなくなります。

映画は、マーラーが精神分析医のフロイトに治療をしてもらう場面から始まります。マーラーはアルマのあからさまな不倫に悩んでいます。そのような経験を持たない私はそれだけでも幸せだと思うのですが、当のマーラーにしてみれば地獄の日々だったでしょう。

この映画を観るまで、私はアルマの不貞がマーラーに苦悩をもたらしたのであって、アルマこそ悪であると認識していたのですが、映画ではそのような図式を取っていません。フロイトは、マーラーからアルマの不倫を聞かされても、マーラーに対し、「君に罪がある」と言い放ちます。その場面は大変印象的です。映画の中のマーラーも「何で私に罪があるというのか」と当然のように逆上します。

しかし、フロイトは正しかった。アルマはマーラーに作曲を禁じられていたり、子どもとマーラーの間が強く結びつきすぎていて、アルマがその中に入り込めなかったりするなど精神的に抑圧されていたのです。それに、マーラーは多忙すぎることと年齢差があるためにアルマと夜の生活をしていません。その点をフロイトはフロイトらしく突いてきますが、マーラーはその意味が皆目分かっていません。要するに、マーラーはアルマに幸福を与えてやっていると思い込んでいるものの、アルマはそう受け取っていないばかりか、苦痛を感じていたのです。マーラーは無意識のうちにアルマを追い込んでいたのですね。

そこまで理解できると、いかにもありがちな夫婦のドラマになってきます。妻の心の深いところに根を張った不満は、容易には除去できません。長い時間をかけて作られた不満ですから、夫が自分の非を悟ったところでもはや取り返しがつかないのです。残るのは破局しかありません。2人ともこれでよく離婚しなかったものだと感心します。マーラーは死ぬまで彼女と離婚することなく、彼女への愛を貫きます。

映画では全編にマーラーの交響曲第10番のアダージョが流れています。実に重苦しく、悲痛であります。破局の原因が分かっても何一つ解決されないまま、マーラーは心臓病で死んでしまいます。そのとき、マーラーは今の私よりも若かったのです。暗くて、陰鬱な気分が充満している作品でしたが、苦難の中で自分の人生を全うしたマーラーには少なからぬ共感を覚えました。

(2015年2月22日)

シュターツカペレ・ドレスデン来日す、だが・・・

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シュターツカペレ・ドレスデンが来日しますね。23日、24日とサントリーホールで公演があります。もちろん私も行きたいです。しかし、両日とも身動きが取れずサントリーホールにはとても行けません。どなたか来日公演に行けた方はぜひその模様を教えてくださいね。

ボックスセットを聴き始める

先週大量にCDを売ったのですが、DGから発売された「111 YEARS OF DEUTSCHE GRAMMOPHON」は手許に残してありました。廉価で買った珍しくもないボックスセットを売ったところでろくな値がつかないと判断したためです。

今週は今まで放って置いたこのセットを少しずつ聴き始めました。まずはメンデルスゾーンです。これは55枚中の32枚目。私はこのCDを単体では持っていなかったのです。

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メンデルスゾーン
交響曲第4番イ長調 作品90「イタリア」
交響曲第5番ニ長調 作品107「宗教改革」
ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1960年4月(第4番)、1961年1月(第5番)、ベルリン、イエスキリスト教会
DG(輸入盤「111 YEARS OF DEUTSCHE GRAMMOPHON」の1枚。)

このメンデルスゾーンはいずれも私が生まれる前の録音でした。DGも何度も発売を重ねてきて元は取ったのでしょう。だからボックスセットに入れて安く販売できるのですが、さすがに自社の111周年記念盤だけあって選ばれた演奏だという気はします。この両曲も今聴いても聴き応えがあります。1960年当時のベルリンフィルの質実剛健な音、それを颯爽と指揮するマゼール。常に自分流を貫くマゼールが「イタリア」のカップリングに「スコットランド」ではなく「宗教改革」を選んだところも興味深いです。

聴かせ上手のマゼールの手にかかると「宗教改革」が名曲だと思えますね。この曲は第1楽章に「ドレスデン・アーメン」が、第4楽章にルター作のコラールが使われているように宗教曲的側面を持ちます。そう思って聴くといかにも辛気くさく感じるのですが、マゼールはオーケストラを鳴らし切って痛快な曲に仕立てています。私は今週何回もこの演奏を聴いて堪能しました。

ずっと放置していたボックスセットが活躍するとは。まだボックスセット生活に慣れないのですが、もしかすると今までとは違った楽しみを発見するかもしれません。皆様はボックスセットとどうつきあっていますか。