マーラーの交響曲第3番を聴いた後、残った交響曲は第10番だけになった。図書館のデータベースを検索すると、ハーディング指揮ウィーン・フィル盤が出てきたので、早速借りてきた。
マーラー
交響曲第10番(デリック・クック補筆完成全曲版)
ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年10月、ウィーン、ムジークフェラインザール
DG(国内盤 UCCG-1389)
私はマーラーの交響曲第10番を愛聴したことがない。マーラーを日常的に聴いていた頃でさえも第10番だけは敬遠してきた。恐ろしいのである。第1楽章アダージョのカタストロフが。最初に聴いたのがどの指揮者によるものだったか覚えていないが、その恐ろしさだけは未だに忘れられない。私にとっては背筋が凍りつくような恐怖体験だった。第1楽章を最後まで聴き通すことができなかった。その後時間を空けて何度か挑戦し、かろうじて第1楽章を最後まで聴いた。今も、できれば聴きたくない曲である。
ところが、指揮者たちにとってはこの曲がマーラー演奏のフロンティアになってしまったようで、マーラーが一応完成させたと推測されるのが第1楽章だけであるにもかかわらず、クック補筆全曲版などが録音されるに至った。クラシック音楽界ではすっかり定番の曲として扱われているような気配だ。他の人はこの曲が恐ろしくないのだろうか。
それはともかく、久しぶりにこの曲を聴いてまた衝撃を受けてしまった。
第1楽章のカタストロフが暴力的に聞こえなかったのである。何と、ハーディングとウィーン・フィルは、このカタストロフを異様なほど美しく奏でるのである。私は我が耳を疑った。カタストロフがオルガンの響きのように調和して耽美的に聞こえてくるのである。いや、そんなレベルにとどまらない。その響きはもはやエクスタシーに通じるほどだ。甘美なエクスタシー。そんなことって、あるのだろうか? これはカタストロフではないのか?
第1楽章が終わったところでしばらくCDを止め、私は考えた。もしかしたら、そういうことなのかもしれない。カタストロフは破滅であり、死である。だが、それは甘美なエクスタシーをもたらすことだってあり得るのだ。生は死と隣り合わせだ。生から死への移行は理解しやすい。しかし、死から見れば死は生はすぐ隣にある。タナトスの裏にはエロスがあるのだ。想像するだけでも恐ろしいことだが、カタストロフにはエクスタシーがあるのかもしれない。
それにしても何とすさまじい演奏だろうか。ハーディングとウィーン・フィルはそんなことを意識してこの第1楽章を演奏したのだろうか。私はあまりの衝撃に呆然となった。もうしばらくこの曲を聴かなくていい。
(2015年9月22日)