ショスタコーヴィチの交響曲第12番

昨日の続きである。葛飾区の図書館には、ショスタコーヴィチの交響曲第12番のCDもあった。

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ショスタコーヴィチ
交響曲第12番 ニ短調 作品112 『1917年』
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1984年4月30日、レニングラード・フィルハーモニック大ホールにおけるライブ
STE(国内盤 VDC-25028)

ムラヴィンスキーの指揮で聴くと、交響曲第12番は傑作になる。例えば、第4楽章でトランペットとトロンボーンが極寒の空をバリバリと突き破るように鳴り響く神話的な音を聴くと、感嘆の声も出ない。

しかし、この曲は他の指揮者で聴く場合、時として生ぬるい映画音楽か安っぽい標題音楽になることがある。事実、この交響曲には『1917年』という標題が付いているし、ご丁寧にも4楽章それぞれに標題が付いているのだ。しかも、ショスタコーヴィチの音楽がまさにその標題を描写しているのである。さすがショスタコーヴィチと言いたいところだが、分かりやすすぎることが災いし、私は逆に音楽の底の浅さを感じたものである。

標題は、
第1楽章:「革命のペトログラード 」
第2楽章:「ラズリーフ」
第3楽章:「アヴローラ」
第4楽章:「人類の夜明け」
となっている。

こういうものを見ると、私は「やれやれ」という気になる。ショスタコーヴィチにしてみればこのような曲を書かなければ命が危ない。だから恥も外聞もなくあからさまな革命讃歌を書かざるを得なかったのだろう。だが、それ故につまらなさを感じる。この作曲家の反骨精神はどこに消えたのか、と思う。私は初めての曲を聴いた時にショスタコーヴィチの交響曲への関心を半減させた。今考えてみると、最初に聴いた演奏が、この曲の魅力を伝えていなかったのだ。いや、その演奏の指揮者が、この曲はただの革命讃歌だと認識していたからこそそんな演奏になったに違いない。

ちなみに、ショスタコーヴィチの交響曲第11番にも標題が付いている。こちらは『1905年』という。楽章毎に標題が付いている点も第12番と同じだ。第11番は次のような標題が付いている。

第1楽章:「宮殿前広場」
第2楽章:「1月9日」
第3楽章:「永遠の記憶」
第4楽章:「警鐘」

これまた「やれやれ」である。私としては標題がない方がよほど楽しめる。政治的スローガンが見え隠れすると私は興ざめしてしまうのである。そうなるのは私だけなのだろうか? もし日本でも同じような作品が当局によって要請され、有力な作曲家がそれに従って作曲し、著名演奏家が演奏するとしたら、どんな気持ちになるのだろう。音楽として楽しめるのだろうか。

具体的に想像してみよう。

日本国政府が国威発揚のためと称して、日本人作曲家に交響曲を作らせる。標題は「明治維新」だ。4楽章形式で、それぞれの楽章にも標題が付いている。例えば、以下のような。

第1楽章:黒船来航
第2楽章:薩長同盟
第3楽章:戊辰戦争
第4楽章:王政復古

こうなったら、私は純粋に音楽を聴くだろうか。私は音楽の中に込められたプロパガンダを聴き、もしかしたらそれを楽しんでしまうかもしれない。しかし、それはもう音楽を聴いているのではなく、国威発揚の物語を受容しているだけなのではないだろうか。

そう思うと、ムラヴィンスキーの演奏はすごい。この人の指揮は物語を音にするなどというレベルにとどまらない。はるかに高次元だ。聴き手を音楽だけに集中させるのである。『1917年』という標題など完全に超越している。この人はショスタコーヴィチのスコアに潜む何かを見ることができたのだろう。少なくとも、ムラヴィンスキーの指揮で聴く交響曲第12番は、「底が浅い」などとはとても言えない。

(2015年10月14日)

ムラヴィンスキー

交響曲第4番を無事に聴くことができたので、時間をかけてショスタコーヴィチの交響曲をすべて聴いてみた。第1番から第15番までを集中的に聴いたのは、昔ハイティンクの全集を買った時以来だ。曲と演奏の組み合わせは以下のとおりである。

  • 1番 ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団(MELODIYA)
  • 2番 ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、アシュケナージ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(DECCA)
  • 3番 ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(DECCA)
  • 4番 サロネン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック(DG)
  • 5番 ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA)
  • 6番 バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(DG)
  • 7番 アシュケナージ指揮サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団(DECCA)
  • 8番 ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団(PHILIPS)
  • 9番 ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団(MELODIYA)、バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(DG)
  • 10番 カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(DG)
  • 11番 ストコフスキ指揮ヒューストン交響楽団(EMI)
  • 12番 ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(MELODIYA)
  • 13番 ロストロポーヴィチ指揮ナショナル交響楽団(ERATO)
  • 14番 ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団(MELODIYA)
  • 15番 ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団(MELODIYA)

マニアからは、「よりによってどうしてそのような組み合わせのCDをを選んだのか」という質問が出てきそうだ。答えは簡単である。図書館のCDだからあまり選択の余地がないのである。だが、図書館CDで全15曲を聴けたことは感謝しなくてはならない。

交響曲第4番が聴けたからには他の曲も聴けると確信していたが、その通りだった。ここ2週間ほどの間にショスタコーヴィチを文字通り聴きまくった。ショスタコーヴィチの狂気にずっと付き合っていたわけで、なんだか自分もあっちの世界に足を突っ込んでしまったような気がする。ショスタコーヴィチの交響曲第4番をクリアした時には一挙に視界が開けたように感じ、私は欣喜雀躍したのだが、本当はそういうことではなくて、危ない世界に入ったのだから、これからの音楽生活に黄色い信号がともったことを意味しているのかもしれない。

閑話休題。

交響曲第13番や第14番を聴いた後、私は交響曲第5番をムラヴィンスキーの演奏で聴いた。もはや私の耳に第5番は通俗名曲的にしか聞こえないのではないかと最初から髙をくくってCDを聴き始めた。そして、ムラヴィンスキーに打ちのめされた。

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ショスタコーヴィチ
交響曲第5番 ニ短調 作品47「革命」
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1878年6月12日、ウィーン・ムジークフェラインザール
JVC(国内盤 VDC 1007)

何というか、もう次元が違っているのである。旋律こそあの交響曲第5番だが、音楽としてのこの曲のあり方が極限まで追求されたという印象を強く受ける。厳しい音楽の厳しい演奏だ。また、ムラヴィンスキーの演奏は時代と場所を超越して現代に生きる私に緊張して聴くことを要求している。この演奏を聴き終えた瞬間、ムラヴィンスキーは音楽の神様の一人だったのだと改めて確信した。

ムラヴィンスキーの指揮で聴けたのは第5番だけではない。第12番もあった。この曲には「1917年」という標題が付けられているが、これまたとてつもなかった。ムラヴィンスキーの演奏は鍛えに鍛えた鋼のようであり、軟弱さは微塵もない。第12番に対する評価も激変した。

これらを聴いて以来、私の頭の中にムラヴィンスキーが居座ってしまった。もうどうやっても頭から離れない。それならば他のCDも聴こうと図書館のデータベースを検索してみた。ところが、ムラヴィンスキーのCDは数えるほどしかないのである。ああ、何ということか。ムラヴィンスキーは西側の音楽家ではなかったし、メジャーレーベルで次から次へと録音をしてきたわけでもなかったのだ。こうなっては、残された数少ない録音を探して拝聴するしかムラヴィンスキーに接する方法はない。

(2015年10月13日)

ショスタコーヴィチの交響曲第4番

マーラーの交響曲を全曲聴いたところで私の脳裏をかすめたことがあった。ひょっとすると、ショスタコーヴィチも聴けるかもしれないということだ。そもそも「聴けるかも」と思うこと自体、聴けるということなのである。交響曲第5番や第7番は問題にもならなさそうだ。最難関は交響曲第4番である。

図書館のデータベースを見ると、サロネンの録音があった。

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ショスタコーヴィチ
『オランゴ』プロローグ(世界初録音)
交響曲第4番 ハ短調 作品43
エサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック
ロサンゼルス・マスター・コラール、ほか
録音:2011年12月、ロサンゼルス、ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール
DG(国内盤 UCCG1606/7)

ショスタコーヴィチの交響曲第4番を長い間私は忌避してきた。CDは大量に持っていたが、ある時期から身体が拒絶するようになっていたのである。最初の数小節でCDをストップさせることが頻発し、やがて聴かなくなった。その後、ショスタコーヴィチを私は全く受け付けなくなっていた。身体が拒絶反応を示す楽曲の作り手を高く評価できるわけもないから、ショスタコーヴィチに対する私の評価はゼロに等しかった。

実際に聴いてみるとあまりの面白さに絶句した。この曲では諧謔も狂気も全部一緒くたになっている。膨大な数の素材が脈絡もなく登場する作風はマーラー的であり、違和感は全く感じなかった。音的にも楽しめる。DGは録音用マイクを各楽器毎に近接設置したらしく、ソロがクリアに聞こえる。また、オーケストラが強奏に転じるときには暴力的な破壊力をもたらす音が聴ける。

すっかり熱狂した私は都合10回ほどこのCDを聴いて堪能した。しかも、以前に比べるとはるかにこの曲を好きになっている。今までこの曲を忌避していたのは何だったのだろう。

この余勢をかって、私は他の曲にも挑戦した。まず、第8番に挑戦。ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団のCD(PHILIPS)を聴く。全く問題なし。さらに、第15番をロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文科省交響楽団の演奏で聴いた(VICTOR)。全く問題がないどころか、曲のユニークさと演奏の面白さに唸ってしまった。もうどの曲も大丈夫だ。しかも、私はショスタコーヴィチを以前よりはるかに楽しめるようになったようだ。これは驚きだ。目の前に深く立ちこめていた霧が晴れて、視界が一挙に開けた感じがする。この感覚は他に例えようがない。

私がこのAn die Musikを立ち上げたのは1998年11月である。もうじき開設17年になるのだが、ショスタコーヴィチを楽しんで聴けるというのは、やっと17年前の自分に戻ったことを意味する。随分時間をかけて歩き回った挙げ句に到着したのが17年前の自分の位置だったとは妙な気がするのだが、音楽を楽しめる自分に戻ったことは本当に嬉しい。最高に嬉しい。私は17年前でも、20年前でも、30年前にだって戻ろう。音楽を楽しめることが一番の幸せだ。

(2015年10月3日)

ショパンの事件譜

北原雅紀原作、あおきてつお作画の漫画『ショパンの事件譜』を読む。

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レコードショップを舞台にした漫画である。「ビッグコミック」に連載中らしい。第1巻は2015年9月2日に発行されている。LPが密かなブームになっていることは知っていたが、漫画ができるとは。

レコードショップの名前は奏(かえで)音楽堂といい、その店主は奏初範という。初範という字面から通称がショパンになっている。また、タイトルを見ると、このお店がクラシック音楽専門だと連想しそうだが、様々なジャンルのレコードを扱っている。

第1巻には以下のとおり6話が収録されている。

第1楽章 モーツァルトの涙(モーツァルト)

第2楽章 ネットオークションの罠(エルヴィス・プレスリー)

第3楽章 チェリーニのヴァイオリン(ベートーヴェン)

第4楽章 禁じられたBGM(ボブ・ディラン)

第5楽章 「憾」(うらみ)の身代金(瀧廉太郎)

第6楽章 盤上の夕焼け(童謡 「夕焼け小焼け」)

さすがにクラシック音楽だけでは連載を続けられないのだろう。6話中クラシックは2話だけである。というより、2話もクラシック音楽で構成したと言えるのかもしれない。私はクラシック・ファンだから、その立場からしかものを考えないが、現実的にはロックなど他のジャンルのファン人口の方が圧倒的に多いはずだ。

物語や絵を見ると原作者と作画担当が念入りの取材をしたのが分かる。レコードについての基本的知識、蘊蓄、ショップの雰囲気等、どれもリアリティがある。漫画になったとは言え、レコードの世界はマイナーだろう。そのマイナーな世界におけるリアリティーを細部まで手を抜かないで追求した点は賞賛に値する。

こういう漫画を読んでいると、私も思わずLPに憧れてしまう。真空管アンプにLPプレイヤーを部屋に置いてゆったりと音楽を聴くのもいいかななどと夢想してしまう。しかし、現実は厳しい。何より大変そうなのは、肝心の私がLPを扱うのに緊張しそうであることだ。

第4話冒頭にはレコードショップのアルバイトの女の子がLPに針を載せるのに苦労している絵がある。(この女の子がヒロインである。)

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彼女は針を落としただけで「成功です!」と喜んでいるが、私だってこのヒロインとそう変わらない。私が日常的にLPを触っていたのは高校生までである。カール・ベームの「ロマンティック」やクーベリックのマーラーなどを私はLPで聴いて楽しんでいた。しかし、それから30年以上が経過した。大学1年の時にはさっさとCDに宗旨替えをした私はこの年になってからLPプレイヤーを正しく扱う自信がない。今あのカートリッジを手にしたら間違いなくプルプル震えてしまう。こんなことは慣れの問題なのだと分かってはいるが、どうなのだろう。この漫画の原作者がこの微笑ましいシーンを入れたところを見ると、これも七面倒くさいLPを扱う楽しみのひとつということなのだろう。

(2015年9月30日)

コンセルトヘボウ管時代のハイティンクを楽しむ

ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管のCDを聴きたくなったので、図書館データベースを検索した。すると、ベートーヴェンの交響曲第5番と7番のCDが出てきた。

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ベートーヴェン
交響曲第5番 ハ短調 作品67
交響曲第7番 イ長調 作品92
ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1986年1月14,15日(5番)、1986年10月21-23日(7番)
PHILIPS(国内盤 420 540-2)

PHILIPSが撮った音で聴くハイティンク指揮コンセルトヘボウ管は何度聴いても美しい。ハイティンクはこの20年後にロンドン交響楽団を指揮してベートーヴェンの交響曲全集を再録音した。もはや押しも押されもせぬ巨匠となったハイティンクの指揮ぶりを楽しむのであれば断然その新録音を聴くべきだが、私はコンセルトヘボウ管の演奏でハイティンクを聴くのを無上の楽しみとしている。オーケストラの響きは断然こちらが上なのである。

ただし、第5番の演奏は今聴いてもやはり中庸の枠を出ない。例えば、この曲では指揮者のヴォルテージを反映したと思われる激烈な録音が多数あるので、ハイティンクの微温的な演奏は比較対照されるとどうしても不利だ。もっとも、私はそれでも構わない。コンセルトヘボウ管の清澄な響きで演奏される5番は爽快ですらある。音楽によほどのドラマを求めるのでもなければ、これも立派なベートーヴェンだ。芝居がかっていなくていいだろう。

一方、第7番は単純に「中庸」とは言えない。久しぶりに聴いたら、かなりの名演奏だった。ブラインド・テストをしたらハイティンク指揮コンセルトヘボウ管だと当てられる人は少ないだろう。CDに付いていた日本語解説には小林利之氏が「一般に知られている”舞踏の聖化”(ワーグナー)とか”リズムの神格化”(リスト)といった情熱的なリズムの奔流からハイティンクは背を向けて、ベートーヴェンの音楽がめざすシンフォニックな造型に意を集中する」と書いている。確かに「シンフォニックな造型」は追い求められているだろう。しかし、ハイティンクは「情熱的なリズムの奔流から背を向けて」はいない。それは言い過ぎだ。この指揮者は極端さを売り物にしていないだけで、十分情熱的なリズムの奔流を作っている。コンセルトヘボウ管の弦楽セクションも力演している。特にスピーカーの右側から聞こえるチェロとコントラバスの音は猛烈だ。(PHILIPSの音作りに助けられて入るのだろうけれども、それを言うなら他の指揮者、他のオーケストラだって条件は同じだ。)

この1枚のCDで私はしばらく音楽を楽しんだ。大量のCDを処分したのは辛かったが、それによって適度なCD渇望状態が続くことになったのは音楽鑑賞上のメリットだったようだ。図書館でCDを借りるとしても、1度に4枚までという上限がある。しかも、図書館にすべてのCDが揃っているわけではない。あるものを有り難く借りてきて拝聴するのみである。聴いたらそれを返却しなければならないから、それまでにできるだけ丁寧に聴こうとする。また、私にはデジタル・コピーを作る気は全くない。以前は何千枚というCDを所有していたから、渇望状態からはほど遠かった。CDは1枚1枚丁寧に聴くものだ。それが音楽を楽しむ秘訣だと改めて理解した。

(2015年9月29日)

アルプス登山への招待 R.シュトラウス:アルプス交響曲 文:青木さん

青木さんの「音の招待席」に「アルプス登山への招待」を追加しました。青木さん、原稿ありがとうございました。この文章、とてつもなくおもしろいですね。An die Musik山岳部の青木さんならではの痛快な文章です。登山とクラシック音楽に対する愛がこのように融合した例は希ではないでしょうか。

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そういえば、青木さんは「禿山の四夜」でも登山についての情熱を吐露していましたね。登山シリーズを期待してしまいそうです。

(2015年9月27日)

マーラーの交響曲第10番に聴くカタストロフ

マーラーの交響曲第3番を聴いた後、残った交響曲は第10番だけになった。図書館のデータベースを検索すると、ハーディング指揮ウィーン・フィル盤が出てきたので、早速借りてきた。

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マーラー
交響曲第10番(デリック・クック補筆完成全曲版)
ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2007年10月、ウィーン、ムジークフェラインザール
DG(国内盤 UCCG-1389)

私はマーラーの交響曲第10番を愛聴したことがない。マーラーを日常的に聴いていた頃でさえも第10番だけは敬遠してきた。恐ろしいのである。第1楽章アダージョのカタストロフが。最初に聴いたのがどの指揮者によるものだったか覚えていないが、その恐ろしさだけは未だに忘れられない。私にとっては背筋が凍りつくような恐怖体験だった。第1楽章を最後まで聴き通すことができなかった。その後時間を空けて何度か挑戦し、かろうじて第1楽章を最後まで聴いた。今も、できれば聴きたくない曲である。

ところが、指揮者たちにとってはこの曲がマーラー演奏のフロンティアになってしまったようで、マーラーが一応完成させたと推測されるのが第1楽章だけであるにもかかわらず、クック補筆全曲版などが録音されるに至った。クラシック音楽界ではすっかり定番の曲として扱われているような気配だ。他の人はこの曲が恐ろしくないのだろうか。

それはともかく、久しぶりにこの曲を聴いてまた衝撃を受けてしまった。

第1楽章のカタストロフが暴力的に聞こえなかったのである。何と、ハーディングとウィーン・フィルは、このカタストロフを異様なほど美しく奏でるのである。私は我が耳を疑った。カタストロフがオルガンの響きのように調和して耽美的に聞こえてくるのである。いや、そんなレベルにとどまらない。その響きはもはやエクスタシーに通じるほどだ。甘美なエクスタシー。そんなことって、あるのだろうか? これはカタストロフではないのか?

第1楽章が終わったところでしばらくCDを止め、私は考えた。もしかしたら、そういうことなのかもしれない。カタストロフは破滅であり、死である。だが、それは甘美なエクスタシーをもたらすことだってあり得るのだ。生は死と隣り合わせだ。生から死への移行は理解しやすい。しかし、死から見れば死は生はすぐ隣にある。タナトスの裏にはエロスがあるのだ。想像するだけでも恐ろしいことだが、カタストロフにはエクスタシーがあるのかもしれない。

それにしても何とすさまじい演奏だろうか。ハーディングとウィーン・フィルはそんなことを意識してこの第1楽章を演奏したのだろうか。私はあまりの衝撃に呆然となった。もうしばらくこの曲を聴かなくていい。

(2015年9月22日)

混沌の中に天国はある

以前は聴こうとしても身体が受け付けなかったマーラーを、転居後には全く支障なく聴けるようになったので、交響曲第3番を聴いてみた。図書館にはハイティンク指揮ベルリン・フィルのCDがあったので迷わずクリックした。

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マーラー
交響曲第3番ニ短調
ベルナルト・ハイティンク指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
アルト:ヤート・ファン・ネス
エルンスト=ゼンフ合唱団の女性たち
テルツ少年合唱団
録音:1990年12月16-18日、ベルリン、フィルハーモニー
PHILIPS(国内盤 PHCP-192/3)

第3楽章からは特に大きな感銘を受けた。至極マーラー的な、ある意味ではちんどん屋風の旋律で軽快に開始されるこの楽章冒頭は混沌としている。雑多で粗野で意味不明である。これがマーラーの音楽の魅力のひとつなのかもしれないが、都会の雑踏の中にいるような落ち着かなさを感じる。しかし、それだけでこの曲は終わらない。この曲は一体何なのだろうと首をひねっていると、突如として時間が止まり、ポストホルンの長大なソロにより天国が描かれるのである。それが一段落すると音楽はまた混沌に戻ろうとする。そこでもう一度天国が現れ、さらに、新たな世界が開けたようになって華々しく曲が終わる。その終わり方も混沌と言えば混沌であるが誠に鮮やかだ。奇妙奇天烈な音楽とも考えられる楽章ではあるが、聴き手に強烈な印象を与える。

マーラーは時々こんなふうに天国を描く。例えば、交響曲第9番の第3楽章の中にもある。それは現実世界の恐ろしい責め苦の中に突如として現れるトランペットの旋律だ。わずかに垣間見える天国である。

我々の人生では幸福ばかりが延々と続くわけではない。天国的幸福に永続的に浸りたいとは誰もが願うだろうが現実的には容易ならざることだ。そのような幸福を不断に味わえると考えるのはむしろ非現実的だろう。我々は混沌の世界の中に生きているのであり、現実の責め苦に中にいる時だってある。そして、ごく普通の人間にとって天国は憧れだ。特別な世界なのだ。そこにずっと浸っていたいが、垣間見るくらいが関の山のことだってあり得るし、それだからこそ憧れがより一層強くなることもあるだろう。天国が混沌にある、もしくは、現実世界の責め苦の中にあるというのは、天国を最も痛切に感じることができる設定なのだ。こういう曲を聴くと、マーラーの天才を感じずにはいられない。この大作曲家は人生の真理を直感的に音楽にできたのだとしか思えない。

(2015年9月21日)

グールドのボックス・セットに興奮する

私は転居後にはよほどの飢餓状態に陥ることがなければ新たにCDを購入しないことを決意していたのだが、先日のクレンペラーによるマーラー・ボックスだけでなく、グールド・ボックスを購入してしまった。HMVのホームページでこのボックスがリリースされることを知ってからというもの、完全な渇望状態に陥ったためである。しかも、どうしても発売日に手にしたいという子供じみた欲望にまで囚われてしまい、1か月前には予約注文していたのである。オリジナルジャケットである上に、DSDリマスタリング盤であることを理由に今回もまた自分が物欲にあっさり負けたことを正当化した。

届いた箱を開けると、ハードカバーの大判解説書が入っていた。これは416ページもあり、手にするとずっしりと重い。非常に立派な作りで、多数の写真が掲載されている。あくまでも解説書ではあるのだが、所有することの楽しみを味わわせてくれるものだ。心憎い。

81枚もあるCDの中から真っ先に選んだのはハイドンの後期ソナタ集(CD 73-74)である。これを最初に聴くのは1か月も前から決めていた。

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ハイドン

  • ピアノ・ソナタ第56番 ニ長調 Hob.XVI:42
  • ピアノ・ソナタ第58番 ハ長調 Hob.XVI:48
  • ピアノ・ソナタ第59番 変ホ長調 Hob.XVI:49
  • ピアノ・ソナタ第60番 ハ長調 Hob.XVI:50
  • ピアノ・ソナタ第61番 ニ長調 Hob.XVI:51
  • ピアノ・ソナタ第62番 変ホ長調 Hob.XVI:52

ピアノ:グレン・グールド
録音:1980年~1981年、ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ

ハイドンは現代の人気作曲家とは言えない。交響曲は一時復興期に入ったように感じられたが、それでもまだまだコンサートの軽い前座のような扱いだ。ましてやピアノ・ソナタは日陰者である。しかし、ハイドンのピアノ・ソナタは名作が揃っている。彼の性格を反映して、極端な感情の表出がなく、それ故、激烈さが抑えられているが音楽の愉悦を品良く届けてくれる。そのハイドンを楽しみながら演奏しているのがグールドである。グールドの後では他の演奏は聴けなくなる。この2枚のディスクをプレーヤーにかけてご満悦になった私は、もうひとつのハイドン(CD 5)を取り出した。

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ハイドン:ピアノ・ソナタ 第59番 変ホ長調 Hob.XVI:49
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330(300h)
モーツァルト:幻想曲とフーガ ハ長調K.394(383a)
ピアノ:グレン・グールド
録音:1958年1月7-10日、ニューヨーク、コロンビア30丁目スタジオ

こちらにはハイドンは1曲のみ。ピアノ・ソナタの第59番は今回のボックスCDのために新たに再編集され、ステレオ音源として世に出ることになった。これがまた活きが良く、歌に溢れる演奏である。はっきり言ってこれ1曲でボックスセットを購入した甲斐があったと思わせる。しかも、その後に続くモーツァルトがとびきりの演奏だ。ピアノ・ソナタの第10番は言うに及ばず、「幻想曲とフーガ」が目眩をしそうなほど鮮やかで、まさにグールド節全開である。私にはこれ以上言葉がない。

そして、こんなディスクがまだまだ大量にあるのである。何という至福であろうか。物欲に負けた自分をしばらく許してあげようと思う。

(2015年9月15日)

蒸留水のような音

久しぶりにイングリット・ヘブラーのモーツァルトを聴いた。といっても、全曲ではなく、第8番イ短調K310と第11番イ長調K331だけだが。

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モーツァルト
ピアノ・ソナタ全集
ピアノ:イングリット・ヘブラー
録音:1986年~1991年、ドイツ、ノイマルクト、レジデンツプラッツ
DENON(国内盤 COCQ-83689/93)

転居の時に処分せず、手許に置いたセットである。久々に聴いてみると、実にすがすがしく、みずみずしいモーツァルトだ。音を撮ったのはアンドレアス・ノイブロンナーで、蒸留水のようなピュアな音でイングリット・ヘブラーのピアノを聴かせている。まるで純粋無垢のモーツァルトだ。煌めくばかりの演奏を前にして私はK310とK331の2曲だけで満足した。

それにしても、こういう蒸留水のような音で収録されたCDには心底驚く。本格的な装置で聴けば聴くほどその純粋さを私は強く感じる。これはちょっと信じられないような体験だ。時々、この世のものではない何かを聴いているような気にもなるのである。純粋すぎて怖いのである。私はその純粋無垢な音に驚嘆するのではあるが、その是非は未だにつけられない。不思議な録音である。

(2015年9月14日)

スウィトナー&カペレ「モーツァルト《フィガロの結婚》」を聴く 文:松本武巳さん

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「スウィトナー&カペレ「モーツァルト《フィガロの結婚》」を聴く」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。

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松本さんの文章を読んでいて、もう一度聞きたくてたまらなくなりました。このCDも処分してしまったので、手許にありません。どのCDにも思い出があるので自分ではなるべく見ないようにして処分してもらったのですが、こうしてCDのジャケットを見るだけで焦がれてしまうのだから、全くのお馬鹿さんという気がします。また、私はこのCDの試聴記を1999年に書いたのですね。しかも掲載日は私の誕生日でした。それから16年も経ってしまいました。驚きです。

(2015年9月12日)

キングスウェイ・ホール

先日購入したクレンペラーのマーラー・ボックスをしばらく聴き続け、殆ど陶酔してしまった。

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御大クレンペラーが選んだのは交響曲第2番、第4番、第7番、第9番、「大地の歌」と5つの歌曲のみであるが、いずれも名演奏であることを再確認した。さらに、リマスタリング(24-bit/96 KHz)効果が大きかったらしく、以前私が所有していたCDより音が良かった。クレンペラーのCDはHS-2088やらartやら、様々なリマスタリングをされていたが、このボックスが最も廉価で最も高音質になっている。この音で聴けるならば、クレンペラーの他のボックスも揃えたくなるのだが、どうやらリマスタリングをしてボックス化されたのはこのマーラーだけらしい。EMIからWarnerに版権が映る直前だったので、EMIはリマスタリングをするのさえ面倒になったのだろう。ということは、このマーラーボックスは誰か奇特なスタッフの手で幸運にも特別扱いされたものなのかもしれない。

EMIの音は玉石混淆で、石の方が多いと私は思っているが、クレンペラーのマーラーは玉の部類に入る。例えば、交響曲第4番だが、冒頭を聴いただけでスピーカーの前から離れられなくなる。非常に濃密なオーケストラの音が聴けるのだ。

クレンペラーのマーラー録音は、「大地の歌」の一部がアビーロード・スタジオで収録された。それ以外はすべてキングスウェイ・ホールで収録されている。多分、ホールの大きさ、形状のお陰で音の響き方と抜けが良かったのだろう。クレンペラーのマーラーを聴いていると、ホールに恵まれたという気もしてくる。

・・・などと書いているが、私はキングスウェイ・ホールがどんな形状のホールか知らなかった。検索してみると画像がたくさん出てくた。例えば、以下の画像がそうだ。

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このホールは地下にあり、さらにその下を地下鉄が通っているという。その点では録音技師泣かせではあったろう。それでもEMIもDECCAもここを使い続けたわけだから、いかに優れた音響が得られる場所だったか分かるというものだ。

しかし、このホールももはや存在しない。1983年に所有者が変わり、録音会場としての生命を終える。そして今は全面改装され、ホテルになっている。キングスウェイ・ホールは大レーベルが大演奏家とともに真剣に録音に取り組んだ古き良き時代を象徴するホールであり、それが失われたことは、録音芸術のひとつの終焉を表している。

(2015年9月6日)

ヤナーチェク「マクロプロスの秘事」を聴く(観る) 文:松本武巳さん

松本さんの「音を学び楽しむ、わが生涯より」に「ヤナーチェク「マクロプロスの秘事」を聴く(観る)」を追加しました。松本さん、原稿ありがとうございました。現地で観て、さらにDVDでも鑑賞できるなんて、素晴らしいですね。

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(2015年9月5日)

音量について

『長岡鉄男のわけのわかるオーディオ』(音楽之友社)を手にしてみた。

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この本で改めて思い知らされたのは、私がかなり小さな音量でCDを聴いているという事実だった。スピーカーの能率やアンプの出力も絡んでくることなので、明確な基準はないとしても、大音量派はアンプのボリュームを11時以降にして聴いているらしい。11時! 一体どのような環境でなら11時以降のボリューム位置が実現できるのか。山の中の1軒屋だろうか? 完全防音を施したオーディオルームの中だろうか。かつて私は1軒屋に住み、少しばかりの防音を施した部屋を持っていたのにもかかわらず、それほどの大音量で音楽を聴いたことはない。一緒に暮らしている家族を無視するわけにはいかなかったし、真夜中には近所の迷惑も考えたからだ。

では、中音量はどのくらいなのかというと、アンプのボリューム位置が9時から11時までのあたりを指すらしい。ということは、転居前の私はかろうじて中音量派だったようだ。ボリューム位置は9時をちょっと過ぎるくらいで、10時を越えなかった。しかし、今の住居では9時も厳しい。階下で静かに暮らすお年寄りを想像すると無体なことはできない。

何故、今になって音量にこだわるのか。それはここ数年間聴けなかったマーラーとブルックナーを聴けるようになったことが大きい。気がついてみると、転居してからマーラーもブルックナーも違和感なく聴いている。マーラーは3番以外をすべて聴いた。ブルックナーは3番、4番、7番から9番までを聴いた。何年間も身体が受け付けなかった曲を聴けるようになったのは嬉しい。(マーラーやブルックナーを聴けなくなっていたのは、自分の体力の問題だとばかり思っていたのだが、そうではなかったのだ。)

マーラーやブルックナーを聴けるようになったのは良いのだが、これを音量を絞ったまま聴くのは少しストレスがたまる。例えば、マーラーの交響曲第6番はもう少し音を出して聴きたいところだ。しかし、そうすると端からはこれほどうるさく感じられる曲もないのだ。無遠慮にCDを聴こうとすれば、階下のお年寄りをノイローゼにしてしまいそうな気がする。

そして一番の問題は、本当の小音量だと、ディスクの音を十分に引き出していると感じられないことだ。理論的にはどうなのか分からないが、小音量だとアンプに働いてもらっている気がしないし、スピーカーの鳴り方が全く違うのだから、演奏家達が目指した音楽を聴けていないのではなどと愚にもつかぬことを考えてしまう。

もしかしたらオーディオ界のどこかには、そんなマンション暮らしのクラシック音楽ファンに役に立つノウハウがあるのかもしれないが、巨大な方舟のオーナーであった長岡鉄男は小音量とは無縁であったろう。だから、彼は『長岡鉄男のわけのわかるオーディオ』の「あとがき」に、とてつもなく重要で、現実的で、残酷なことを書いたのだ。曰く、「本当のオーディオは防音完備の広い部屋が必要である。つまり土地が必要なのだ。土地のない人にはオーディオはできない」。全く恐ろしいことを最後の最後に平気で書いてくれるものだ。

(2015年9月3日)

クレンペラーのマーラー:交響曲第7番

CDはできるだけ買わずに、図書館から借りるようにしていたのだが、クレンペラーのマーラーが葛飾区にはないのである。そうなると余計に聴きたくなる。仕方なく、とうとうボックスCDを買ってしまった。目当ては交響曲第7番である。

以下、異論があるのは承知で私見を書く。

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マーラー
交響曲第7番
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:1968年9月18-21,24-28日、ロンドン、キングズウェイ・ホール
EMI(輸入盤 2 48398 2)

クレンペラーがEMIに録音したのは交響曲第2番、第4番、第7番、第9番、そして「大地の歌」である。ここで問題となるのは交響曲第7番だ。クレンペラーは9日間もじっくりと時間をかけて録音している。これだけの時間を費やすことが分かっているのであれば、EMIのプロデューサーも少しは及び腰になるかもしれない。費用と、予想できるセールスを考慮すればマーラーの別の曲を録音するという選択肢があったはずだ。それにもかかわらず、交響曲第7番の録音が実現したというのは、指揮者の特に強い欲求があったことを例証する。

ところが、皆様がご存知のとおり、この交響曲第7番はマーラー演奏の歴史に残る珍盤だ。CD1枚にすっぽり収まる演奏だってあるのに、クレンペラーは延々100分をかけて演奏している。

これは他の演奏から比べれば異常としか言いようがないテンポ設定による。第1楽章から遅い。とても遅い。オーケストラもその遅いテンポで強靱かつ重量級の音を響かせる。そして、クレンペラーはそのまま第5楽章まで通すのだ。

しかし、どうだろう。クレンペラーのこのテンポはやはり異常なのだろうか。異常ではない、と私は考えるに至った。クレンペラーは最初からこのテンポを想定していたし、このテンポでこそこの曲が傑作として残る、と信じていたに違いない。なぜなら、他の演奏では第4楽章までと第5楽章の間に極端に大きな断絶があるのに、クレンペラー盤にはそれがないからである。クレンペラーはスコアを読んで、第1楽章から終楽章までつながるようにこの曲を設計し直したのだ。そして、それに必要なテンポで演奏したのだ。

交響曲第7番を私は長い間理解できずにいた。第4楽章まではマーラー的世界を堪能させてくれるこの曲は、第5楽章がまるでとってつけたようなのである。黄泉の国の音楽を奏でているはずのオーケストラは無理矢理脳天気な音楽を奏でなければならない。しかも、その理由が何もないのである。暗から明へ、苦悩から歓喜へという物語があるのであれば、途中に何らかの葛藤、闘争があってしかるべきなのに、それがないのである。なのに、いきなり明を表現し、歓喜へ到達しなければならない。そんな馬鹿な。そういう曲だと言えばそれまでなのだが、オーケストラ曲の達人であるマーラーがそのような曲を書くだろうか。また、そういう曲だとしたら、クレンペラーともあろう大指揮者がわざわざ選んで録音しようとするだろうか。いずれも答えは否だろう。

私の考えでは、クレンペラーは、この第5楽章を明でもなく、歓喜でもないように演奏したかったのだ。それこそ黄泉の国にいるままその狂気を表したかったのだ。だから、クレンペラーは端からは異常とも思えるスローテンポを第5楽章に適用したのだ。さらに、その第5楽章につながるように第1楽章から第4楽章までのテンポも決めたのだ。それがこの長大な演奏の理由なのだ。

私は録音でも実演でもこの曲を聴いてきた。奇妙奇天烈な曲だと思ってきた。今思うと、第5楽章を、どの指揮者も扱いかねていたのだろう。しかし、クレンペラー盤だけは違っている。他の指揮者の演奏は忘却の彼方に消えたが、クレンペラー盤の演奏だけは私の頭に違和感なく残った。クレンペラーのテンポは異常なのではない。他の指揮者が曲を掌中にしていなかったのだ。

・・・と私はこのCDを繰り返し聴いて確信した。

(2015年9月2日)