月別アーカイブ: 2015年7月

白狐魔記 源平の風

『白狐魔記 源平の風』

1996年作品
斉藤洋著
偕成社

51YRW56EBAL._SX327_BO1,204,203,200_

『白狐魔記』は「しらこまき」と読みます。人間に姿を変えることができる白狐魔丸という名の狐が主人公の歴史物語です。第1巻には源義経が登場します。白狐魔丸は大変な長命で、源平の時代から、延々と日本の歴史を見続けるのです。2015年時点の最新刊では元禄時代に生きています。

斉藤洋はプロットを重視する作家で、物語は非常にテンポよく進みます。文章も平易で非常に読みやすいです。そのため、この作品は歴史物に少しでも興味がある男子にはうってつけの読み物となっています。小学2年生が手にしているのを見かけることもありますが、斉藤洋がこの作品に込めたアイロニー等を理解するには小学4年生以上が良いかもしれません。文字を眺めて読んだというのと、内容を理解して読んだというのでは全く中身が違うのです。

白狐魔丸は母の元を離れて独り立ちした時から一風変わっていました。人里近くにいたこと、耳が良かったことから人間の言葉を聞き分けられるようになるのです。ある日、白狐魔丸は白駒山には不思議な力を持つ仙人がいると聞き、旅を始めるのです。旅の途中、一ノ谷で平家の兵たちに殺されそうになったところを源義経に助けられたり、漁師に追われたりしながら白駒山の近くに辿り着きます。白狐魔丸はそこで仙人狐と出会い、修行を始めます。

このように、源平時代を舞台にしたファンタジーであるわけですが、随所に斉藤洋らしさが垣間見える作品でもあります。例えば、白狐魔丸は「修行」というのだから、断食をしたり、逆さづりになったり、滝に打たれたりするのだと思っています。しかし、仙人はそんなものを一笑に付してこう言います。「滝にうたれて修行をしたという者がよくいるが、そういうことをいえるのは、生きているからだ。死ぬまでやったというわけではない。滝にうたれて、ああ、おれは苦しい修行をしているんだと思って、気持ちよがっているのだ。そんなものは、温泉につかって、ああ、いい湯だ、といっているのと、変わりはない。」なんとも小気味よいではありませんか。

さらに、白狐魔丸はこれから武士の世になることを嘆きます。白狐魔丸は人を殺すのを生業としている武士を最下級の人間だと見なしているからです。そうなると、当然、自分の命を助けてくれた源義経に対しても手厳しいです。「どんな者でも、家来を何百人も死なせてはならないのだ。」「戦は敵も死ぬが、味方も死ぬ。いろいろ理屈はあるのだろうが、それはよいことではない。戦いに勝つよりも、戦いをうまくさけるのが大将のつとめではなかろうか。」と考えます。

歴史物には勇壮な手柄話がつきものですが、このシリーズは軍記物の亜流ではないのです。物語の影に隠れた斉藤洋の主張を少しでも子どもたちには読み取ってほしいと思います。

(2015年7月24日)

童話物語

『童話物語』

1999年作品
向山貴彦著
幻冬舎

douwa_1 douwa_2

本作品は日本発の傑作ファンタジーです。ハードカバーの初版本は540ページの大著で、しかも、2段組です。原稿用紙1,287枚を要したとか。タイトルを見て、楽しく平易な物語だろうと想像して読み始めるとどうもそうではないことがしばらくすると分かります。また、1ページの密度が高いのでさらさらと読み進めるわけにはいきません。ある程度読書力があり、根気を持って読める中学生以上にお薦めです。小学生でも読めるでしょうが、これを読んで内容を理解し、楽しめるなら相当の読書力の持ち主でしょう。ハードカバー版は絶版になっているようですが、幻冬舎文庫から2分冊で出ています(上掲の画像)。

少女ペチカが生きる架空の世界クローシャには伝説がありました。それは世界における人間の由来を示すものでした。それによると、人間は永遠の命を持つ妖精から別れてできたものでした。月の神は羽根のない妖精である人間に、今まで見たこともない光があることを知り、人間の存在を許します。人間は妖精のような永遠の命がない代わりに子孫に命をつないでゆけるようになりました。しかし、それには条件がありました。人間がその光を失った時、月の神は天から無数の妖精を遣わし、金色の雨を降らせて人間を消滅させるというのです。その日を人間は「妖精の日」と呼びました。果たして、人間は月の神が見た光を失わずにいられるのでしょうか。もし、その光が失われたら、本当に人間は天使によって消滅させられるのでしょうか。

主人公ペチカは薄幸の少女です。親をなくした後は教会に引き取られ、そこで教会守(もり)の仕事をしながらみじめな生活をしています。教会ではペチカを人間扱いしようともしない守頭(もりがしら)に徹底的に虐待されています。教会守を一緒にしている子どもたちからもひどいいじめを受けており、ペチカは年若くしてこの世の地獄を味わっています。そのペチカはある日、妖精フィッツに出会います。フィッツに出会った後もペチカの生活が良くなるわけでもなく、逆に村にいられなくなるような窮状に陥ります。守頭はじめ、村人は無実の罪を着せられたペチカを追い回し、殺そうとします。この物語はこの世に神はいないのか、正義はないのかという絶望感を読者に味わわせます。

ペチカを虐待し続けた守頭は、物語中ずっとペチカを殺そうと付け狙います。その一方、教会守の仲間で、ペチカをいじめていた少年ルージャンは、自分の非を悟り、彼女に詫びをしたい一心でペチカを追う旅に出ます。物語の終盤になると、人間の心の中にある悪によってこの世に暴力が蔓延します。すると、童話の中で聞いていただけの「妖精の日」がはじまるのです。何と、金色の雨が降ってくるのです。

上記が『童話物語』のあらすじですが、穿った見方をすればペチカを追い回す極悪な守頭は『レ・ミゼラブル』に出てくるジャベールの執拗さとテナルディエの悪を足したような設定であり、人間がある日突然消滅の危機にさらされる点で「妖精の日」は『エヴァンゲリオン』に描かれる「人類補完計画」を彷彿とさせます。ペチカをめぐる環境は絶望的で、後半にわずかな光明を見いだしてくるのですが、これでは人間に光を見いだすことなどできないと月の神に判断されても致し方なさそうな描写が続きます。しかし、『エヴァンゲリオン』と違い、『童話物語』は幸福な最後が描かれています。それはどうやってもたらされるのでしょうか。・・・気になる方にはぜひ本作品を読んで頂きたいと思います。ただし、たっぷり時間を取って内容を味わいながら読んでくださいね。読後には大きなカタルシスが得られるはずです。

(2015年7月14日)