カテゴリー別アーカイブ: ノン・フィクション

塩野七生 『ギリシア人の物語 Ⅰ 民主制のはじまり』

塩野七生の『ギリシア人の物語 Ⅰ 民主制のはじまり』(新潮社)を読む。

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これは私にとって待望の本だった。ギリシアが当時の超大国ペルシアに勝てたのはなぜなのだろうか、という疑問がずっとあったからだ。私は塩野七生の大ファンなので、ギリシャを取り上げた本をぜひ書いてもらいたいとかねてから願っていた。しかし、塩野七生は15冊に及ぶ『ローマ人の物語』の後、十字軍の時代まで書き上げている。さすがにもうギリシャ時代に戻ることはないのではと私は半ば諦めていたのである。だから、この本が出版されると知った時は欣喜雀躍した。塩野が私のために書いてくれたのではないかとさえ思っている。

それはともかく。

この戦役についての個別情報なら私だって少しは知っている。

BC490 (第一次ペルシア戦役)

  • アテネが主力のギリシア軍、マラトンでペルシア軍を撃破。

BC480 (第二次ペルシア戦役)

  • スパルタ軍、テルモピュレーでペルシア軍相手に玉砕。
  • アテネを主力とするギリシャ軍、サラミスの海戦にてペルシャ軍を撃破。

BC479

  • スパルタを主力とするギリシア軍、プラタイアでペルシア軍を撃破。

テルモピュレーの戦いは戦史マニアには著名だ。スパルタの王レオニダスがわずか300の兵でペルシアの大軍を迎え撃った戦いである。この模様は近年の映画『300』でもドラマチックに描かれている(激突シーンはこちら)。また、マラトンの戦いもサラミスの海戦も『300』の続編『帝国の進撃』で取り上げられていた。しかし、映画を観たところで、ペルシア戦役の全体像が掴めるわけではない。映画は絵になるところしか扱わないし、脚色が激しすぎ、支離滅裂になる場合もあるからだ。実際に、『300』と『帝国の進撃』にはあり得ないと思われるシーンが続出する。

『ギリシア人の物語』は違う。塩野はアテネやスパルタの政体、ギリシャの状況を描きながら、迫り来るペルシアの脅威に対してギリシアの人々がどのような考えのもと、どのような行動を取っていったのかを克明に示している。これなら、ギリシア勝利の理由はよく分かる。

塩野はギリシャの勝利について以下のようにまとめている。

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ペルシア(東方)は、「量」で圧倒するやり方で攻め込んできた。それをギリシア’(西方)は、「質」で迎え撃ったのである。
「質」といってもそれは、個々人の素質というより、市民全員の持つ資質まで活用しての、総合的な質(クオリティ)、を意味する。つまり、集めて活用する能力、と言ってもよい。
これによって、ギリシアは勝ったのである。ひとにぎりの小麦なのに、大帝国相手に勝ったのだった。
この、持てる力すべての活用を重要視する精神がペルシア戦役を機にギリシア人の心に生まれ、ギリシア文明が後のヨーロッパの母体になっていく道程を経て、ヨーロッパ精神を形成する重要な一要素になったのではないだろうか。
この想像が的を突いているとすれば、今につづくヨーロッパは、東方とのちがいがはっきりと示されたという意味で、ペルシア戦役、それも第二次の二年間、を機に生まれた、と言えるのではないかと思う。
勝負は「量」ではなく、「活用」で決まると示したことによって。
(p175-176)
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多分このようなことなのだろうと予想はしていたが、塩野はそれを歴史的事実をできる限り積み上げることで説明している。物語の体裁をとってはいるものの、立派な歴史書たり得ると思う。

(2016年2月18日)

吉成真由美 『知の逆転』

吉成真由美のインタビューによる『知の逆転』(NHK出版新書)を読む。

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サイエンスライターである吉成真由美が当代の知性に対して行ったインタービューをまとめたもの。2012年12月初版である。

インタビュー先は以下の6人である。

  • ジャレド・ダイヤモンド
  • ノーム・チョムスキー
  • オリバー・サックス
  • マービン・ミンスキー
  • トム・レイトン
  • ジェームズ・ワトソン

このうち、トム・レイトンのインタビュー内容は彼我の差異を如実に感じさせるもので、まさに衝撃的であった。トム・レイトンはアカマイ・テクノロジーズ社の協同設立者で、MITの数学教授でもあるという。アカマイ・テクノロジーズと言われても私には未知の企業である。ところが、同社は「誰も知らないインターネット上最大の会社」らしい。我々が利用する大手サイトは、この会社のサーバによって迅速に表示されているという。同社のサーバ台数はこのインタビュー時点で9万台もある。それを世界各地に配置し、サイトへの大量アクセスに対処しているのである。それはサーバの台数が確保できるから成り立つ業務ではない。数学理論の導入によって初めて可能になる。数学教授としてのレイトンは、現実社会では殆ど役にも立たないと思われていた数学をインターネットの世界で駆使し、巨大ビジネスに成長させたのである。

アメリカではインターネットに対する研究がかなり本格的に行われているらしい。アメリカ発の技術だからしかたないのかもしれないが、インターネットの根幹はアメリカで作られ、発展させられている。アメリカの優秀な頭脳がインターネットの世界でしのぎを削っているのだ。それに引き替え、我が国はインターネットを利用しているだけである。供給する側には回っていないのだから、インターネットそのものでビジネスはできていないし、アメリカのように最先端の研究が行われているとも思えない。これでは大人と子どもであり、とても勝負にならない。日本はインターネットという現代社会のインフラに対して手も足も出せず、単に使う側に回るお客さんに成り下がっている。

かつては「技術立国」を標榜していた国はどこに行ったのだろうか。・・・なんてことを他人事のように書いているからダメなんだね。

(2015年11月16日)

松田道雄 『続 人生ってなんだろ』

松田道雄の『続 人生ってなんだろ』(筑摩書房)を読む。

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1974年発行。「続」というのだから「続」がつかない正編があるのだろうが、図書館にはなかった。

中学生向けに書かれた文章をまとめた本である。2ページ見開きに、ひとつのテーマに対する文章(主に人生訓話)がまとめられ、全部で100の文章が掲載されている。私は軽い気持ちで読み始めた。

すると、これが名文揃いなのである。わずか2ページに著者の考えはこれ以上ない明確さで表されている。言葉も文体も平易であり、まるで中学生に語りかけているかのようである。著者は読者に理解してもらえるように平易に書いている。これは大変な文章力だ。これほどお手本になりそうな優れた文章にはなかなかお目にかかれない。

果たして、著者が「文章について」というテーマで書いた文章が出てきた。長いが、後半部分を引用しておく。
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文章もていねいであればわかる。ていねいというのは、相手にわからせようという熱意のあることだ。その意味で、文章はたんなる技術ではない。だれに、どんな気持ちではなしかけるかということが大事だ。
私は結核の無料相談所の医者であったことで、文章のけいこができたと思っている。
病気のことを何も知らない病人ばかりやってきた。無料相談所へくるのは、貧乏でこまっている人だったから、中学にもいけなかったような人がおおかった。
そういう結核の病人に、病気のおこってくるわけを、わかるようにはなさねばならなかった。私は熱心にはなした。私のはなしがわからないで、病人が養生しなかったら、死んでしまう。それは人の命にかかわることだった。
私はていねいにはなすことを自然にまなんだ。だから文章をかくときも、ていねいにはなすようにかけた。
このごろの大学生がくれるビラにかいている文章は、わけのわからないのがおおい。あれは、ていねいでないからだと思う。
演説をきいても、だれを相手にしているのかがはっきりしない。自分だけわかって満足し、相手にわからせようとしない。
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やはりそうだったかと唸る。

(2015年10月15日)

なだいなだ 『心の底をのぞいたら』

なだいなだの『心の底をのぞいたら』(ちくま文庫)を読む。

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初版は1971年である。長く読み続けられているのは、平明でありながらも読者の心に残るものがあるからだろう。おそらく中学生を対象にして書かれているが、大人にとっても読み応えがある名著だ。

後半になるにつれて内容は深まっていく。人間はなぜ兄弟げんかをするのか、男女の肉体上の違いはどんな影響をもたらすのか、思春期とは何か、思春期に友情を育むことができるのは何故か、などについてなだいなだは明解に解説する。

私が注目したのは、逃げることについてなだが積極的な評価をしていることであった。なだはこう言う。
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攻撃のための武器、牙だとか、角だとかがなくても、ただ逃げるための速い足をもっているだけで、この地上の生存競争で、生きぬき、生き残っている動物がどれだけいるかわからない。そのことは、この地上の動物を見まわしてみればすぐわかる。弱肉強食の原則の厳しい自然で、弱い、ただ逃げるだけしかとりえのない動物が、たくさん生き残っていて、強い、りっぱな牙や角を持った動物が、死にたえそうになっている。
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なだによれば、逃げることは決して卑怯ではない。逃げることによって生き残った方が良いのだ。そして、なだは、社会的な価値を持ってしまった勇気というものに疑問を投げかける。これは第4章「三十六計、逃げるにしかず」わずか16ページの中で述べられているが、本当に考えさせられる。多分、中学生には強いメッセージになって届くだろう。こうしたことが書かれているからこそ本書はロングセラーになっているのだろう。

(2015年10月3日)

橋爪大三郎 『はじめての構造主義』

橋爪大三郎の『はじめての構造主義』(講談社現代新書)を読む。

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今頃構造主義でもないかと思いながら手に取る。案の定、1988年初版のこの本の中で著者自身が「構造主義なんかにいまごろまだひっかかっているようでは、”遅れてる”もいいところでしょう」と自嘲気味だ。しかし、同時に「おませな中学生の皆さんにも読んでいただけるように」書いたというキャッチフレーズが気になって読み進めた。230pほどしかないが、中学生が最後まで投げ出さずに読むとはあまり考えられない。しかし、著者は口語調で書いたり、図版を多めに採用したり、学問的な専門用語はほどほどにしたりと、分かりやすく説明する努力をしている。その点は評価すべきだ。

構造主義を説明するのが第4章までだが、第5章の「結び」が読ませる。「構造主義は時代遅れか」に始まる率直な意見が述べられているのだ。一部を引用しよう。

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なるほど、ポストモダンもいいだろう。しかし、いくらこれまでの思想に関係ありません、という貌(かお)をしても、そうは問屋がおろさない。やっぱり思想は思想である。そして思想たるもの、これまで幅を利かせていた思想に正面から戦いをいどみ、雌雄を決する覚悟でないと、とてもじゃないが自分の居場所を確保することすら覚つかないはずだ。どうも(日本の)ポストモダンは、旧世代の思想とまるで対決していないんじゃないか。それをすませないうちは、またぞろ日本流モダニズムの焼直しなんだか、知れたものではないぞ。
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社会学、思想で飯を食うからにはこのくらいのことは言い切れないといけないのだな。

(2015年9月12日)

マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 上・下』

マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 上・下』(早川書房)を読む。

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私もかつてNHKで放送された「白熱授業」を見たことがある。サンデルがあまりに颯爽としているので、大学の授業ではなく、舞台劇なのではないかと思った。大教室に溢れる生徒を相手にたった1人で講義をし、議論をし、生徒たちを仕切っていく姿は格好良すぎる。サンデルは哲学界のカラヤンだ。(古いか?)

この本はその講義を収録したものだ。サンデルが颯爽としているのは活字を読んでも伝わってくる。活字になってさらによく分かったのは、ハーバード大学生の優秀さである。カントを議論する部分では、私は活字を読んでさえ理解するのに時間がかかるのに、ハーバード大学生たちは口頭でサンデルと丁々発止のやりとりをしている。全く頭のできが違う。

それはともかく、対話形式で哲学を学ぶのはソクラテス以来の伝統ということになっているので、サンデルの授業はまさに哲学の本来の有り様を示している。しかし、我が国で哲学の授業がこのような形式で行われている例を私は寡聞にして知らない。サンデルに続いた、もしくはサンデル同様に対話型で授業を行っている日本人の教授はいるのだろうか?

なお、上下巻の余白に東京大学でのサンデルの特別授業が収録されている。ハーバードでは正課であるので生徒は事前に参考図書を読み、次回の講義でのトピックはWeb上で議論した上で参加しているようだったが、東大ではたった2回の特別授業だ。それ故、議論の深さや抽象度の高さはハーバードに及んでいない。しかし、日本の戦争責任について議論した内容を読むと、実にしっかりとした考えを堂々と述べている。大変喜ばしいことだ。

(2015年9月7日)

田中美知太郎 『哲学初歩』

田中美知太郎の『哲学初歩』(岩波書店)を読む。

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岩波現代文庫に入ったのは2007年だが、底本は1950年に刊行されている。65年も前の本だ。

「哲学とは何か」「哲学は生活の上に何の意味をもっているか」「哲学は学ぶことができるか」「哲学の究極において求められているもの」の4章で構成されている。

読みながら結論が気になったのは「哲学は学ぶことができるか」だ。タイトルからして刺激的である。学ぶことができないという結論になったらどうなるのか。例えば、私はこうして哲学関連書を読んでいるが、この行為は無駄なのだろうか。哲学をもっと学びたいと思って努力してもそれは結局徒労なのだろうか。さらに言えば、世の中にある哲学書は何なのだろうか。学べないならなぜ哲学書があるのか。

田中はプラトンを引用して以下のように述べている。

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プラトンは、哲学の最も大切なところは、自分で見つけ出すよりほかには仕方がないのであって、話したり、書いたりして、これを他に伝えることのできないものであると信じていたようである。そしてこのことを知らずに、それを書物に書いたりする者も、またそういう書物を読んで、何かわかったようなきもちになっている人々も、プラトンはまるで信用しようとしないのである。
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恐ろしいことを平然と言ってのけている。そして、ソクラテスの産婆術について引用した後、こう述べる。

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つまりもし教育というものが、外から知識を授けることではなくて、自分でそれを見いださせることにあるのだとすれば、教師は自分で知識をもっていて、これを外から注入する必要はないのであるから、いっそ余計な知識はもっていないで、人が知識を産み出すのを、わきにいて助ける方がよいわけである。みずから「何も知らない」と言ったソクラテスは、かえってこのような理想的な教師の立場を徹底させていたのだと言うこともできるであろう。
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ここまで読むと結論が見えてくる。田中はこう述べる。

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ソクラテスの産婆術の意味における、教育は可能であり、私たちは問答を通じて、ロゴスによって、人々を知識の想起にまで導くことができるのである。そのかぎりにおいて、智を愛し求める努力も、必ずしも無意味ではなく、プラトンの教育活動も、著作活動も、一概に矛盾であると言ってしまうことはできないであろう。
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これでクリアになった。ただし、やはり部屋に籠もって哲学書を読むことは哲学を学ぶことにはならないのだ。これは肝に銘じておくべきことだろう。

(2015年9月5日)

田中美知太郎  『生きることの意味』

田中美知太郎『生きることの意味』(学術出版会)を読む。

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一文一文を噛みしめながら読んだ。明解な名文である。

200ページほどの本に15の短い文章が掲載されている。そのうち二つは戦前のものだ。最も新しいものでも1963年。どれも古さを感じさせない。15編を読むと、まるで田中が現代社会に生きていると錯覚する。田中の考えが普遍的であるからだろう。

田中の文章は相変わらず明解だ。
最終章「考える葦」(1949年)の終わり頃には以下のように書いている。

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我が国においては、いわゆる知識人と大衆との間に大きな溝があるというようなことが言われるけれども、そのような溝は、すでに知識人自身の思想と生活との間に存在しているのではないかと疑われる。つまりその思想は、その生活から遊離していて、自然にその生活を支配するような力を欠いているのではないかと疑われる。
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もうひとつ、田中節とも言える決然たる文章がある。「自由と偏見」(1946年)の最後である。痛快極まりない。

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人々は自分でものを考える苦労を嫌って、何でもたちまちのうちに解明してくれるような哲学を求めた。流行の哲学は、これさえあれば他に何も考えないですむような工夫ばかり教えようとしたのである。その結果、哲学の勉強がかえって思想の自由を失わせることにもなった。わたしたちは哲学大系を何か一つ呑み込んで、いろいろな事柄を、その哲学大系の用語で片言なりとも喋ることができれば、それで満足するような人たちに何も期待することはできない。哲学の思惟は、法律の適用に頭をはたらかせる属吏の思惟ではなくて、法律が世のため人のためになるかどうかを吟味する、立法者の思惟なのである。思想の自由なくしては、哲学は不可能である。そしていかなる暴政のもとにも、哲学だけは、思想の自由を保持しなければならない。自由に考えることは、その義務であり、徳なのである。そしてかく自由に考えることによってのみ、それは国のため、世のため、人のために尽くすことができるのである。もしこれを怠るなら、それはまさに断罪されなければならない。
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(2015年8月19日)

田中美知太郎 『哲学入門』

田中美知太郎の『哲学入門』(講談社学術文庫)を読む。

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何度も読み返したくなる名著だ。

哲学の入門書と聞いて思い浮かべるのは、日本語とは思えぬ硬質な学術用語と、正確さを期すために使われる翻訳調の文体で学説の歴史を止めどもなく説明している解説書だ。この本はタイトルこそ『哲学入門』だが、中身はそうした類書と違う。というより、類書とは比べものにならない。田中美知太郎も過去の大哲学者の言葉を引用しているが、それを咀嚼した上で、自分の考えを述べている。その意味では哲学の学説史などではあり得ない。

全部で240ページ弱の本だが、さらに5つの文章に分かれている。「モームの哲学勉強」「関東大震災の頃」「京都での学生生活」「哲学とその根本問題」「科学史の視点」である。このうち、100ページ弱の「哲学とその根本問題」があるゆえに『哲学入門』というタイトルがつけられたようだ。

「哲学とその根本問題」は昭和30年(1955年)4月から5月にNHK教養大学で行われた講義録である。何と私が生まれる前である。8回の講義の中で、田中は哲学についての予備知識がない人にでも分かる言葉のみを用いて哲学を語る。これ以上分かりやすい文章を他に求めることはできない。また、その内容があくまでも現実を見据えて書かれている点に驚かされる。だからこそ田中の講義は今なお読者に訴えかけるのだ。例えば、第6回講義では「知」と「生」について述べられている。ここで田中はこう語る。

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ソクラテスの考えに従えば、「知る」ということは、「おこなう」ことになるのです。そうならない知は、まだ「知」ではないわけです。医学の知識は、病をいやし、健康をもたらすのであり、建築の知識は、家をつくる。病を治さぬ医学の知識、家をつくることのできぬ建築の知識というようなものは、無意味だということになります。哲学のためには、このようなつながりが必要なわけで、そのためには、哲学の求める智も単に知られるものについてだけ考えられる知ではなくて、知る者を医者にし、建築家につくる、ひとつの力としての知でなければならないでしょう。これらは現実に、技術として存在しています。哲学は、それらの技術の技術でなければならないのです。
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こんな名調子が続く。惚れ惚れとするような文章ではないか。

なお、「モームの哲学勉強」「関東大震災の頃」「京都での学生生活」は哲学者田中美知太郎を知る上でも、読み物としても面白い。

(2015年8月14日)

小泉義之 『デカルト哲学』

小泉義之の『デカルト哲学』(講談社学術文庫)を読む。原本は1996年の『デカルト=哲学のすすめ』である。

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2015年5月に転居する前、本棚を整理していたら、デカルトの『方法序説』が3冊も出てきた。それらは訳がすべて違う。買う度に読んだはずだから、私は少なくとも3回『方法序説』を読んだことになる。肝心なのはその結果だ。おぼろげにしか覚えていないのである。特に、デカルトが神を証明する箇所は繰り返し読んでも納得できなかった。いくらデカルトでも証明方法に無理があるのではと恐れ多くも西洋哲学の大家に疑惑の目を向けながら読んだので消化不良である。そもそも『方法序説』を3回も買って読んだということは、「読んだ=自分のものになった」という実感がなかったからだろう。異なる訳で読んだところで理解はそれ以上深まらなかった。3冊をどの順に読んだのかさえ不明である。全く情けない(残念ながら3冊はすべて処分した)。

そんな状態だから、『デカルト哲学』などというタイトルの本が目に入ると、飛びついてしまうのである。しかし、この本はデカルト哲学の解説本ではなく、デカルトの言葉を著者がどう解釈しているかを記した本である。解釈を明確に示すために著者は時折具体例を述べているが、これが大変激烈な書きぶりだ。序章から雲行きが怪しかったのだが、痛烈に批判精神を発露させている。立命館大学での授業はおそらくかなり熱気の入ったものに違いない。それでもデカルトがより身近になれば私は満足である。が、そうも言えない。著者は入門書の形を取っておらず、最初からデカルトの文章をごく短く抽象化してまとめたりするので出発点の位置が高くなってしまっている。これからデカルトを読むという人にはかなり厳しい内容だろう。

そういうことなら、やはり訳書であっても原典に当たるべきなのだ。『方法序説』でも『省察』でも『情念論』でも、原典を読んでデカルトに近づくべきなのだ。解説本を手にしたところで、ただの遠回りなのだ。分からないのであれば分からないなりに4回でも5回でも読むしかない。私は『デカルト哲学』を読んで、4冊目の『方法序説』を手にする必要を感じた。

(2015年8月13日)

川端裕人 『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』

川端裕人の『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』(ちくま文庫)を読む。

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1997年の作品だが、2010年に文庫化される際に30ページにわたる「文庫版のための少し長いあとがき」が収録された。このあとがきはイルカ漁を巡って日本が国内外から大きな批判を受けた後にまとめられており、非常に優れた資料となっている。川端裕人は小説家でもあるが、こうした分野に対して取材・情報収集を行い、記述するのに優れた力量を発揮する。

なお、私はこの本を読んで思うところは多かったのだが、あえて口をつぐみたい。そういう態度が問題なのかもしれないが。

(2015年8月10日)

藤本634 『腐ったら負け HKT48成長記』

藤本634の『腐ったら負け HKT48成長記』(角川春樹事務所)を読む。

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腐ったら負けなのでがんばれ、という人生訓が書かれている本ではない。これは、2011年5月11日、AKB48の姉妹グループとしてHKT48の結成が発表されてから現在に至るまでのグループ及びメンバーの成長記録だ。児玉遙、宮脇咲良、田島芽瑠など多くの若手メンバーが苦悩しながら今のHKT48の中で生きてきたことが本人たちのインタビューを交えながら示されている。

この本で改めて明らかになったのは指原莉乃の力だ。それは、結成されてから成長の踊り場にいたHKT48が指原の移籍を機に離陸できたことにとどまらない。指原がHKT48の精神的支柱であり続けていることが重要だ。指原は年端も行かぬ若いメンバーとは精神面で全く違っている。この本では、HKT48のメンバーがどこそこのポジションを取れなかったから悔しい、動揺する、泣く、という記述が延々と続く。しかし、指原についてだけはそのレベルの言及がない。AKB48の指原の中では数々の葛藤があっただろうが、HKT48での指原はそれをおくびにも出さない。AKB48を追放され、HKT48に移籍した瞬間から立ち位置が他のメンバーと違っているのだ。つまり、自分のことだけを考えるのではなく、チーム全体を盛り上げることを最優先にして動いている。昨年出版された指原の『逆転力』(講談社)を読んだ際にも感じたが、HKT48を作り上げたのは指原だ。HKT48という企画は秋元康らのスタッフが作ったが、チームとしてのHKT48は指原が作ったものなのだ。『腐ったら負け HKT48成長記』はそれを再確認させる本だった。

AKBグループは厳しい。かわいい女の子が安穏と楽しい毎日を送っているわけではない。常に人から評価され、順位付けがされる。しかも、自分の力ではどうにもならないことが評価の対象に含まれている。年齢と美貌だ。今はそれが好感されて人気を保っていても、もっと若く、もっと美貌の子がどんどん入ってくる。すると、順位、ポジションは容赦なく変えられていく。これは地獄のようなシステムである。そんな世界で彼女たちは生きているのだから、動揺したり、泣いたりするのは当然だ。指原だって二十歳そこそこの年齢だ。それにもかかわらず、確固たる自分を持ち、超然としながらチームを構築してきた。AKBグループの傑物だとしか言いようがない。

(2015年8月8日)

石角友愛 『ハーバード式脱暗記型思考術』

石角友愛の『ハーバード式脱暗記型思考術』(新潮文庫)を読む。

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原題は『私が「白熱教室」で学んだこと』だったらしい。著者はアメリカの高校・大学を卒業し、ハーバード・ビジネス・スクールを卒業した後、グーグルで働く才媛だ。彼女の目から見たアメリカのエリート教育の実態が分かりやすく述べられている。

この本を読むと、アメリカの高校・大学での教育と日本のそれは目指す方向が違いすぎて、もはや相手にもなっていないと思わせられる。アメリカでは日本のように知識偏重の教育を行わず、物事の本質に迫るべく討議を重ねることが縷々述べられている。また、この本を読む限り、アメリカで教育を受ければ、人間的にも大きく成長できそうだ。こうなると日本教育はアメリカに完敗ということになる。そして、著者は日本人の考えている「勉強」が世界標準の「勉強」とは大きくかけ離れていると主張する。

実際にアメリカで教育を受けてきた人の文章なので、その点では確かに説得力はある。しかし、仮にもハーバード・ビジネス・スクールを卒業した方の著書がこの程度の感想文で良いのだろうか。もう少し日米の教育についてケース・スタディをしても良かったのではないだろうか。また、アメリカの教育方法が「世界標準」だと断言する根拠が不明だ。本当にそうなのだろうか。著者はこうしたことを検討する必要もないと判断したのだろう。しかし、私はその比較研究の結果を知りたいのだ。たとえ結論が同じになったとしても、その検討・研究は無駄ではないはずだ。

(2015年8月5日)

鷲田清一 『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』

鷲田清一の『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』(ちくま文庫)を読む。

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鷲田は「身体は<像(イメージ)>」であると最初に言い切る。人間は自分の顔を自分で直に見ることはできない。背中や後頭部も、下半身の局部もそうだ。自分で知覚できる部分は思っているほど多くない。だから、鷲田はこう続ける。

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ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、このぼくの身体って離れてみればこんなふうに見えるんだろうな・・・・・という想像の中でしか、ぼくの身体はその全体像を表さないと言っていいはずだ。つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり<像(イメージ)>でしかありえないことになる。

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鷲田はファッションについて書き始めた頃、恩師から「世も末だ」と呆れられたという。確かに哲学者がファッションについて研究し、語るというのは我々が考える哲学者の仕事とは違うように最初は感じられる。しかし、どうだろう、「身体は<像(イメージ)>である」ということから説き始める鷲田のファッション論は刺激に満ちた哲学ではないか。鷲田の名著『モードの迷宮』が出版されたのは1989年だったが、大評判になったのは当然だ。鷲田の恩師は鷲田の真価を理解していなかったのだ。

(2015年8月4日)

鷲田清一 『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』

鷲田清一の『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)を読む。

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平易で明解。『じぶん・この不思議な存在』より平易なので瞠目したが、それには理由があった。底本がNHKラジオ番組のためのテキストだったのである。全体は13の章に分かれ、それぞれの章で鷲田思考のエッセンスがエッセイ風に述べられていく。これだけ平易・明解なら中学生にも安心して薦められる。

上記のような成立事情であるために、どの章の内容も鷲田の著作を読んできたものにとっては目新しくはない。しかし、逆に、鷲田がどのようなことを考え、述べてきたかを一望するためには有用だろう。「問いについて問う」「こころは見える?」「顔は見えない?」「ひとは観念を食べる?」「時は流れない?」など魅力的な章がずらりと勢揃いだ。

鷲田の文章の魅力はいくつもあるが、そのひとつに例え話がとびきりうまいことが挙げられる。会社を定年退職して家庭に戻ろうとする男とその妻について鷲田は以下のように書く。

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(二人が)同じ<時>の流れのなかを生きてきたというのはひどい幻影であり、二つの異なる列車が同速度で並んで走っているときに、二つの列車に別々にいるひとがたまたま同じ列車内にいると勘違いしていただけのことなのだ。
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鷲田は現実を直視するので、恐ろしいことをいとも簡単に分かりやすい例を使って説明する。さすがとしか言いようがない。

(2015年8月3日)

鷲田清一 『じぶん・この不思議な存在』

鷲田清一の『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)を読む。

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鷲田清一の著書の中では抜群に平易な言葉で書かれた良書だ。難解な哲学用語を使わずに、中学生でも分かるように記述している。

鷲田は、「《わたしはだれ?》という問いに答えはない」とこの本のエピローグで述べているが、その一方で「〈わたし〉というものは《他者の他者》としてはじめて確認されるものだ」とも主張している。鷲田はそれがいかなることかつぶさに説明していて、大変読み応えがあった。例えば、電車の中で化粧をする女性を見ると、ある人は腹立たしくなるが、それは、その女性にとって、それを見ている人が他者でないからである。要するに人としてさえ認識されていないのである。それが直感的に分かるから嫌な気持ちになるのである。

一頃、「自分探しの旅」という言葉をよく見かけたものだ。私は「自分は自分なのに、探さなくてはいけないのか? また、どこかへ旅に出ることで自分は探せるのか?」と疑問を抱いたものだった。鷲田清一の考え方を使えば、一人旅をして仮に誰とも関わらず、風景の一部になってしまうのであれば、誰からも「他者」として確認されないことになる。そのような事態に陥るのであれば、「自分探しの旅」は本来の目的とは逆に自分を喪失する旅になる。やはり「自分探しの旅」は自分探しではあり得ないのだ。

(2015年8月2日)

鷲田清一 『哲学の使い方』

鷲田清一の『哲学の使い方』(岩波新書)を読む。

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「著者渾身の書き下ろし」という言葉に嘘偽りはなかった。

哲学は日常生活から極端に遊離し、時代の困難から最も隔絶した学問になっているが、鷲田はむしろ同時代の問題こそ哲学を必要としていると主張する。その例として現代の諸問題を列挙する。環境危機、生命操作、先進国における人口減少、介護・年金問題、食品の安全、グローバル経済、教育崩壊、家族とコミュニティの空洞化、性差別、マイノリティの権利、民族対立、宗教的狂信、公共性の再構築・・・。どれも頷けるものばかりだ。しかし、そうであるにもかかわらず、哲学はあまりの難解さから問題解決の手がかりとして求めてくる人間を門前で拒絶している。拒絶されたという経験を持たない人など、どれだけいるのか。また、門前で拒絶するほど敷居が高い学問が他にあろうか。鷲田はそのような状態に堕した哲学の再生のために、対話形式という西洋哲学の伝統に立脚した「哲学カフェ」を紹介している。哲学に光明を感じさせる本だ。

二宮晧監修 『こんなに違う! 世界の国語教科書』

二宮晧監修『こんなに違う! 世界の国語教科書』(メディアファクトリー)を読む。

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私は日本の小学生が使う国語教科書があまりに薄っぺらいのを見ていつも嘆かわしい気持ちになったものだった。本当に薄っぺらい。活字は大きく、長い文章は掲載されていない。その一方で、授業時間数は決して少なくない。ということは、生徒たちはその貧弱な国語教科書に書いてある文章を粘り強く読んで鑑賞しているわけだ。その時間は楽しいのだろうか。

『こんなに違う! 世界の国語教科書』を読んで、ますます日本の国語教育は危ういのではないかと心配になってきた。この本で紹介されている事例を見ると、何の哲学も感じられない日本の国語教科書とは雲泥の差だ。詩や戯曲を扱うだけでなく、その中にたっぷりとユーモアを盛りつけるイギリスの教科書、本格的な文学作品や芸術作品を掲載し、それについて考えさせるフランスの教科書の内容を知ると羨望を禁じ得ない。すごいのはロシアだ。小学4年生になるとかなりの大作を読ませるという。「短い作品ばかり読ませていて、ドストエフスキーが読めるようになるのか」という声があるのだという。至極ごもっともだ。

どのような教師も父兄も、「国語はすべての科目の基礎なので重要だ」と声を揃える。しかし、本当にそう思っているのであれば、どうして今のような国語教科書が放置されているのだろうか。私にはさっぱり分からない。

(2015年7月28日)

『中学生からの大学講義 5 生き抜く力を身につける』

『中学生からの大学講義 5 生き抜く力を身につける』(ちくまプリマー新書)を読む。

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これは各界の最前線にいる方々が桐光学園で行った講義をまとめたもので、全5巻。

このシリーズは講義を収録したものだから、語り口は平易であるが、内容は十分に刺激的だった。中高生向けに出版された本でありながらも、大人にも訴えかけるものも多く、これまでの講義の中でも鷲田清一、村上陽一郎の講義は非常に読み応えがあった。

どの巻においても冒頭の講義が出色だ。この第5巻でも冒頭の大澤真幸「自由の条件」から強い印象を受けた。「なぜ自由な社会で息苦しさを感じるのか」「人間が「自由な主体」になるためには」など、現代を生きる我々に自由について考えさせる。

このシリーズはこの第5巻で完結しているのだが、続編を出せないものか。終わらせるには惜しい企画だ。

(2015年7月27日)

白取春彦編訳『超訳 ニーチェの言葉 Ⅱ』

『超訳 ニーチェの言葉 Ⅱ』(ディスカバー)を読む。

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「Ⅱ」が刊行されたというからには「Ⅰ」が相当売れたのだろう。

私も「Ⅰ」を買って読んだ。そして、衝撃を受けた。なぜなら、私が知らないニーチェの言葉が大量に並んでいたからである。その驚きは筆舌に尽くせない。私は高校生の頃からニーチェを読んできたのに、その私に未知の言葉が次から次へと出てくる。私はニーチェを読んだつもりになって、実際にはニーチェを全く理解していなかったのだと愕然としたものである。

しかし、謎はすぐに解けた。『超訳 ニーチェの言葉』は翻訳書ではなかったのである。編訳者である白取春彦氏が、ニーチェの言葉を自分の解釈でくるんで本にしたのが『超訳 ニーチェの言葉』だったのだ。「超訳」とは何のことだろうと思っていたのだが、要するに自分の解釈をニーチェ風に書き換えたのだ。

とはいえ、『超訳 ニーチェの言葉』を全否定する気はさらさらない。白取春彦流人生訓の書と見なせば十分おもしろい。「Ⅱ」もそのつもりで読んだ。白取春彦氏の言葉だと割り切って読んでいると、人生訓どころか、心理カウンセリングの本のようにも思えてきた。例えば、最後に掲載されている「悩みの小箱から脱出せよ」の前半部分を抜粋すると次のとおりだ。

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悩む人というのはいつも閉じ籠もっている。従来の考え方と感情が浮遊している狭くて小さな箱の中に閉じ籠もっている。その箱から出ることすら思いつかない。
その悩みの小箱に詰まっているのはみな古いものばかりだ。古い考え方、古い感情、古い自分。そこにあるものはすべて昔から同じ価値を持ち、同じ名前を持っている。
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この部分の出典は『ツァラトゥストラはかく語りき』(至福の島々で)らしい。できれば『ツァラトゥストラはかく語りき』を参照して、どのようにニーチェの言葉を変容させたのか確認したいところだが、引っ越しの際に書物をほぼすべて処分してしまったのでそれが叶わない。身を軽くしたのは良かったが、自分にとって重要な書物はむやみに処分してはならないのだ。もっとも、そんなレベルの人生訓は『超訳 ニーチェの言葉』の「Ⅰ」にも「Ⅱ」にも記載されていない。

(2015年7月25日)