カテゴリー別アーカイブ: フィクション

恩田陸 『蒲公英草子 常野物語』と『エンド・ゲーム 常野物語』

恩田陸の『蒲公英草子 常野物語』と『エンド・ゲーム 常野物語』(集英社文庫)を読む。

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光の帝国 常野物語』を読んで感動した私は貪るようにして「常野物語」第2作『蒲公英(たんぽぽ)草子』と第3作『エンド・ゲーム』を手にしたわけだが、第1作ほどの感動は得られなかった。

『蒲公英草子』では日清戦争後、日露戦争前の旧家を舞台にしている。その旧家には余命幾ばくもない美しく若い女性がいるが、彼女は常野一族の血が流れているために、未来に起こることを予知できるという特殊能力があった。その少女を巡るはかなく、美しい物語が『蒲公英草子』だ。古い時代の雰囲気を違和感なく表現している点は悪くはない。

しかし、『エンド・ゲーム』の方は、物語が意味不明だ。この作品に登場する家族は敵を「裏返す」ことができる。逆に、敵は自分を「裏返」そうと攻撃を仕掛けてくる。問題は、その敵が一体何で、「裏返す」とはどのようなことなのか最後まで理解できないことだ。「常野物語」はこの後も続くらしい。だから完全な謎解きは続編を読んでのお楽しみということなのだろう。しかし、ここまで説明不足では、続編に期待できない。第4作以降がこの「裏返す」力を持つ家族の話になるのであれば、「常野物語」は読む気がしない。人の記憶を自分のものとして「しまう」ことのできる一族の物語が続くことを期待しよう。

(2015年12月3日)

恩田陸 『光の帝国 常野物語』

恩田陸の『光の帝国 常野物語』(集英社文庫)を読む。

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時間を忘れて読んだ。デビュー作『六番目の小夜子』、『蛇行する川のほとり』、そして『球形の季節』と読んでいって、もう恩田陸は私に縁がない作家だから、これ以上この作家の作品を読む必要はないのではないかと思ったが、そうではなかった。少し嬉しい。

常野(とこの)という場所には特殊能力を持った人たちがいる。ある人たちはなんでも記憶することができる。ある人たちは遠い場所の音を正確に聞き分け、何が起きたのかを知ることができる。またある人たちは人の姿を見てその人の未来を読み取ることができる。さらに、ある人たちは心に思っただけで人を一瞬にして焼き殺すことができる。

そのような特殊能力を持った人たちにはありふれた幸福はないものだ。筒井康隆の『七瀬ふたたび』でも超能力者たちは全員抹殺されている。だから、この作品においても、彼らは世界中に散らばって目立たないように暮らしているし、過去には暗い記憶もある。しかし、それでも、彼らにはこれから何かを一族をあげて成し遂げる必要があるらしい。それが語られそうなところで本編は終了した。続編が2冊あるが、読むのを待ちきれない。

恩田陸の学園ものを読むのは苦役に等しかったが、『常野物語』を読んで私の恩田陸評は一変した。ある作家について語るのであれば全集を読んでからにすべしと言ったのは小林秀雄だが、その通りなのだ。

(2015年11月23日)

恩田陸 『蛇行する川のほとり』

恩田陸の『蛇行する川のほとり』(中央公論新社)を読む。

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高校生の美少女、美男子を描く浮き世離れした小説だった。このような作品が存在すること自体に驚く。確かに高校生くらいの年齢には大人になる前の純粋さや無垢な感じはあるかもしれないが、美化しすぎると、非現実的なアニメでも見ているような気分にさせられる。

単行本の表紙を上に掲載したが、この絵は裏表紙にも続いている。どこかで遊ぶ4人の少女の絵である。作画は酒井駒子だ。作中には4人の少女がこのような下着姿で遊ぶ場面は登場しない。おそらくこれは編集者がおおよそのイメージを酒井駒子に伝えて書かせた図版であろうが、奇しくも浮き世離れしたこの作品の姿を表現している。酒井駒子の西洋趣味の絵は一頃大変もてはやされた。それは理解できなくもない。日本人離れした美少女への憧憬を表現したからだろう。確かに目を引くのだが、絵の吸引力が強すぎてテキストを薄めてしまう傾向があった。ところが、本作品はこの絵がどんぴしゃだ。これほど表紙のイメージと内容のイメージが一致した例はない。この表紙が文庫本にはない。本作品をパッケージとして鑑賞したいのであれば単行本を手にした方が良い。

物語は美少女、美少年が子供の頃に起き、迷宮入りした殺人事件を追想するものである。その意味ではミステリー小説に分類すべきだろう。

(2015年11月22日)

村山由佳 『翼 cry for the moon』

村山由佳の『翼 cry for the moon』(集英社)を読む。

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前半は何度も投げ出したくなった。なぜなら、夢も希望もない物語として開始された上、簡単に人が死ぬからである。私は登場人物が簡単に死ぬ作品が好きではないのだ。そのような展開は安易に感じられるのである。人間がいとも簡単に死ぬ時はある。戦争や争乱、あるいは災害や事故が起きた時だ。しかし、それ以外では人間はそう簡単に死なない。死なないし、死ねない。だから、人はどんなに辛く、苦しくても現実の中で生きなければならないのだ。物語の展開上、人の死が必要な場合もあろうが、そういう設定は現実的でないし、物語としての魅力に欠ける。

それはそれとして。

本作品の主人公真冬はニューヨークで暮らす日本人だ。父親の海外赴任のため、彼女は子供の頃ボストンで育った。しかし、その父はボストンで拳銃で頭を撃ち抜いて自殺する。彼女の母は父と仲違いしていたくせに父の死を目撃していた真冬を忌避し、虐待する。その虐待は言葉によるもので、真冬が人を不幸にすると言い続ける。実際に彼女の周りの人は不幸に陥るのである。真冬が子持ちのアメリカ人男性と結婚する時も母はその結婚を祝福しない。そして、母の予言通り、真冬が結婚式を挙げた1時間後、新郎は射殺されるのである。ここまででもう私はギブアップしそうだった。

しかし、その後がこの物語の主部なのである。結婚後わずか1時間で死んだ夫には前妻との間の連れ子がいた。真冬はその子とともに亡き夫の生家があるアリゾナに行くのである。そこで真冬は亡き夫の一族と過ごし、ネイティブ・アメリカンのナバホ族の風習に接する。その中で彼女は少しずつ生きる力を取り戻していくのである。

530ページを読み終わってみれば、作者の主張はおおよそ把握できる。前半で投げ出さなくて良かったとは思う。ただし、読書のカタルシスを得るにはやや物足りない。

(2015年11月7日)

村山由佳 『天翔る』

村山由佳の『天翔る』(講談社)を読む。400ページを一気に読み切った。

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不幸な境遇にいる少女の物語である。母は男を作り家を出た。少女は小学校では父の仕事が鳶職だったためにいじめに遭っていたが、その父は仕事中事故で死ぬ。そんな少女に大人たちが手をさしのべる。だが、その大人たちだって訳ありの人生を送ってきているのだ。少女は不登校になっているが、乗馬の才能があった。やがて彼女は大人たちの支援を得ながら、アメリカで開催される100マイルのレースに出場し、完走するというのが大まかなストーリーだ。

売れっ子作家の作品だけにツボを押さえた作話だ。有り体に書くと、泣かせる。不幸に襲われたのは主人公の少女だけではない。登場人物は誰もが人生の苦難と直面し、それと戦いながら生きている。少女は主人公には違いないが、登場人物たちそれぞれが懸命に生きる姿が描かれている。少女は最後には不幸ではない。そして、懸命に生きてきた周囲の大人も不幸ではない。読者に明るい希望を与える本だ。

(2015年10月25日)

トゥルゲーネフ(ツルゲーネフ) 『初恋』

トゥルゲーネフ(ツルゲーネフ)の『初恋』(光文社古典新訳文庫)を35年ぶりに読む。少年の初恋の女性が誰かに恋をしている。その相手が自分の父だったという有名な物語だ。

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少年は自分の初恋を図らずも父に踏みにじられた。しかし、その父に対する恨みは全くない。私はそんなに単純なものかと若干疑問だが、もしかしたら少年の初恋は目の前に妙齢の女性が現れたことに対する条件反射的なもので、恋や愛とは違ったものだったのかもしれない。

古典とはいえ、物語には背徳的な雰囲気はない。微塵もない。19世紀においては、これ以上の描写がなくても、実の父が21歳の若い女性と深い仲になったという物語があるだけでも十分刺激的であったのだろう。背徳的な内容の小説・映像は現代に溢れているが、それが後世に残るかどうかは疑問である。

(2015年10月19日)

梨木香歩 『エンジェル エンジェル エンジェル』

梨木香歩の『エンジェル エンジェル エンジェル』(新潮文庫)を読む。

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車中の暇つぶしのために手にした本だったが、予期せぬ傑作だった。

女子高生のコウは母親の自慢の子で、天使のようだと言われている。彼女は死期が迫る祖母の世話をしている。その仕事の引き替えのようにしてコウは母親から熱帯魚を飼ってもらう。エンゼルフィッシュだ。このエンゼルフィッシュは名前がエンゼル=天使なのに、残虐この上ない。コウが水槽に入れておいた小さな魚を攻撃し、食べ尽くす。小さな魚がいなくなると体格の良いエンゼルフィッシュが小さなエンゼルフィッシュを攻撃し、食らう。エンゼルフィッシュは自分を制御できないらしいのだ。

物語は、重層的だ。まず、コウの目で現在の世界が描かれている。そこではコウがおばあちゃんを世話している。もうひとつは、おばあちゃんの若かりし頃の物語がある。おばあちゃんは女学生の頃、エンゼルフィッシュよろしく、何も悪くない級友に対して異常なほど攻撃的であった。

おばあちゃんはエンゼルフィッシュの残虐さを見て、エンゼルフィッシュを嫌う。なぜなら、過去の自分と同じだからだ。しかし、エンゼルフィッシュだって、女学生の頃の自分だって、自分で自分を制御できなかったのだ。そのような時、創造主である神は「私が悪かった」とつぶやいてくれるのだろうか。そんなことをコウとおばあちゃんは話している。

文庫版のページ数は150ページほどしかないが、構成は重層的かつ複雑で、作者が人間の業を淡々と描くその筆致が素晴らしい。『西の魔女が死んだ』や『裏庭』よりずっと深い。心に残る作品だ。

(2015年10月11日)

村上龍 『希望の国のエクソダス』

村上龍の『希望の国のエクソダス』(文春文庫)を読む。

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単行本初版は2000年である。執筆時から言えばこの作品は近未来小説だ。

2002年、日本中の中学生たちが反乱を起こす。中学校は中学生たちによって見捨てられるのである。彼らの事実上のリーダーは同じ中学生のポンちゃんである。ポンちゃんは中学生とは思えないほど突き抜けたものの考え方ができる少年だ。彼は中学生80万人のネットワークを使ってビジネスを始める。やがて、日本が通貨危機に見舞われた時、ポンちゃんはインターネット経由で国会演説を行う。それによって日本は通貨危機を凌ぐ。その後、巨大なビジネスグループの総帥となったポンちゃんは北海道に独立国を作り始める。これが大まかな物語だ。

内容的には非常に興味深い。閉塞感漂う日本社会の中で、中学生のポンちゃんが台頭してくる様は痛快である。村上龍はこの作品を書くために膨大な資料を読み、近未来を描くのに使ったが、驚くべきことに、村上龍が描いた近未来である2000年代の様子は、2015年の現在を表現しているかのような真実味がある。そうした点は村上龍の面目躍如である。

しかし、読後感は全く良くない。村上龍は日本が嫌いで仕方ないのだろう。彼は日本を愚劣な人間が巣食う最低の国だとでも思っているのではないか。あるいは、村上龍はすべての日本人が無能で馬鹿に見えるのかもしれない。その気持ちが文章から滲み出ているので、正直申しあげてこの作品を読むのにはうんざりした。それは事実を突きつけられたことに対する私の拒否感や嫌悪があったためなのだろうが、自分が生きる国に対して村上龍がここまで愛がないのは不思議だ。

(2015年10月10日)

佐藤多佳子 『第二音楽室』

佐藤多佳子の『第二音楽室』(文春文庫)を読む。

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小学生から高校生が主人公の短編集。すべて女子が主人公で、音楽が絡んでいる。ただし、何かの大舞台があって、誰かが華々しい成功を収めるようなサクセスストーリーではない。楽器からして地味である。

「第二音楽室」 主人公:小5女子 楽器:ピアニカ
「デュエット」 主人公中学女子(学年不詳): 楽器:歌
「FOUR」 主人公:中1女子 楽器:ソプラノリコーダー
「裸樹」 主人公:高1女子 楽器:ベースギター

私は佐藤多佳子の作品を生理的に受け付けない。若者の口語をそのまま活字にしたような文章を読んでいると、本を放り出したくなる。この本でも、冒頭の表題作から最終作に向けて若者口語体度はどんどん上がっていく。最終作「裸樹」は今時の女子高生の独白そのもので、最初の1ページで本を閉じたくなった。

ところが、この「裸樹」が最も印象に残る作品だった。

主人公の女子は中学の時に不登校の経験がある。彼女はある日路上で歌う女性の歌に魅了されてギターを始める。それによって何かが変わると信じて。彼女は高校に入ると軽音学部でベースギターを弾き始める。そして、そこで何年も高校を留年している幽霊部員の先輩に出会う。その先輩こそ昔路上で歌を歌っていた当人だった。先輩もまた不登校であり、リストカットや薬の経験者でもあった。彼女との接点ができてから、臆病だった主人公は大きく変わり始めるのである。

主人公には未来が開けているように思えた。作者はあえてこの作品を短編にしたのだと思うが、是非続編を読んでみたい。

私事ではあるが、私の長女は不登校であった。この物語を読むとどうしても長女と主人公を重ねてしまう。私の嫌う文体で書いてある作品であるにもかかわらず、物語は私を捉えて放さなかった。今まで忌避していた作家だが、再度挑戦してみよう。

(2015年10月5日)

ホーマー・ヒッカム・ジュニア 『ロケット・ボーイズ 上・下』

ホーマー・ヒッカム・ジュニアの『ロケット・ボーイズ 上・下』(草思社)を読む。

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作者の自伝的小説である。映画「October Sky 邦題 遠い空の向こうに」の原作である。映画は渋い名作だったが、原作に到底及んでいない。

1957年、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げた。これは当時のアメリカ人に強烈な精神的打撃を与えたらしい。その中で、自分もロケットを打ち上げたいと一念発起した高校生がいた。それがこの作品の主人公ホーマー・ヒッカム・ジュニアである。彼は高校3年間をロケットの作成に明け暮れる。仲間もできる。支援してくれる先生、大人が現れる。主人公はロケットの設計のために数学も物理も化学も熱心に勉強する。そして、科学フェアの全国大会で優勝する。しかし、好きな女の子は自分に気がない。彼の父は兄を偏愛し、自分に好意を持ってくれない。どうすればいいのか。・・・という物語である。

これは翻訳書だが、文章が素晴らしい。日本の作家ならさぞかし感動的に描くと思われるエピソードがさらっと書かれている。例えば、主人公たちは科学フェアでは勝ち進んでいくが、勝利の瞬間は数行で終わる。実に淡々としたドライな文章だ。それだけに、読者は行間を読むことができるわけで、上下巻を読み通した時には大いに充実感を味わった。

ロケットを打ち上げる物語は作家の挑戦意欲を駆り立てるらしい。日本では池井戸潤の『下町ロケット』(傑作)や川端裕人の『夏のロケット』のような作品が生まれている。日本からもフィクションではなく、ノン・フィクションとしてこうした本が出てくることを期待したい。

(2015年10月1日)

奥田英朗 『マドンナ』

奥田英朗の『マドンナ』(講談社文庫)を読む。

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5つの短編が収録されている。表題作は、『ガール』の「ひと回り」と逆の設定だ。「ひと回り」では年上の女性社員のところに若いイケメン男子が現れるが、「マドンナ」では男性課長のところに若い女性が現れる。男性課長は自分の好みぴったりの部下に心を奪われるのである。本作は大人の小説にありがちな愛欲を描いたものではなく、この課長のならぬ恋がどんな顛末を迎えるのかをコミカルに描く。

この短編集で最も私の興味を引いたのは「ボス」だった。空席になった部長の席に自分が座ると思い込んでいた男は、そこに自分と同じ年の女性が座ることを知り愕然とする。その女性上司は欧米流の仕事ぶりで部門を改革していく。その途上で主人公の男とぶつかる。残念ながら男は女性上司の相手にもならず常に粉砕されるのである。あまりにも強い女性上司は非現実的だと私は思ったのだが、ふと思い直すとそうでもない。これが出世した女性管理職の典型という気がした。女性が男性社会の中で管理職として生きていこうとすれば、強くならざるを得ないだろう。

(2015年9月27日)

奥田英朗 『ガール』

奥田英朗の『ガール』(講談社文庫)を読む。

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三十路の女性が主人公の5本の短編が収録されている。どれも男目線の三十路女像なのだが、なかなかリアルだと感じた。見方によっては女性の老いをテーマにしているとも言える。

自分はもう「ガール」ではないのではと密かに悩む女性や、管理職に抜擢されたばかりに、自分より年上の男子社員と業務上で衝突する女性などが登場する。

エンタメ性も十分だ。一番楽しめたのは、最終話の「ひと回り」だ。35歳の独身女性の部署にイケメンの新入社員が配属される。彼女は年齢が一回りも違うイケメン新人を教育指導する係なのだが、彼女は会った瞬間から彼にのぼせてしまう。一方的な恋の始まりだ。イケメンを落とそうあの手この手で接近してくる社内の女性は指導教官としての権限をフルに利用して自分の手でシャットアウトする。女性が女性を見る目は鋭い。女は女の意図をすぐさま見破るのである。イケメンに女性たちが悉く色めき立つというのは漫画的で、笑ってしまう。もっとも、男だって、とてつもない美人が現れれば心奪われるのだから同じことか。漫画的とは言えないのかもしれない。しかし、彼女はある時、憑き物が落ちたようにイケメンへの異常な情熱を失う。自分の異常な行動を客観的に捉えることができたからだ。

5話ともに男性作家による女性像である。かなりの真実が含まれているように私は感じたのだが、同じことを女性読者が感じるかどうかは不明である。

(2015年9月24日)

奥田英朗 『家日和』

奥田英朗の『家日和』(集英社文庫)を読む。

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短編集。6作が収録されている。どれもよくできた話ばかりだ。中でも「家においでよ」は半ば我が事が書かれているような気がした。

主人公の田辺は、ある日妻から離婚を宣告される。夫婦と言っても他人同士だから、気が合わなかったり、家財道具に対する趣味が合わなかったりすると夫婦生活を続けられないのだ。妻は田辺が出張中に自分の家財道具を持って高級マンションに引っ越してしまう。田辺はがらんとしたマンションで1人の生活を始める。

その先が面白い。彼は男の城を築き始めるのである。まず、カーテン、テーブル、ソファを買う。その後は今まで我慢してきたオーディオ機器、しかも、LPが聴ける高級機材を購入する。それでロックを聴くのだ。都合のいいことに彼が住んでいたマンションは防音が行き届いている。それに飽き足らず、彼はホームシアターまで完備させる。本棚は自分が好きな本や雑誌で埋め尽くす。こんな部屋があることを知った会社の同僚たちは田辺の部屋をたまり場にする。毎日が楽しくなる。若い頃には安物の音響機器でしか聴けなかったLPも、立派な装置で聴けば感動もひとしおだ。それに、黒澤明の『7人の侍』も大画面のホームシアターで見れば男どもを唸らせる。

田辺の家に集まる会社の同僚たちはそれぞれが家長であり、一国一城の主ではある。それでも自分の部屋など持ってはいないのだ。持てたところで、田辺のように好き放題はできない。だから、田辺の部屋は男のあこがれなのである。頻繁に通いたくなるのも無理はない。

この短編には意外な結末があった。家を出て行ったはずの田辺の妻が、ある日こっそりその部屋に入り、その変貌ぶりを目の当たりにして動揺するのである。自分がいなくなった後、田辺ががらんとした部屋で寂しい生活を送っていると思いきや、その逆だったのだ。そして、妻はその部屋に興味をもってしまうのである。最後には妻は男の元に帰ってくるのだ。

おいおい、そんなにうまくいくわけないだろうと私は思うのだが、1人の部屋でやっていることは私も田辺もあまり変わらない。私はもっと本格的に男の城を築かなければならないのだろうか。

(2015年9月21日)

奥田英朗 『サウスバウンド』

奥田英朗の『サウスバウンド』(角川書店)を読む。

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小学6年生を主人公にした小説だが、児童書ではない。小学生の目から見た家族を描いた大人向け作品である。

小学6年生の上原二郎は東京・中野に住む食べ盛りの少年だ。彼にはちょっと変わった父親・一郎がいる。一郎は働かないで毎日家でごろごろしている。家計は母が喫茶店経営をしてやりくりしているのだ。一郎は元左翼の活動家だった。それも伝説の闘士だった。そうしたことは普通過去のこととされるものだが、そのスピリットは今も活動家のままで、国家公安委員会にもアナーキストとして名前を知られている。当然、区役所の役人や学校の先生など、公的部門に勤務する人たちが目に入ると暴れ回る。例えば、子供の修学旅行の積み立て代金は、業者が学校側と癒着して高めに設定し、学校側にはリベートが払われていると決めつけ、学校で大騒ぎする。そんな親を持った子供はたまったものではない。挙げ句の果てに父と子はある殺人事件に間接的に関与してしまい、一家は中野にいられなくなる。引っ越し先は沖縄の西表島だ。

沖縄に行くと、一郎は東京在住の時とは打って変わって労働に精を出す。働く働く。野性的になる。母は母で急に若返ってしまう。電気もない生活だが幸せである。共生の思想がある沖縄では共産主義が実現したくてもできなかった理想社会ができあがっているからだ。まるでこの世の楽園だ。しかし、この物語はこれで終わらない。父はここでも闘争を始めるのだ。島の開発をもくろむ業者と戦うのである。その勇姿を見た家族はすっかりこの父を好きになっていく。

ここまで書くと、著者が左翼の活動家を賞賛しているような内容に思えるかもしれないが、決してそうではない。左翼とは距離を置いている。また、市民活動家に対しては少女の口を借りて「要するに誰かを謝らせたいのよ。それが手っ取り早く叶うのが、正義を振りかざすことなんだと思う」と批判する。むしろ、この本の主題のひとつは、一郎の次の言葉に表されている。

「これはちがうと思ったらとことん戦え。負けてもいいから戦え。人とちがっていてもいい。孤独を恐れるな。理解者は必ずいる」

この小説のように戦えれば男子として本望だろう。

なお、西表島はこの本に書いてあるとおりの場所なのだろうか。もしその通りであって、それを新小岩転居前に知っていたら、私は新小岩でなく、西表島に引っ越していただろう。夢が膨らむ物語である。少なくとも、西表島に行ってみたくなる。

(2015年9月16日)

山口理 『河を歩いた夏』

山口理の『河を歩いた夏』(あすなろ書房)を読む。児童書である。

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千葉県我孫子市に住む少年一平は、小5の時に大学生の叔父と我孫子から利根川の土手を歩いて太平洋に出た。それがひどく辛い経験だったので、彼はもう2度とそんな馬鹿げたことはしないと決心していた。しかし、小6の夏休みに彼はあることを思い立つ。今度は利根川を逆方向に歩き、新潟県にある利根川の水源まで辿り着こうというのだ。我孫子から水源までは300キロある。しかも途中からは山登りだ。山岳部員でもある大学生の叔父はまたもそれに付き合うが、一平のクラスメイトも男女も参加することになる。

私は自分の体験もあるのでこの本を特に楽しく読むことができた。

私は数年前に自転車に乗ってさいたまから新潟県の苗場スキー場に行ったことがある。前橋までは平坦で、自転車で苦もなく行ける。しかし、その後はなかなか厳しかった。月夜野からはずっと上り坂だ。自転車をのんびり漕いでいるわけにはいかない。早く登り切らないと日が暮れてしまうからだ。私は必死に自転車を漕いだ。

さいたまから苗場まではわずか170キロほどだったが、『河を歩いた夏』で少年たちは300キロを踏破している。大人が1人付いているとはいえ子供ばかりだ。小6では体力的にも非常な負担だろう。また、川沿いを歩くというのは、上流に行けば行くほど道が悪くなるので簡単ではない。道が分からなくなることもある。彼らにとっては大変な冒険だったろう。

苦労しながらも彼らの旅は成功するが、そのコースは魅力的だ。大水上山の水源には大きな石があり、さらに最初の一滴がその少し先の雪渓から発しているのだという。私も利根川の水源まで歩いて行ってみたくなった。

(2015年9月14日)

池井戸潤 『ロスジェネの逆襲』

池井戸潤の『ロスジェネの逆襲』(文春文庫)を読む。

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半沢直樹シリーズの第3弾である。これからも続くのかどうか不明である。

半沢直樹は華々しく活躍しすぎたために銀行本店から証券子会社に出向させられている。今度は証券会社の社員として銀行の証券営業部と徹底抗戦をしている。第3巻にもなると半沢の完全無欠のヒーローぶりが前提で物語が進行する。半沢には影の部分がないので、もはや非人間的な印象さえ受けるのだが、そのように難癖をつけたとしても本作は面白くてたまらない。池井戸潤のプロットは緻密で、企業買収についてもリアルな記述が続く。サラリーマンなら誰もが楽しめる作品だろう。

半沢は銀行の証券子会社にいるのに、銀行本体を敵に回す。そんなことをすれば人事でどのような目に遭わされるか分からないのに、平然として我が道を行く。半沢は、仕事は自分のためにするのではなく、「客のためにする。ひいては世の中のためにする」ものだと言い切る。さらに、「自分のためにした仕事は内向きで、卑屈で、身勝手な都合で醜く歪んでいく」とも。確かに、半沢直樹シリーズには自分のために仕事をしてみじめに敗退していく銀行員が次から次へと出てくる。

池井戸潤のメッセージは明確だ。サラリーマンの殆どは半沢直樹のような完全無欠のヒーローにはなれない。しかし、池井戸潤のメッセージは受け止めても損はしないだろう。

(2015年9月2日)

池井戸潤 『オレたち花のバブル組』

池井戸潤の『オレたち花のバブル組』(文春文庫)を読む。

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これは『オレたちバブル入行組』の続編である。社内の不正と戦う主人公を描く。前作では半沢直樹が牙をむくようになるまで、妻にやり込められたり、葛藤する場面があったが、こちらの半沢は全く逡巡していない。最初からヴォルテージが上がっている。そうなるとまるでアメリカのヒーロー映画でも観ているような気にさせられる。痛快ではあるのだが、不安や迷いがないキャラクターを見ると、「本当だろうか」という気になる。

むしろ、本作で注目したいのは脇役で登場する銀行員 近藤だ。能力がある人物でありながら、上司に潰され、統合失調症になった彼は銀行から出向させられる。出向先では社長から疎まれ、部下からも横柄な態度を取られる始末だ。それでもその出向先で働かなければならない。卑屈になって生きる彼は、ある日、本来の自分を取り戻し、出向先の悪事を追及し始める。卑屈な自分をかなぐり捨てるシーンに私は喝采を送った。

本作の最終ページには、池井戸潤による言葉が載っている。これはこのシリーズにおける主題だろう。
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人生は一度しかない。
ふて腐れているだけ、時間の無駄だ。前を見よう、歩き出せ。
どこかに解決策はあるはずだ。
それを信じて進め。
それが、人生だ。
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(2015年8月29日)

池井戸潤 『オレたちバブル入行組』

池井戸潤の『オレたちバブル入行組』(文春文庫)を読む。

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テレビ番組「半沢直樹」の原作である。

原作は確かに面白い。銀行内の醜い責任回避、背任行為が描かれており、上司に潰されそうになった半沢がそれに立ち向かうという話だ。私は物語の小気味よいテンポに感心しながら、あっという間に読破してしまった。

文庫本の本文は355ページまであるが、「やられたらやり返す」という有名な台詞は290ページにやっと登場する。ところが、テレビの「倍返しだ」は原典では「十倍返しだ」になっている。テレビの方が穏当だった。テレビのプロデューサーは本の中で1回しか出てこないこのフレーズに目をつけてドラマ化したわけだが、目の付け所はさすがだ。

テレビドラマ「半沢直樹」が大ヒットしたのは、このような主人公に多くの人が憧れたからだろう。組織の中で押し潰されそうになっている人は溜飲を下げたに違いない。しかし、押し潰されないためにはテレビや小説で鬱憤を晴らしているだけではだめだ。できすぎのキャラクターなのかもしれないが、半沢直樹を見習う必要はあるだろう。

(2015年8月26日)

池井戸潤 『不祥事』

池井戸潤の『不祥事』(講談社文庫)を読む。

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テレビ番組『花咲舞が黙ってない』の原作である。主人公名はもちろん花咲舞。テレビ化されるだけあって大見得シーンが満載の痛快な作品だ。登場人物は白黒に色分けされていて分かりやすい。

しかし、どうにも漫画的だ。文庫本の表紙からして漫画的である。人間が善玉悪玉に明確に分けられているために物語に深みがない。人間が白黒のどちらかに分類されるなどということはあり得ない。グレーや、他の色はないのか。また、花咲舞は子供番組のヒーローみたいで非現実的すぎる。これなら『銀行総務特命』の方がはるかに陰影のある作品だ。

(2015年8月22日)

池井戸潤 『銀行総務特命』

池井戸潤の『銀行総務特命』(講談社文庫)を読む。

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帝都銀行総務部企画グループには辣腕の特命担当がいる。彼らの仕事は銀行に悪影響を及ぼしかねない内外の不祥事を処理することだ。彼らの手で顧客名簿流出、女子行員のAV出演、取引先との癒着などが次々と解決される。

巨大銀行は万単位の人間を擁するとてつもない組織だ。国の中にある国だ。上下関係が明確で人事は厳しい。そしてお金を扱う組織でもある。これで人間のドラマが生まれないわけはない。「現実は小説よりも奇」であるので、現実の銀行にはもっとすさまじいドラマがあるはずだ。

しかし、銀行が特別なわけではない。私の歳になると、中堅企業でも零細企業でも同じように数々の事件・ドラマが現実に起きることを知っている。仮に10人の企業であろうと、100人の企業であろうと、人間がいる場所にはとんでもないことが起こる。これは現実に起きることなのかと口をあんぐり開けてしまうようなことが起きる。

銀行は絵になる舞台だ。物語の舞台として描くには適しているだろう。だからテレビ番組にもなる。しかし、どのような職場においても暗部はあり、驚愕の事件が起きているのだ。『銀行総務特命』は面白い作品だが、現実はこんな生やさしいものではない。

(2015年8月20日)

浅田次郎 『蒼穹の昴』

浅田次郎の『蒼穹の昴』(全4巻。講談社文庫)を読む。

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これは清朝末期の中国を舞台にした歴史小説である。ミステリーでもあり、ファンタジーでもある。

物語には西太后、李鴻章、康有為、袁世凱といった歴史上の人物が登場する。19世紀末の清朝は日本を含めた列強に国を浸食されており、国威は衰退するばかりである。帝国最盛期を築いた乾隆帝亡き後、清朝は皇帝に人を得ていないが、それには理由があったのだ。ある日乾隆帝は、愛を知らぬ皇帝一人が4億の民を支配する帝政を途絶させることを決意する。そして、天命がある者が持つ龍玉(巨大なダイヤモンド)を隠したのである。しかも、自分の後に英明な皇帝が現れないように呪いを掛けた。その結果、乾隆帝以後の皇帝たちには天命も力もなくなったのだ。乾隆帝の考えを知る西太后は自分の代で清朝の命脈を尽きさせ、二度と中国で帝国が生まれないように必死の努力をしている。

中国の歴史について知識を深めることができる点では優れた作品だ。科挙や宦官についての記述も興味深かった。また、李鴻章や乾隆帝の人物像は非常に魅力的だった。おそらく浅田次郎自身が心酔した人物だったのだろう。

しかし、設定が非現実的という印象が払拭できない。上記のあらすじを書いていて、その感覚はさらに強くなった。天命がないとはいえ、自王朝滅亡を目的とした為政者が本当にいるのだろうか。西太后を悪者として描かず、好意的に評価しようとすれば、このような設定にならざるを得ないのだろうが、私は非現実的だとしか考えられない。そのためにどうしても作品に没入できなかった。感動大作として知られる作品であるにもかかわらず、読後にはカタルシスではなく、長大な物語から解放されたという奇妙な感覚が残った。

(2015年8月12日)

浅田次郎 「はじめての文学」

浅田次郎の「はじめての文学」(文藝春秋)を読む。

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浅田次郎にこのタイトルの作品があるわけではない。文藝春秋社が文学入門として浅田次郎の5作品「ふくちゃんのジャック・ナイフ」「かくれんぼ」「夕暮れ隧道(ずいどう)」「獬(シエ)」「立花新兵衛只今罷越候」を集めて本にしたのだ。

分かりやすい作品が収録されている。極めつけは「夕暮れ隧道(ずいどう)」だ。これはある高校3年生の話である。主人公の男子生徒は、1クラスから15人くらいが東大に入るほどの進学校に通う。彼の前の席にいるのは成績抜群、東大文Ⅰ合格間違いなしの美人だ。彼は授業中、その女子生徒のブラジャーをコンパスの針で外すことに勤しんでいる。ところが、この男子生徒と女子生徒はどういうわけか恋仲になる(いきなりである)。ある日、彼らは海辺に出かける。高校生だし、女子生徒の親は門限を夜7時に設定している。しかし、二人はお互いの下心を確認してラブホテルで一夜を明かすのである。彼らは両家を揺るがす振る舞いをした後、同じ学校のカップルが交通事故で即死したことを知る。

エロスとタナトスというのは隣り合わせであるし、芸術の世界では大きなテーマになる。その意味で浅田次郎の作品は王道をいくものだ。しかし、これが「はじめての文学」? 「はじめて」というのは、小学生向け? 中学生向け? 高校生向け?

他にも、時代劇の撮影に本物の武士が闖入してしまう話を描いた「立花新兵衛只今罷越候」は読み物として面白いが、漫画的すぎないか。

ところが、浅田はそう言い出す教育委員会的な読者のことを想定していたらしい。この本の最後には浅田自身による「小説とは何か」という文章が収録されている。最初の6行にはこうある。

文学とは何か。
文章による芸術表現である。
小説とは何か。
文学のうちの、物語による芸術表現である。
では、芸術とは何か。
人間の営みを含む、天然の人為的再現である。

自作が低俗であるという批判に対して浅田は、「俗」ではあっても「低」ではないという自信はあると反論する。浅田は自作が文学であり、芸術であると確信して「はじめての文学」掲載の5作品を書いたのだ。

(2015年8月11日)

『幕が上がる』 小説と映画

本広克行監督の映画『幕が上がる』がDVD化された。主演はももいろクローバーZ。

(左の写真がDVD、右が小説)

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原作は演出家の平田オリザ初の長編小説『幕が上がる』(講談社)だ。映画化された時、上映する劇場が近くになかったため私は観ることができなかった。私はしかたなくDVDになるのをずっと待っていたが、DVDを観ていささか落胆した。映画の出来は小説をはるかに下回るものだったからである。

小説にあって、映画にないものが多すぎる。映画にあって小説にないものは殆ど意味不明のエピソードだ。

この作品の原作は演劇がどのようにして作られていくのか、演出とはどういう仕事なのかを描いている。最大の山場は、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の台本を作る主人公が、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』との出会いによって作品の解釈を一挙に高めるところである。それだけではない。宮澤賢治の詩『告別』も主人公に絶大なインスピレーションを与えるのである。原作では、しがない国語教師の授業が、主人公に大きな影響を及ぼしている。受験間近の教室で、授業は誰もまともに聞いていない。しかし、主人公は退屈そうなその授業から『銀河鉄道の夜』の核心を掴むのである。

こうしたことは、映画では表現しにくいのだろう。重要なシーンであるにもかかわらず、その部分は殆ど映像化されなかった。映画は尻切れトンボになって終わっている。詩の言葉などを映像化することはどのような監督であっても難しいのだろう。それは理解できる。結果的に、映画を観た人も、DVDを見た人も、『幕が上がる』はももいろクローバーZのための映画だとしか認識していないだろう。もったいなさ過ぎる。

子供の頃から映画とその原作の両方を私は知ろうとしてきた。まれに映画化された作品の方が優れていることはある。しかし、殆どの場合、原作の小説を超えることはない。私は映画ファンだし、インターネットの動画もよく見る。映像の力が圧倒的であることを知っている。しかし、それでも映像は活字に勝てないのだ。我々は活字から得られる情報によってひとつの世界を豊かに描き出すことができる。頭の中で作り上げられたそのイメージは映像を凌ぐ。だから活字の世界を完全に映像化するのは無理だ。それでも、努力は不要と言いたいのではない。監督は、言葉を映像に盛り込む努力をもう少ししても良かったのではないか。原作者の平田オリザはこの映画の出来に納得したのだろうか。映像がここまで小説の奥深さに肉薄しようとしなかったことはショックでもある。

(2015年8月9日)

天童荒太 『あふれた愛』

天童荒太の『あふれた愛』(講談社文庫)を読む。

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4つの切ない短編が収録されている。

第1話「とりあえず、愛」は育児ノイローゼの妻を心配するどころか責めてしまったために離婚を宣告される男の物語だ。

第2話「うつろな恋人」は主人公の男がふと知り合った女性が、現実には存在しない、幻の恋人を見ているという物語だ。その女性は幼少の頃両親から受けた心の傷から精神的に病んでいる。

第3話「やすらぎの香り」は子供の頃からの精神的抑圧で心が壊れてしまった男女が何とか支え合って生きていく物語だ。

第4話「喪われゆく君に」は、目の前で人の死を見た若者の話だ。深夜のコンビニでバイトしていると、目の前で買い物中の客が突然死する。若者は、死んだ客とその妻の思い出の場所を辿る。

いずれも心に響く作品だが、後半の2作品が特に印象深い。私はページをめくる手を止めることができなかった。

(2015年8月7日)

星新一 『未来いそっぷ』

星新一の『未来いそっぷ』(新潮文庫)を読む。

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これは1971年に発表された作品で、文庫化は1982年。私が手にした文庫本は2007年の発行で、62刷と記載されている。この数字は星新一の作品がいかに読み継がれてきているかを端的に示している。

私が10代の頃星新一は大ブームであった。しかし、その当時の私は星新一のショート・ショートを読みやすく分かりやすいが故に馬鹿にしていた。真価を全く理解していなかったのである。しかし、50歳を過ぎて再び手に取った星新一は私を驚嘆させるに十分であった。彼の作品には無駄がない。それどころではない。未来の人類がどうなるのか、考えさせられる作品が目白押しだ。それを星新一の空想の産物だと斬って捨てるのは簡単だが、先見の明があったのだと今の私は断言できる。例えば、『ボッコちゃん』に収録されている「おーい でてこーい」を読むと、核廃棄物を含むゴミ問題を正確に予想していたことに驚かされる。現代の作家なら、星新一のごく短い物語のアイディアで、長編を書こうとするのではなかろうか。物語は長ければ良いわけではない。

この『未来いそっぷ』も面白い。冒頭の『イソップ物語』のパロディ7編から星新一節が全開だ。シンデレラのその後を描く「シンデレラ王妃の幸福な人生」、未来において女性的なロボットに魅惑されて仕事をし続ける男が登場する「オフィスの妖精」、コンピュータの指示のままカバを「おカバさま」と大事にする人間の顛末を描く「おカバさま」など、魅力的な作品が多数並んでいる。

星新一の作品は漢字に読み仮名さえ振ってあれば小学3年生でも読める。しかし、ひねりのきいた面白さを味わえるのは大人なのかもしれない。50代になって星新一を再発見できた私は幸運だった。

(2015年8月6日)

筒井康隆 『エディプスの恋人』

筒井康隆の『エディプスの恋人』(新潮文庫)を読む。

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前作『七瀬ふたたび』で殺されたはずの七瀬が何事もなかったかのように生きている。

主人公七瀬は美貌の女性で、人の心を読めるという特殊能力を持つ。人の心が読めるということは、周囲の男どもの淫らな欲望をすべて知ってしまうことを意味する。その描写は「七瀬三部作」に共通している。その描写があるがためにこのシリーズは通俗エロ小説に堕してしまいかねないのだ。少なくとも女性にはおいそれとこの本を薦めるわけにはいかない。セクハラと受け止められるのは間違いないからだ。

七瀬はとある高校で教務事務をしている。その高校で七瀬は超常現象を引き起こす男子生徒に出会う。実は超常現象を引き起こしているのは彼ではなく、彼を守ろうとする「意思」だった。それが一体何なのか七瀬は知ろうとする。そして、彼を守っていたのが宇宙の超絶対者的存在だと判明する。

ここまでで終わっても物語は完結させられそうだ。しかし、筒井康隆はその先に重大な疑問を投げかける。宇宙の超絶対者的存在はどのようなことでも可能だ。人の存在の有無・生死を決定し、その思考を左右できる。不可能なことはない。七瀬も思想と行動を操作されている。その力によって高校生の少年と恋に落ちているのだ。しかし、それを突き詰めていけば、この世界はいったい何なのか。そして自分とは何なのだと思わざるを得なくなる。そもそも七瀬は前作で死んだはずだ。それなのに超絶対者によって「使える」と判断され、この世に存在しているのではないだろうか。死んだはずの自分はどうして今生きているのか。他にも七瀬は疑念を抱く。例えば、音楽に熱狂する人々は、そうするように思考と行動を操作されているのではないか。そのようなことを考えるとやるせない気持ちになっていく。自分とは何か、それが分からなくなるという恐るべき結末だ。これが筒井康隆の「七瀬三部作」の結末なのだが、最後の最後まで考え抜かれた内容に私は唸った。女性がこの作品をどう評価するか疑問だが、私は十分堪能した。「七瀬三部作」の最高傑作はこれである。

デカルトはすべてを疑うが疑っている自分の存在だけは疑う余地がないと結論したが、この作品を読んだらどう思うだろうか。

(2015年7月31日)

筒井康隆 『七瀬ふたたび』

筒井康隆の『七瀬ふたたび』(新潮文庫)を読む。

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前作『家族八景』と第3作目の『エディプスの恋人』を併せて「七瀬三部作」と通称するらしい。

主人公が得心術を使える美貌の女性七瀬であることは変わらないが、前作と異なり本作品には七瀬の他に数人の超能力者が登場する。超能力者は常人にはない特殊能力を持つのだが、そのような特殊能力を持った人間が社会で歓迎されるはずがない。恐怖と憎悪の対象となるからだ。だから、彼らは社会の中では目立たないようにひっそりと暮らす。しかし、彼らには危機が迫る。謎の組織が彼らの抹殺を図っているのだ。そして、謎の組織は情け容赦なく超能力者たちを殺処分していく。物語は主人公の七瀬の死で終わっている。

超能力者たちが無残に虐殺されるこの物語の読後感は極めて微妙だ。陰鬱である。また虚構と分かっていても切迫感ある恐怖を感じさせる。それだけ考え抜かれた作品であり、筒井康隆の筆致は冴えている。

しかし、「七瀬三部作」の最高峰はこの作品ではないのだ。

(2015年7月30日)

筒井康隆 『家族八景』

筒井康隆の『家族八景』(新潮文庫)を読む。

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人の心を読むことができる主人公の七瀬は18歳の若い身空なのに女中として住み込みで働いている。そんな人が女中として働いていれば、その家の家族模様が嫌でも完全に分かってしまう。「八景」というだけに8つの家族が描かれているが、どの家庭においてもほのぼのとした温かい愛が溢れているなどということはない。それどころか、どす黒い感情で夫は妻を妻は夫を、子は親を親は子を見ていることが明らかにされる。筒井康隆は人間の暗黒面を暴いていく。筒井康隆は売れる作品、刺激的でおもしろい作品を目指してこのように書いたのだろうが、それでもこの作品が家族の真実を表していることは否定できない。恐ろしい作品だ。

本作品は1972年に刊行されている。高度経済成長時代を反映してか、登場人物たちは男も女もギラギラしている。将来への不安を抱えた人物は登場してこない。その意味では誠に前向きなのであるが、多くの場合、その前向きさが自分の欲望の実現に向かっている。筒井康隆がもし現代を舞台にこの作品を書くとしたらどんな作品になるのであろうか。

(2015年7月29日)

筒井康隆 『愛のひだりがわ』

筒井康隆の『愛のひだりがわ』(新潮文庫)を読む。

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近未来の日本が舞台である。治安は著しく悪化しており、暴力、強盗、殺人が日常茶飯事になっている。主人公の愛は左手が動かない少女だ。愛の父親は失踪している。母親は愛を育てるために飲食店で働くが、そこで死亡する。すると、飲食店の店主は愛の母が持っていた現金をくすね、さらに愛をこきつかい、虐待する。ある日、愛は父親を捜す旅に出る。その道中、愛の左側には犬や様々な人がついて愛を助ける。『愛のひだりがわ』というタイトルはそこから来ている。愛は父親探しの旅の中で何度も辛酸をなめさせられ、次第に強くなってくる。愛は荒涼とした現実社会の中で強く生きるのだ。物語は当然、父親と感動の再会をしてハッピーエンドで終了するのかと思いきや、そうはいかなかった。なんと、愛は零落した父親を捨てるのである。

愛の父は家族がいるのに行方をくらませた男である。その後、人にも言えないような仕事をしたりしていたが、ギャンブルで身を完全に持ち崩す。借金取りに怯えながら身を隠して暮らしていたが、とうとう愛が働かされていた飲食店に引き籠もる。物語の最後に愛は父親とそこで再会するのだが、父から「一緒に暮らそう」と言われて、即座に拒否する。母子を事実上捨てた父、引き籠もるばかりで自力再生をしようともせず、美人になった愛を見て「金になるかも」などと最低の妄想を働かせる父に愛は何の同情も感じなかった。そして躊躇うことなく父を捨てるのである。安易な感動的再会よりも、この終わり方の方がよほどリアルだし、説得力がある。

作品中、愛は自分で自分を守ることを覚えていく。そして強くなっていくのだが、そのように自分の力で何かをやっていこうとしない限り、誰かが手をさしのべてくれるなどということはないのだ。人は自分でがんばらなければ、実の娘にすら捨てられるのだ。『愛のひだりがわ』はただの娯楽作品かもしれないが、安易な解決を示していない。

(2015年7月28日)

シェイクスピアの『リア王』

シェイクスピアの『リア王』(光文社古典新訳文庫)を読む。

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とてつもない作品だった。私が子どもの頃に聞かされたリア王とは全く違う。この作品を知っているつもりだったが、そんな自分が恥ずかしい。

リア王は狂死、コーディリア姫は絞殺されるという悲劇的結末だけでなく、辛辣で含蓄のある言葉の奔流に圧倒される。このような傑作には、翻訳物だとはいえ、そこいらへんの緩い小説が束になったってかないっこない。シェイクスピアの天才ぶりには驚くばかりだった。

おかげで、JRの新小岩駅で降りるのを忘れてしまった。ここまで熱中して本を読むのは久しぶりだった。こういう作品を読むと、言語ではどんな言葉を使っているのだろうと興味がわく。英文学者やマニアたちが取り憑かれてしまうのは当然だ。

(2015年7月24日)

吉本ばなな 『キッチン』

吉本ばななの『キッチン』を読む。

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1987年作品。これがデビュー作らしい。この作品から既に登場人物の死と不思議な男女関係が描かれている。吉本作品は、『キッチン』の延長なのだろう。数ある作品の中では読後感がかなり良い方だった。

吉本ばななは時々はっとするようなことを書く。「キッチン2」には、お気楽に料理教室に通ってくる女性たちについて、「彼女たちは幸せを生きている」と書き、さらに「幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。」と言い切る(新潮文庫 p82)。作家というのはこういうことをさらりと書いてのける人たちなのだ。

『キッチン』にはもうひとつ、「ムーンライト・シャドウ」という短編が掲載されている。これも特殊な人間関係が出てくる。主人公さつきの彼氏には高校に通う弟(柊 ひいらぎ)がいる。その弟には彼女がいた。さつきの彼氏は、自分の弟の彼女を車に乗せて送っている途中交通事故で死ぬ。もしかしたら残された物同士が恋仲になるのかと思わせる展開だったが、物語では2人がどうなるのかは明かされなかった。

「ムーンライト・シャドウ」で印象的だったのは、高校生の彼女と死別した男の子(柊)が、彼女が着ていたセーラー服で登校し、町を闊歩していることだった。そんなことを本当に実行できる男子高校生がいるのか疑問だが、私には到底思いつかない設定だ。さすが作家はすごい。なお、彼女の死を悼むこの男子高校生の行為は、馬鹿にされるどころか、学校の女子に同情・評価され、彼はもててもててたまらないのだとか。なるほどね。

(2015年7月23日)