月別アーカイブ: 2015年10月

村山由佳 『天翔る』

村山由佳の『天翔る』(講談社)を読む。400ページを一気に読み切った。

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不幸な境遇にいる少女の物語である。母は男を作り家を出た。少女は小学校では父の仕事が鳶職だったためにいじめに遭っていたが、その父は仕事中事故で死ぬ。そんな少女に大人たちが手をさしのべる。だが、その大人たちだって訳ありの人生を送ってきているのだ。少女は不登校になっているが、乗馬の才能があった。やがて彼女は大人たちの支援を得ながら、アメリカで開催される100マイルのレースに出場し、完走するというのが大まかなストーリーだ。

売れっ子作家の作品だけにツボを押さえた作話だ。有り体に書くと、泣かせる。不幸に襲われたのは主人公の少女だけではない。登場人物は誰もが人生の苦難と直面し、それと戦いながら生きている。少女は主人公には違いないが、登場人物たちそれぞれが懸命に生きる姿が描かれている。少女は最後には不幸ではない。そして、懸命に生きてきた周囲の大人も不幸ではない。読者に明るい希望を与える本だ。

(2015年10月25日)

トゥルゲーネフ(ツルゲーネフ) 『初恋』

トゥルゲーネフ(ツルゲーネフ)の『初恋』(光文社古典新訳文庫)を35年ぶりに読む。少年の初恋の女性が誰かに恋をしている。その相手が自分の父だったという有名な物語だ。

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少年は自分の初恋を図らずも父に踏みにじられた。しかし、その父に対する恨みは全くない。私はそんなに単純なものかと若干疑問だが、もしかしたら少年の初恋は目の前に妙齢の女性が現れたことに対する条件反射的なもので、恋や愛とは違ったものだったのかもしれない。

古典とはいえ、物語には背徳的な雰囲気はない。微塵もない。19世紀においては、これ以上の描写がなくても、実の父が21歳の若い女性と深い仲になったという物語があるだけでも十分刺激的であったのだろう。背徳的な内容の小説・映像は現代に溢れているが、それが後世に残るかどうかは疑問である。

(2015年10月19日)

松田道雄 『続 人生ってなんだろ』

松田道雄の『続 人生ってなんだろ』(筑摩書房)を読む。

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1974年発行。「続」というのだから「続」がつかない正編があるのだろうが、図書館にはなかった。

中学生向けに書かれた文章をまとめた本である。2ページ見開きに、ひとつのテーマに対する文章(主に人生訓話)がまとめられ、全部で100の文章が掲載されている。私は軽い気持ちで読み始めた。

すると、これが名文揃いなのである。わずか2ページに著者の考えはこれ以上ない明確さで表されている。言葉も文体も平易であり、まるで中学生に語りかけているかのようである。著者は読者に理解してもらえるように平易に書いている。これは大変な文章力だ。これほどお手本になりそうな優れた文章にはなかなかお目にかかれない。

果たして、著者が「文章について」というテーマで書いた文章が出てきた。長いが、後半部分を引用しておく。
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文章もていねいであればわかる。ていねいというのは、相手にわからせようという熱意のあることだ。その意味で、文章はたんなる技術ではない。だれに、どんな気持ちではなしかけるかということが大事だ。
私は結核の無料相談所の医者であったことで、文章のけいこができたと思っている。
病気のことを何も知らない病人ばかりやってきた。無料相談所へくるのは、貧乏でこまっている人だったから、中学にもいけなかったような人がおおかった。
そういう結核の病人に、病気のおこってくるわけを、わかるようにはなさねばならなかった。私は熱心にはなした。私のはなしがわからないで、病人が養生しなかったら、死んでしまう。それは人の命にかかわることだった。
私はていねいにはなすことを自然にまなんだ。だから文章をかくときも、ていねいにはなすようにかけた。
このごろの大学生がくれるビラにかいている文章は、わけのわからないのがおおい。あれは、ていねいでないからだと思う。
演説をきいても、だれを相手にしているのかがはっきりしない。自分だけわかって満足し、相手にわからせようとしない。
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やはりそうだったかと唸る。

(2015年10月15日)

梨木香歩 『エンジェル エンジェル エンジェル』

梨木香歩の『エンジェル エンジェル エンジェル』(新潮文庫)を読む。

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車中の暇つぶしのために手にした本だったが、予期せぬ傑作だった。

女子高生のコウは母親の自慢の子で、天使のようだと言われている。彼女は死期が迫る祖母の世話をしている。その仕事の引き替えのようにしてコウは母親から熱帯魚を飼ってもらう。エンゼルフィッシュだ。このエンゼルフィッシュは名前がエンゼル=天使なのに、残虐この上ない。コウが水槽に入れておいた小さな魚を攻撃し、食べ尽くす。小さな魚がいなくなると体格の良いエンゼルフィッシュが小さなエンゼルフィッシュを攻撃し、食らう。エンゼルフィッシュは自分を制御できないらしいのだ。

物語は、重層的だ。まず、コウの目で現在の世界が描かれている。そこではコウがおばあちゃんを世話している。もうひとつは、おばあちゃんの若かりし頃の物語がある。おばあちゃんは女学生の頃、エンゼルフィッシュよろしく、何も悪くない級友に対して異常なほど攻撃的であった。

おばあちゃんはエンゼルフィッシュの残虐さを見て、エンゼルフィッシュを嫌う。なぜなら、過去の自分と同じだからだ。しかし、エンゼルフィッシュだって、女学生の頃の自分だって、自分で自分を制御できなかったのだ。そのような時、創造主である神は「私が悪かった」とつぶやいてくれるのだろうか。そんなことをコウとおばあちゃんは話している。

文庫版のページ数は150ページほどしかないが、構成は重層的かつ複雑で、作者が人間の業を淡々と描くその筆致が素晴らしい。『西の魔女が死んだ』や『裏庭』よりずっと深い。心に残る作品だ。

(2015年10月11日)

村上龍 『希望の国のエクソダス』

村上龍の『希望の国のエクソダス』(文春文庫)を読む。

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単行本初版は2000年である。執筆時から言えばこの作品は近未来小説だ。

2002年、日本中の中学生たちが反乱を起こす。中学校は中学生たちによって見捨てられるのである。彼らの事実上のリーダーは同じ中学生のポンちゃんである。ポンちゃんは中学生とは思えないほど突き抜けたものの考え方ができる少年だ。彼は中学生80万人のネットワークを使ってビジネスを始める。やがて、日本が通貨危機に見舞われた時、ポンちゃんはインターネット経由で国会演説を行う。それによって日本は通貨危機を凌ぐ。その後、巨大なビジネスグループの総帥となったポンちゃんは北海道に独立国を作り始める。これが大まかな物語だ。

内容的には非常に興味深い。閉塞感漂う日本社会の中で、中学生のポンちゃんが台頭してくる様は痛快である。村上龍はこの作品を書くために膨大な資料を読み、近未来を描くのに使ったが、驚くべきことに、村上龍が描いた近未来である2000年代の様子は、2015年の現在を表現しているかのような真実味がある。そうした点は村上龍の面目躍如である。

しかし、読後感は全く良くない。村上龍は日本が嫌いで仕方ないのだろう。彼は日本を愚劣な人間が巣食う最低の国だとでも思っているのではないか。あるいは、村上龍はすべての日本人が無能で馬鹿に見えるのかもしれない。その気持ちが文章から滲み出ているので、正直申しあげてこの作品を読むのにはうんざりした。それは事実を突きつけられたことに対する私の拒否感や嫌悪があったためなのだろうが、自分が生きる国に対して村上龍がここまで愛がないのは不思議だ。

(2015年10月10日)

佐藤多佳子 『第二音楽室』

佐藤多佳子の『第二音楽室』(文春文庫)を読む。

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小学生から高校生が主人公の短編集。すべて女子が主人公で、音楽が絡んでいる。ただし、何かの大舞台があって、誰かが華々しい成功を収めるようなサクセスストーリーではない。楽器からして地味である。

「第二音楽室」 主人公:小5女子 楽器:ピアニカ
「デュエット」 主人公中学女子(学年不詳): 楽器:歌
「FOUR」 主人公:中1女子 楽器:ソプラノリコーダー
「裸樹」 主人公:高1女子 楽器:ベースギター

私は佐藤多佳子の作品を生理的に受け付けない。若者の口語をそのまま活字にしたような文章を読んでいると、本を放り出したくなる。この本でも、冒頭の表題作から最終作に向けて若者口語体度はどんどん上がっていく。最終作「裸樹」は今時の女子高生の独白そのもので、最初の1ページで本を閉じたくなった。

ところが、この「裸樹」が最も印象に残る作品だった。

主人公の女子は中学の時に不登校の経験がある。彼女はある日路上で歌う女性の歌に魅了されてギターを始める。それによって何かが変わると信じて。彼女は高校に入ると軽音学部でベースギターを弾き始める。そして、そこで何年も高校を留年している幽霊部員の先輩に出会う。その先輩こそ昔路上で歌を歌っていた当人だった。先輩もまた不登校であり、リストカットや薬の経験者でもあった。彼女との接点ができてから、臆病だった主人公は大きく変わり始めるのである。

主人公には未来が開けているように思えた。作者はあえてこの作品を短編にしたのだと思うが、是非続編を読んでみたい。

私事ではあるが、私の長女は不登校であった。この物語を読むとどうしても長女と主人公を重ねてしまう。私の嫌う文体で書いてある作品であるにもかかわらず、物語は私を捉えて放さなかった。今まで忌避していた作家だが、再度挑戦してみよう。

(2015年10月5日)

なだいなだ 『心の底をのぞいたら』

なだいなだの『心の底をのぞいたら』(ちくま文庫)を読む。

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初版は1971年である。長く読み続けられているのは、平明でありながらも読者の心に残るものがあるからだろう。おそらく中学生を対象にして書かれているが、大人にとっても読み応えがある名著だ。

後半になるにつれて内容は深まっていく。人間はなぜ兄弟げんかをするのか、男女の肉体上の違いはどんな影響をもたらすのか、思春期とは何か、思春期に友情を育むことができるのは何故か、などについてなだいなだは明解に解説する。

私が注目したのは、逃げることについてなだが積極的な評価をしていることであった。なだはこう言う。
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攻撃のための武器、牙だとか、角だとかがなくても、ただ逃げるための速い足をもっているだけで、この地上の生存競争で、生きぬき、生き残っている動物がどれだけいるかわからない。そのことは、この地上の動物を見まわしてみればすぐわかる。弱肉強食の原則の厳しい自然で、弱い、ただ逃げるだけしかとりえのない動物が、たくさん生き残っていて、強い、りっぱな牙や角を持った動物が、死にたえそうになっている。
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なだによれば、逃げることは決して卑怯ではない。逃げることによって生き残った方が良いのだ。そして、なだは、社会的な価値を持ってしまった勇気というものに疑問を投げかける。これは第4章「三十六計、逃げるにしかず」わずか16ページの中で述べられているが、本当に考えさせられる。多分、中学生には強いメッセージになって届くだろう。こうしたことが書かれているからこそ本書はロングセラーになっているのだろう。

(2015年10月3日)

ホーマー・ヒッカム・ジュニア 『ロケット・ボーイズ 上・下』

ホーマー・ヒッカム・ジュニアの『ロケット・ボーイズ 上・下』(草思社)を読む。

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作者の自伝的小説である。映画「October Sky 邦題 遠い空の向こうに」の原作である。映画は渋い名作だったが、原作に到底及んでいない。

1957年、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げた。これは当時のアメリカ人に強烈な精神的打撃を与えたらしい。その中で、自分もロケットを打ち上げたいと一念発起した高校生がいた。それがこの作品の主人公ホーマー・ヒッカム・ジュニアである。彼は高校3年間をロケットの作成に明け暮れる。仲間もできる。支援してくれる先生、大人が現れる。主人公はロケットの設計のために数学も物理も化学も熱心に勉強する。そして、科学フェアの全国大会で優勝する。しかし、好きな女の子は自分に気がない。彼の父は兄を偏愛し、自分に好意を持ってくれない。どうすればいいのか。・・・という物語である。

これは翻訳書だが、文章が素晴らしい。日本の作家ならさぞかし感動的に描くと思われるエピソードがさらっと書かれている。例えば、主人公たちは科学フェアでは勝ち進んでいくが、勝利の瞬間は数行で終わる。実に淡々としたドライな文章だ。それだけに、読者は行間を読むことができるわけで、上下巻を読み通した時には大いに充実感を味わった。

ロケットを打ち上げる物語は作家の挑戦意欲を駆り立てるらしい。日本では池井戸潤の『下町ロケット』(傑作)や川端裕人の『夏のロケット』のような作品が生まれている。日本からもフィクションではなく、ノン・フィクションとしてこうした本が出てくることを期待したい。

(2015年10月1日)