月別アーカイブ: 2015年9月

奥田英朗 『マドンナ』

奥田英朗の『マドンナ』(講談社文庫)を読む。

madonnna

5つの短編が収録されている。表題作は、『ガール』の「ひと回り」と逆の設定だ。「ひと回り」では年上の女性社員のところに若いイケメン男子が現れるが、「マドンナ」では男性課長のところに若い女性が現れる。男性課長は自分の好みぴったりの部下に心を奪われるのである。本作は大人の小説にありがちな愛欲を描いたものではなく、この課長のならぬ恋がどんな顛末を迎えるのかをコミカルに描く。

この短編集で最も私の興味を引いたのは「ボス」だった。空席になった部長の席に自分が座ると思い込んでいた男は、そこに自分と同じ年の女性が座ることを知り愕然とする。その女性上司は欧米流の仕事ぶりで部門を改革していく。その途上で主人公の男とぶつかる。残念ながら男は女性上司の相手にもならず常に粉砕されるのである。あまりにも強い女性上司は非現実的だと私は思ったのだが、ふと思い直すとそうでもない。これが出世した女性管理職の典型という気がした。女性が男性社会の中で管理職として生きていこうとすれば、強くならざるを得ないだろう。

(2015年9月27日)

奥田英朗 『ガール』

奥田英朗の『ガール』(講談社文庫)を読む。

girl

三十路の女性が主人公の5本の短編が収録されている。どれも男目線の三十路女像なのだが、なかなかリアルだと感じた。見方によっては女性の老いをテーマにしているとも言える。

自分はもう「ガール」ではないのではと密かに悩む女性や、管理職に抜擢されたばかりに、自分より年上の男子社員と業務上で衝突する女性などが登場する。

エンタメ性も十分だ。一番楽しめたのは、最終話の「ひと回り」だ。35歳の独身女性の部署にイケメンの新入社員が配属される。彼女は年齢が一回りも違うイケメン新人を教育指導する係なのだが、彼女は会った瞬間から彼にのぼせてしまう。一方的な恋の始まりだ。イケメンを落とそうあの手この手で接近してくる社内の女性は指導教官としての権限をフルに利用して自分の手でシャットアウトする。女性が女性を見る目は鋭い。女は女の意図をすぐさま見破るのである。イケメンに女性たちが悉く色めき立つというのは漫画的で、笑ってしまう。もっとも、男だって、とてつもない美人が現れれば心奪われるのだから同じことか。漫画的とは言えないのかもしれない。しかし、彼女はある時、憑き物が落ちたようにイケメンへの異常な情熱を失う。自分の異常な行動を客観的に捉えることができたからだ。

5話ともに男性作家による女性像である。かなりの真実が含まれているように私は感じたのだが、同じことを女性読者が感じるかどうかは不明である。

(2015年9月24日)

奥田英朗 『家日和』

奥田英朗の『家日和』(集英社文庫)を読む。

home

短編集。6作が収録されている。どれもよくできた話ばかりだ。中でも「家においでよ」は半ば我が事が書かれているような気がした。

主人公の田辺は、ある日妻から離婚を宣告される。夫婦と言っても他人同士だから、気が合わなかったり、家財道具に対する趣味が合わなかったりすると夫婦生活を続けられないのだ。妻は田辺が出張中に自分の家財道具を持って高級マンションに引っ越してしまう。田辺はがらんとしたマンションで1人の生活を始める。

その先が面白い。彼は男の城を築き始めるのである。まず、カーテン、テーブル、ソファを買う。その後は今まで我慢してきたオーディオ機器、しかも、LPが聴ける高級機材を購入する。それでロックを聴くのだ。都合のいいことに彼が住んでいたマンションは防音が行き届いている。それに飽き足らず、彼はホームシアターまで完備させる。本棚は自分が好きな本や雑誌で埋め尽くす。こんな部屋があることを知った会社の同僚たちは田辺の部屋をたまり場にする。毎日が楽しくなる。若い頃には安物の音響機器でしか聴けなかったLPも、立派な装置で聴けば感動もひとしおだ。それに、黒澤明の『7人の侍』も大画面のホームシアターで見れば男どもを唸らせる。

田辺の家に集まる会社の同僚たちはそれぞれが家長であり、一国一城の主ではある。それでも自分の部屋など持ってはいないのだ。持てたところで、田辺のように好き放題はできない。だから、田辺の部屋は男のあこがれなのである。頻繁に通いたくなるのも無理はない。

この短編には意外な結末があった。家を出て行ったはずの田辺の妻が、ある日こっそりその部屋に入り、その変貌ぶりを目の当たりにして動揺するのである。自分がいなくなった後、田辺ががらんとした部屋で寂しい生活を送っていると思いきや、その逆だったのだ。そして、妻はその部屋に興味をもってしまうのである。最後には妻は男の元に帰ってくるのだ。

おいおい、そんなにうまくいくわけないだろうと私は思うのだが、1人の部屋でやっていることは私も田辺もあまり変わらない。私はもっと本格的に男の城を築かなければならないのだろうか。

(2015年9月21日)

奥田英朗 『サウスバウンド』

奥田英朗の『サウスバウンド』(角川書店)を読む。

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小学6年生を主人公にした小説だが、児童書ではない。小学生の目から見た家族を描いた大人向け作品である。

小学6年生の上原二郎は東京・中野に住む食べ盛りの少年だ。彼にはちょっと変わった父親・一郎がいる。一郎は働かないで毎日家でごろごろしている。家計は母が喫茶店経営をしてやりくりしているのだ。一郎は元左翼の活動家だった。それも伝説の闘士だった。そうしたことは普通過去のこととされるものだが、そのスピリットは今も活動家のままで、国家公安委員会にもアナーキストとして名前を知られている。当然、区役所の役人や学校の先生など、公的部門に勤務する人たちが目に入ると暴れ回る。例えば、子供の修学旅行の積み立て代金は、業者が学校側と癒着して高めに設定し、学校側にはリベートが払われていると決めつけ、学校で大騒ぎする。そんな親を持った子供はたまったものではない。挙げ句の果てに父と子はある殺人事件に間接的に関与してしまい、一家は中野にいられなくなる。引っ越し先は沖縄の西表島だ。

沖縄に行くと、一郎は東京在住の時とは打って変わって労働に精を出す。働く働く。野性的になる。母は母で急に若返ってしまう。電気もない生活だが幸せである。共生の思想がある沖縄では共産主義が実現したくてもできなかった理想社会ができあがっているからだ。まるでこの世の楽園だ。しかし、この物語はこれで終わらない。父はここでも闘争を始めるのだ。島の開発をもくろむ業者と戦うのである。その勇姿を見た家族はすっかりこの父を好きになっていく。

ここまで書くと、著者が左翼の活動家を賞賛しているような内容に思えるかもしれないが、決してそうではない。左翼とは距離を置いている。また、市民活動家に対しては少女の口を借りて「要するに誰かを謝らせたいのよ。それが手っ取り早く叶うのが、正義を振りかざすことなんだと思う」と批判する。むしろ、この本の主題のひとつは、一郎の次の言葉に表されている。

「これはちがうと思ったらとことん戦え。負けてもいいから戦え。人とちがっていてもいい。孤独を恐れるな。理解者は必ずいる」

この小説のように戦えれば男子として本望だろう。

なお、西表島はこの本に書いてあるとおりの場所なのだろうか。もしその通りであって、それを新小岩転居前に知っていたら、私は新小岩でなく、西表島に引っ越していただろう。夢が膨らむ物語である。少なくとも、西表島に行ってみたくなる。

(2015年9月16日)

山口理 『河を歩いた夏』

山口理の『河を歩いた夏』(あすなろ書房)を読む。児童書である。

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千葉県我孫子市に住む少年一平は、小5の時に大学生の叔父と我孫子から利根川の土手を歩いて太平洋に出た。それがひどく辛い経験だったので、彼はもう2度とそんな馬鹿げたことはしないと決心していた。しかし、小6の夏休みに彼はあることを思い立つ。今度は利根川を逆方向に歩き、新潟県にある利根川の水源まで辿り着こうというのだ。我孫子から水源までは300キロある。しかも途中からは山登りだ。山岳部員でもある大学生の叔父はまたもそれに付き合うが、一平のクラスメイトも男女も参加することになる。

私は自分の体験もあるのでこの本を特に楽しく読むことができた。

私は数年前に自転車に乗ってさいたまから新潟県の苗場スキー場に行ったことがある。前橋までは平坦で、自転車で苦もなく行ける。しかし、その後はなかなか厳しかった。月夜野からはずっと上り坂だ。自転車をのんびり漕いでいるわけにはいかない。早く登り切らないと日が暮れてしまうからだ。私は必死に自転車を漕いだ。

さいたまから苗場まではわずか170キロほどだったが、『河を歩いた夏』で少年たちは300キロを踏破している。大人が1人付いているとはいえ子供ばかりだ。小6では体力的にも非常な負担だろう。また、川沿いを歩くというのは、上流に行けば行くほど道が悪くなるので簡単ではない。道が分からなくなることもある。彼らにとっては大変な冒険だったろう。

苦労しながらも彼らの旅は成功するが、そのコースは魅力的だ。大水上山の水源には大きな石があり、さらに最初の一滴がその少し先の雪渓から発しているのだという。私も利根川の水源まで歩いて行ってみたくなった。

(2015年9月14日)

橋爪大三郎 『はじめての構造主義』

橋爪大三郎の『はじめての構造主義』(講談社現代新書)を読む。

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今頃構造主義でもないかと思いながら手に取る。案の定、1988年初版のこの本の中で著者自身が「構造主義なんかにいまごろまだひっかかっているようでは、”遅れてる”もいいところでしょう」と自嘲気味だ。しかし、同時に「おませな中学生の皆さんにも読んでいただけるように」書いたというキャッチフレーズが気になって読み進めた。230pほどしかないが、中学生が最後まで投げ出さずに読むとはあまり考えられない。しかし、著者は口語調で書いたり、図版を多めに採用したり、学問的な専門用語はほどほどにしたりと、分かりやすく説明する努力をしている。その点は評価すべきだ。

構造主義を説明するのが第4章までだが、第5章の「結び」が読ませる。「構造主義は時代遅れか」に始まる率直な意見が述べられているのだ。一部を引用しよう。

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なるほど、ポストモダンもいいだろう。しかし、いくらこれまでの思想に関係ありません、という貌(かお)をしても、そうは問屋がおろさない。やっぱり思想は思想である。そして思想たるもの、これまで幅を利かせていた思想に正面から戦いをいどみ、雌雄を決する覚悟でないと、とてもじゃないが自分の居場所を確保することすら覚つかないはずだ。どうも(日本の)ポストモダンは、旧世代の思想とまるで対決していないんじゃないか。それをすませないうちは、またぞろ日本流モダニズムの焼直しなんだか、知れたものではないぞ。
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社会学、思想で飯を食うからにはこのくらいのことは言い切れないといけないのだな。

(2015年9月12日)

マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 上・下』

マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 上・下』(早川書房)を読む。

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私もかつてNHKで放送された「白熱授業」を見たことがある。サンデルがあまりに颯爽としているので、大学の授業ではなく、舞台劇なのではないかと思った。大教室に溢れる生徒を相手にたった1人で講義をし、議論をし、生徒たちを仕切っていく姿は格好良すぎる。サンデルは哲学界のカラヤンだ。(古いか?)

この本はその講義を収録したものだ。サンデルが颯爽としているのは活字を読んでも伝わってくる。活字になってさらによく分かったのは、ハーバード大学生の優秀さである。カントを議論する部分では、私は活字を読んでさえ理解するのに時間がかかるのに、ハーバード大学生たちは口頭でサンデルと丁々発止のやりとりをしている。全く頭のできが違う。

それはともかく、対話形式で哲学を学ぶのはソクラテス以来の伝統ということになっているので、サンデルの授業はまさに哲学の本来の有り様を示している。しかし、我が国で哲学の授業がこのような形式で行われている例を私は寡聞にして知らない。サンデルに続いた、もしくはサンデル同様に対話型で授業を行っている日本人の教授はいるのだろうか?

なお、上下巻の余白に東京大学でのサンデルの特別授業が収録されている。ハーバードでは正課であるので生徒は事前に参考図書を読み、次回の講義でのトピックはWeb上で議論した上で参加しているようだったが、東大ではたった2回の特別授業だ。それ故、議論の深さや抽象度の高さはハーバードに及んでいない。しかし、日本の戦争責任について議論した内容を読むと、実にしっかりとした考えを堂々と述べている。大変喜ばしいことだ。

(2015年9月7日)

田中美知太郎 『哲学初歩』

田中美知太郎の『哲学初歩』(岩波書店)を読む。

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岩波現代文庫に入ったのは2007年だが、底本は1950年に刊行されている。65年も前の本だ。

「哲学とは何か」「哲学は生活の上に何の意味をもっているか」「哲学は学ぶことができるか」「哲学の究極において求められているもの」の4章で構成されている。

読みながら結論が気になったのは「哲学は学ぶことができるか」だ。タイトルからして刺激的である。学ぶことができないという結論になったらどうなるのか。例えば、私はこうして哲学関連書を読んでいるが、この行為は無駄なのだろうか。哲学をもっと学びたいと思って努力してもそれは結局徒労なのだろうか。さらに言えば、世の中にある哲学書は何なのだろうか。学べないならなぜ哲学書があるのか。

田中はプラトンを引用して以下のように述べている。

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プラトンは、哲学の最も大切なところは、自分で見つけ出すよりほかには仕方がないのであって、話したり、書いたりして、これを他に伝えることのできないものであると信じていたようである。そしてこのことを知らずに、それを書物に書いたりする者も、またそういう書物を読んで、何かわかったようなきもちになっている人々も、プラトンはまるで信用しようとしないのである。
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恐ろしいことを平然と言ってのけている。そして、ソクラテスの産婆術について引用した後、こう述べる。

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つまりもし教育というものが、外から知識を授けることではなくて、自分でそれを見いださせることにあるのだとすれば、教師は自分で知識をもっていて、これを外から注入する必要はないのであるから、いっそ余計な知識はもっていないで、人が知識を産み出すのを、わきにいて助ける方がよいわけである。みずから「何も知らない」と言ったソクラテスは、かえってこのような理想的な教師の立場を徹底させていたのだと言うこともできるであろう。
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ここまで読むと結論が見えてくる。田中はこう述べる。

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ソクラテスの産婆術の意味における、教育は可能であり、私たちは問答を通じて、ロゴスによって、人々を知識の想起にまで導くことができるのである。そのかぎりにおいて、智を愛し求める努力も、必ずしも無意味ではなく、プラトンの教育活動も、著作活動も、一概に矛盾であると言ってしまうことはできないであろう。
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これでクリアになった。ただし、やはり部屋に籠もって哲学書を読むことは哲学を学ぶことにはならないのだ。これは肝に銘じておくべきことだろう。

(2015年9月5日)

池井戸潤 『ロスジェネの逆襲』

池井戸潤の『ロスジェネの逆襲』(文春文庫)を読む。

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半沢直樹シリーズの第3弾である。これからも続くのかどうか不明である。

半沢直樹は華々しく活躍しすぎたために銀行本店から証券子会社に出向させられている。今度は証券会社の社員として銀行の証券営業部と徹底抗戦をしている。第3巻にもなると半沢の完全無欠のヒーローぶりが前提で物語が進行する。半沢には影の部分がないので、もはや非人間的な印象さえ受けるのだが、そのように難癖をつけたとしても本作は面白くてたまらない。池井戸潤のプロットは緻密で、企業買収についてもリアルな記述が続く。サラリーマンなら誰もが楽しめる作品だろう。

半沢は銀行の証券子会社にいるのに、銀行本体を敵に回す。そんなことをすれば人事でどのような目に遭わされるか分からないのに、平然として我が道を行く。半沢は、仕事は自分のためにするのではなく、「客のためにする。ひいては世の中のためにする」ものだと言い切る。さらに、「自分のためにした仕事は内向きで、卑屈で、身勝手な都合で醜く歪んでいく」とも。確かに、半沢直樹シリーズには自分のために仕事をしてみじめに敗退していく銀行員が次から次へと出てくる。

池井戸潤のメッセージは明確だ。サラリーマンの殆どは半沢直樹のような完全無欠のヒーローにはなれない。しかし、池井戸潤のメッセージは受け止めても損はしないだろう。

(2015年9月2日)