月別アーカイブ: 2015年8月

池井戸潤 『オレたち花のバブル組』

池井戸潤の『オレたち花のバブル組』(文春文庫)を読む。

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これは『オレたちバブル入行組』の続編である。社内の不正と戦う主人公を描く。前作では半沢直樹が牙をむくようになるまで、妻にやり込められたり、葛藤する場面があったが、こちらの半沢は全く逡巡していない。最初からヴォルテージが上がっている。そうなるとまるでアメリカのヒーロー映画でも観ているような気にさせられる。痛快ではあるのだが、不安や迷いがないキャラクターを見ると、「本当だろうか」という気になる。

むしろ、本作で注目したいのは脇役で登場する銀行員 近藤だ。能力がある人物でありながら、上司に潰され、統合失調症になった彼は銀行から出向させられる。出向先では社長から疎まれ、部下からも横柄な態度を取られる始末だ。それでもその出向先で働かなければならない。卑屈になって生きる彼は、ある日、本来の自分を取り戻し、出向先の悪事を追及し始める。卑屈な自分をかなぐり捨てるシーンに私は喝采を送った。

本作の最終ページには、池井戸潤による言葉が載っている。これはこのシリーズにおける主題だろう。
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人生は一度しかない。
ふて腐れているだけ、時間の無駄だ。前を見よう、歩き出せ。
どこかに解決策はあるはずだ。
それを信じて進め。
それが、人生だ。
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(2015年8月29日)

池井戸潤 『オレたちバブル入行組』

池井戸潤の『オレたちバブル入行組』(文春文庫)を読む。

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テレビ番組「半沢直樹」の原作である。

原作は確かに面白い。銀行内の醜い責任回避、背任行為が描かれており、上司に潰されそうになった半沢がそれに立ち向かうという話だ。私は物語の小気味よいテンポに感心しながら、あっという間に読破してしまった。

文庫本の本文は355ページまであるが、「やられたらやり返す」という有名な台詞は290ページにやっと登場する。ところが、テレビの「倍返しだ」は原典では「十倍返しだ」になっている。テレビの方が穏当だった。テレビのプロデューサーは本の中で1回しか出てこないこのフレーズに目をつけてドラマ化したわけだが、目の付け所はさすがだ。

テレビドラマ「半沢直樹」が大ヒットしたのは、このような主人公に多くの人が憧れたからだろう。組織の中で押し潰されそうになっている人は溜飲を下げたに違いない。しかし、押し潰されないためにはテレビや小説で鬱憤を晴らしているだけではだめだ。できすぎのキャラクターなのかもしれないが、半沢直樹を見習う必要はあるだろう。

(2015年8月26日)

池井戸潤 『不祥事』

池井戸潤の『不祥事』(講談社文庫)を読む。

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テレビ番組『花咲舞が黙ってない』の原作である。主人公名はもちろん花咲舞。テレビ化されるだけあって大見得シーンが満載の痛快な作品だ。登場人物は白黒に色分けされていて分かりやすい。

しかし、どうにも漫画的だ。文庫本の表紙からして漫画的である。人間が善玉悪玉に明確に分けられているために物語に深みがない。人間が白黒のどちらかに分類されるなどということはあり得ない。グレーや、他の色はないのか。また、花咲舞は子供番組のヒーローみたいで非現実的すぎる。これなら『銀行総務特命』の方がはるかに陰影のある作品だ。

(2015年8月22日)

池井戸潤 『銀行総務特命』

池井戸潤の『銀行総務特命』(講談社文庫)を読む。

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帝都銀行総務部企画グループには辣腕の特命担当がいる。彼らの仕事は銀行に悪影響を及ぼしかねない内外の不祥事を処理することだ。彼らの手で顧客名簿流出、女子行員のAV出演、取引先との癒着などが次々と解決される。

巨大銀行は万単位の人間を擁するとてつもない組織だ。国の中にある国だ。上下関係が明確で人事は厳しい。そしてお金を扱う組織でもある。これで人間のドラマが生まれないわけはない。「現実は小説よりも奇」であるので、現実の銀行にはもっとすさまじいドラマがあるはずだ。

しかし、銀行が特別なわけではない。私の歳になると、中堅企業でも零細企業でも同じように数々の事件・ドラマが現実に起きることを知っている。仮に10人の企業であろうと、100人の企業であろうと、人間がいる場所にはとんでもないことが起こる。これは現実に起きることなのかと口をあんぐり開けてしまうようなことが起きる。

銀行は絵になる舞台だ。物語の舞台として描くには適しているだろう。だからテレビ番組にもなる。しかし、どのような職場においても暗部はあり、驚愕の事件が起きているのだ。『銀行総務特命』は面白い作品だが、現実はこんな生やさしいものではない。

(2015年8月20日)

田中美知太郎  『生きることの意味』

田中美知太郎『生きることの意味』(学術出版会)を読む。

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一文一文を噛みしめながら読んだ。明解な名文である。

200ページほどの本に15の短い文章が掲載されている。そのうち二つは戦前のものだ。最も新しいものでも1963年。どれも古さを感じさせない。15編を読むと、まるで田中が現代社会に生きていると錯覚する。田中の考えが普遍的であるからだろう。

田中の文章は相変わらず明解だ。
最終章「考える葦」(1949年)の終わり頃には以下のように書いている。

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我が国においては、いわゆる知識人と大衆との間に大きな溝があるというようなことが言われるけれども、そのような溝は、すでに知識人自身の思想と生活との間に存在しているのではないかと疑われる。つまりその思想は、その生活から遊離していて、自然にその生活を支配するような力を欠いているのではないかと疑われる。
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もうひとつ、田中節とも言える決然たる文章がある。「自由と偏見」(1946年)の最後である。痛快極まりない。

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人々は自分でものを考える苦労を嫌って、何でもたちまちのうちに解明してくれるような哲学を求めた。流行の哲学は、これさえあれば他に何も考えないですむような工夫ばかり教えようとしたのである。その結果、哲学の勉強がかえって思想の自由を失わせることにもなった。わたしたちは哲学大系を何か一つ呑み込んで、いろいろな事柄を、その哲学大系の用語で片言なりとも喋ることができれば、それで満足するような人たちに何も期待することはできない。哲学の思惟は、法律の適用に頭をはたらかせる属吏の思惟ではなくて、法律が世のため人のためになるかどうかを吟味する、立法者の思惟なのである。思想の自由なくしては、哲学は不可能である。そしていかなる暴政のもとにも、哲学だけは、思想の自由を保持しなければならない。自由に考えることは、その義務であり、徳なのである。そしてかく自由に考えることによってのみ、それは国のため、世のため、人のために尽くすことができるのである。もしこれを怠るなら、それはまさに断罪されなければならない。
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(2015年8月19日)

田中美知太郎 『哲学入門』

田中美知太郎の『哲学入門』(講談社学術文庫)を読む。

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何度も読み返したくなる名著だ。

哲学の入門書と聞いて思い浮かべるのは、日本語とは思えぬ硬質な学術用語と、正確さを期すために使われる翻訳調の文体で学説の歴史を止めどもなく説明している解説書だ。この本はタイトルこそ『哲学入門』だが、中身はそうした類書と違う。というより、類書とは比べものにならない。田中美知太郎も過去の大哲学者の言葉を引用しているが、それを咀嚼した上で、自分の考えを述べている。その意味では哲学の学説史などではあり得ない。

全部で240ページ弱の本だが、さらに5つの文章に分かれている。「モームの哲学勉強」「関東大震災の頃」「京都での学生生活」「哲学とその根本問題」「科学史の視点」である。このうち、100ページ弱の「哲学とその根本問題」があるゆえに『哲学入門』というタイトルがつけられたようだ。

「哲学とその根本問題」は昭和30年(1955年)4月から5月にNHK教養大学で行われた講義録である。何と私が生まれる前である。8回の講義の中で、田中は哲学についての予備知識がない人にでも分かる言葉のみを用いて哲学を語る。これ以上分かりやすい文章を他に求めることはできない。また、その内容があくまでも現実を見据えて書かれている点に驚かされる。だからこそ田中の講義は今なお読者に訴えかけるのだ。例えば、第6回講義では「知」と「生」について述べられている。ここで田中はこう語る。

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ソクラテスの考えに従えば、「知る」ということは、「おこなう」ことになるのです。そうならない知は、まだ「知」ではないわけです。医学の知識は、病をいやし、健康をもたらすのであり、建築の知識は、家をつくる。病を治さぬ医学の知識、家をつくることのできぬ建築の知識というようなものは、無意味だということになります。哲学のためには、このようなつながりが必要なわけで、そのためには、哲学の求める智も単に知られるものについてだけ考えられる知ではなくて、知る者を医者にし、建築家につくる、ひとつの力としての知でなければならないでしょう。これらは現実に、技術として存在しています。哲学は、それらの技術の技術でなければならないのです。
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こんな名調子が続く。惚れ惚れとするような文章ではないか。

なお、「モームの哲学勉強」「関東大震災の頃」「京都での学生生活」は哲学者田中美知太郎を知る上でも、読み物としても面白い。

(2015年8月14日)

小泉義之 『デカルト哲学』

小泉義之の『デカルト哲学』(講談社学術文庫)を読む。原本は1996年の『デカルト=哲学のすすめ』である。

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2015年5月に転居する前、本棚を整理していたら、デカルトの『方法序説』が3冊も出てきた。それらは訳がすべて違う。買う度に読んだはずだから、私は少なくとも3回『方法序説』を読んだことになる。肝心なのはその結果だ。おぼろげにしか覚えていないのである。特に、デカルトが神を証明する箇所は繰り返し読んでも納得できなかった。いくらデカルトでも証明方法に無理があるのではと恐れ多くも西洋哲学の大家に疑惑の目を向けながら読んだので消化不良である。そもそも『方法序説』を3回も買って読んだということは、「読んだ=自分のものになった」という実感がなかったからだろう。異なる訳で読んだところで理解はそれ以上深まらなかった。3冊をどの順に読んだのかさえ不明である。全く情けない(残念ながら3冊はすべて処分した)。

そんな状態だから、『デカルト哲学』などというタイトルの本が目に入ると、飛びついてしまうのである。しかし、この本はデカルト哲学の解説本ではなく、デカルトの言葉を著者がどう解釈しているかを記した本である。解釈を明確に示すために著者は時折具体例を述べているが、これが大変激烈な書きぶりだ。序章から雲行きが怪しかったのだが、痛烈に批判精神を発露させている。立命館大学での授業はおそらくかなり熱気の入ったものに違いない。それでもデカルトがより身近になれば私は満足である。が、そうも言えない。著者は入門書の形を取っておらず、最初からデカルトの文章をごく短く抽象化してまとめたりするので出発点の位置が高くなってしまっている。これからデカルトを読むという人にはかなり厳しい内容だろう。

そういうことなら、やはり訳書であっても原典に当たるべきなのだ。『方法序説』でも『省察』でも『情念論』でも、原典を読んでデカルトに近づくべきなのだ。解説本を手にしたところで、ただの遠回りなのだ。分からないのであれば分からないなりに4回でも5回でも読むしかない。私は『デカルト哲学』を読んで、4冊目の『方法序説』を手にする必要を感じた。

(2015年8月13日)

浅田次郎 『蒼穹の昴』

浅田次郎の『蒼穹の昴』(全4巻。講談社文庫)を読む。

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これは清朝末期の中国を舞台にした歴史小説である。ミステリーでもあり、ファンタジーでもある。

物語には西太后、李鴻章、康有為、袁世凱といった歴史上の人物が登場する。19世紀末の清朝は日本を含めた列強に国を浸食されており、国威は衰退するばかりである。帝国最盛期を築いた乾隆帝亡き後、清朝は皇帝に人を得ていないが、それには理由があったのだ。ある日乾隆帝は、愛を知らぬ皇帝一人が4億の民を支配する帝政を途絶させることを決意する。そして、天命がある者が持つ龍玉(巨大なダイヤモンド)を隠したのである。しかも、自分の後に英明な皇帝が現れないように呪いを掛けた。その結果、乾隆帝以後の皇帝たちには天命も力もなくなったのだ。乾隆帝の考えを知る西太后は自分の代で清朝の命脈を尽きさせ、二度と中国で帝国が生まれないように必死の努力をしている。

中国の歴史について知識を深めることができる点では優れた作品だ。科挙や宦官についての記述も興味深かった。また、李鴻章や乾隆帝の人物像は非常に魅力的だった。おそらく浅田次郎自身が心酔した人物だったのだろう。

しかし、設定が非現実的という印象が払拭できない。上記のあらすじを書いていて、その感覚はさらに強くなった。天命がないとはいえ、自王朝滅亡を目的とした為政者が本当にいるのだろうか。西太后を悪者として描かず、好意的に評価しようとすれば、このような設定にならざるを得ないのだろうが、私は非現実的だとしか考えられない。そのためにどうしても作品に没入できなかった。感動大作として知られる作品であるにもかかわらず、読後にはカタルシスではなく、長大な物語から解放されたという奇妙な感覚が残った。

(2015年8月12日)

浅田次郎 「はじめての文学」

浅田次郎の「はじめての文学」(文藝春秋)を読む。

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浅田次郎にこのタイトルの作品があるわけではない。文藝春秋社が文学入門として浅田次郎の5作品「ふくちゃんのジャック・ナイフ」「かくれんぼ」「夕暮れ隧道(ずいどう)」「獬(シエ)」「立花新兵衛只今罷越候」を集めて本にしたのだ。

分かりやすい作品が収録されている。極めつけは「夕暮れ隧道(ずいどう)」だ。これはある高校3年生の話である。主人公の男子生徒は、1クラスから15人くらいが東大に入るほどの進学校に通う。彼の前の席にいるのは成績抜群、東大文Ⅰ合格間違いなしの美人だ。彼は授業中、その女子生徒のブラジャーをコンパスの針で外すことに勤しんでいる。ところが、この男子生徒と女子生徒はどういうわけか恋仲になる(いきなりである)。ある日、彼らは海辺に出かける。高校生だし、女子生徒の親は門限を夜7時に設定している。しかし、二人はお互いの下心を確認してラブホテルで一夜を明かすのである。彼らは両家を揺るがす振る舞いをした後、同じ学校のカップルが交通事故で即死したことを知る。

エロスとタナトスというのは隣り合わせであるし、芸術の世界では大きなテーマになる。その意味で浅田次郎の作品は王道をいくものだ。しかし、これが「はじめての文学」? 「はじめて」というのは、小学生向け? 中学生向け? 高校生向け?

他にも、時代劇の撮影に本物の武士が闖入してしまう話を描いた「立花新兵衛只今罷越候」は読み物として面白いが、漫画的すぎないか。

ところが、浅田はそう言い出す教育委員会的な読者のことを想定していたらしい。この本の最後には浅田自身による「小説とは何か」という文章が収録されている。最初の6行にはこうある。

文学とは何か。
文章による芸術表現である。
小説とは何か。
文学のうちの、物語による芸術表現である。
では、芸術とは何か。
人間の営みを含む、天然の人為的再現である。

自作が低俗であるという批判に対して浅田は、「俗」ではあっても「低」ではないという自信はあると反論する。浅田は自作が文学であり、芸術であると確信して「はじめての文学」掲載の5作品を書いたのだ。

(2015年8月11日)

川端裕人 『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』

川端裕人の『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』(ちくま文庫)を読む。

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1997年の作品だが、2010年に文庫化される際に30ページにわたる「文庫版のための少し長いあとがき」が収録された。このあとがきはイルカ漁を巡って日本が国内外から大きな批判を受けた後にまとめられており、非常に優れた資料となっている。川端裕人は小説家でもあるが、こうした分野に対して取材・情報収集を行い、記述するのに優れた力量を発揮する。

なお、私はこの本を読んで思うところは多かったのだが、あえて口をつぐみたい。そういう態度が問題なのかもしれないが。

(2015年8月10日)

『幕が上がる』 小説と映画

本広克行監督の映画『幕が上がる』がDVD化された。主演はももいろクローバーZ。

(左の写真がDVD、右が小説)

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原作は演出家の平田オリザ初の長編小説『幕が上がる』(講談社)だ。映画化された時、上映する劇場が近くになかったため私は観ることができなかった。私はしかたなくDVDになるのをずっと待っていたが、DVDを観ていささか落胆した。映画の出来は小説をはるかに下回るものだったからである。

小説にあって、映画にないものが多すぎる。映画にあって小説にないものは殆ど意味不明のエピソードだ。

この作品の原作は演劇がどのようにして作られていくのか、演出とはどういう仕事なのかを描いている。最大の山場は、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の台本を作る主人公が、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』との出会いによって作品の解釈を一挙に高めるところである。それだけではない。宮澤賢治の詩『告別』も主人公に絶大なインスピレーションを与えるのである。原作では、しがない国語教師の授業が、主人公に大きな影響を及ぼしている。受験間近の教室で、授業は誰もまともに聞いていない。しかし、主人公は退屈そうなその授業から『銀河鉄道の夜』の核心を掴むのである。

こうしたことは、映画では表現しにくいのだろう。重要なシーンであるにもかかわらず、その部分は殆ど映像化されなかった。映画は尻切れトンボになって終わっている。詩の言葉などを映像化することはどのような監督であっても難しいのだろう。それは理解できる。結果的に、映画を観た人も、DVDを見た人も、『幕が上がる』はももいろクローバーZのための映画だとしか認識していないだろう。もったいなさ過ぎる。

子供の頃から映画とその原作の両方を私は知ろうとしてきた。まれに映画化された作品の方が優れていることはある。しかし、殆どの場合、原作の小説を超えることはない。私は映画ファンだし、インターネットの動画もよく見る。映像の力が圧倒的であることを知っている。しかし、それでも映像は活字に勝てないのだ。我々は活字から得られる情報によってひとつの世界を豊かに描き出すことができる。頭の中で作り上げられたそのイメージは映像を凌ぐ。だから活字の世界を完全に映像化するのは無理だ。それでも、努力は不要と言いたいのではない。監督は、言葉を映像に盛り込む努力をもう少ししても良かったのではないか。原作者の平田オリザはこの映画の出来に納得したのだろうか。映像がここまで小説の奥深さに肉薄しようとしなかったことはショックでもある。

(2015年8月9日)

藤本634 『腐ったら負け HKT48成長記』

藤本634の『腐ったら負け HKT48成長記』(角川春樹事務所)を読む。

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腐ったら負けなのでがんばれ、という人生訓が書かれている本ではない。これは、2011年5月11日、AKB48の姉妹グループとしてHKT48の結成が発表されてから現在に至るまでのグループ及びメンバーの成長記録だ。児玉遙、宮脇咲良、田島芽瑠など多くの若手メンバーが苦悩しながら今のHKT48の中で生きてきたことが本人たちのインタビューを交えながら示されている。

この本で改めて明らかになったのは指原莉乃の力だ。それは、結成されてから成長の踊り場にいたHKT48が指原の移籍を機に離陸できたことにとどまらない。指原がHKT48の精神的支柱であり続けていることが重要だ。指原は年端も行かぬ若いメンバーとは精神面で全く違っている。この本では、HKT48のメンバーがどこそこのポジションを取れなかったから悔しい、動揺する、泣く、という記述が延々と続く。しかし、指原についてだけはそのレベルの言及がない。AKB48の指原の中では数々の葛藤があっただろうが、HKT48での指原はそれをおくびにも出さない。AKB48を追放され、HKT48に移籍した瞬間から立ち位置が他のメンバーと違っているのだ。つまり、自分のことだけを考えるのではなく、チーム全体を盛り上げることを最優先にして動いている。昨年出版された指原の『逆転力』(講談社)を読んだ際にも感じたが、HKT48を作り上げたのは指原だ。HKT48という企画は秋元康らのスタッフが作ったが、チームとしてのHKT48は指原が作ったものなのだ。『腐ったら負け HKT48成長記』はそれを再確認させる本だった。

AKBグループは厳しい。かわいい女の子が安穏と楽しい毎日を送っているわけではない。常に人から評価され、順位付けがされる。しかも、自分の力ではどうにもならないことが評価の対象に含まれている。年齢と美貌だ。今はそれが好感されて人気を保っていても、もっと若く、もっと美貌の子がどんどん入ってくる。すると、順位、ポジションは容赦なく変えられていく。これは地獄のようなシステムである。そんな世界で彼女たちは生きているのだから、動揺したり、泣いたりするのは当然だ。指原だって二十歳そこそこの年齢だ。それにもかかわらず、確固たる自分を持ち、超然としながらチームを構築してきた。AKBグループの傑物だとしか言いようがない。

(2015年8月8日)

天童荒太 『あふれた愛』

天童荒太の『あふれた愛』(講談社文庫)を読む。

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4つの切ない短編が収録されている。

第1話「とりあえず、愛」は育児ノイローゼの妻を心配するどころか責めてしまったために離婚を宣告される男の物語だ。

第2話「うつろな恋人」は主人公の男がふと知り合った女性が、現実には存在しない、幻の恋人を見ているという物語だ。その女性は幼少の頃両親から受けた心の傷から精神的に病んでいる。

第3話「やすらぎの香り」は子供の頃からの精神的抑圧で心が壊れてしまった男女が何とか支え合って生きていく物語だ。

第4話「喪われゆく君に」は、目の前で人の死を見た若者の話だ。深夜のコンビニでバイトしていると、目の前で買い物中の客が突然死する。若者は、死んだ客とその妻の思い出の場所を辿る。

いずれも心に響く作品だが、後半の2作品が特に印象深い。私はページをめくる手を止めることができなかった。

(2015年8月7日)

星新一 『未来いそっぷ』

星新一の『未来いそっぷ』(新潮文庫)を読む。

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これは1971年に発表された作品で、文庫化は1982年。私が手にした文庫本は2007年の発行で、62刷と記載されている。この数字は星新一の作品がいかに読み継がれてきているかを端的に示している。

私が10代の頃星新一は大ブームであった。しかし、その当時の私は星新一のショート・ショートを読みやすく分かりやすいが故に馬鹿にしていた。真価を全く理解していなかったのである。しかし、50歳を過ぎて再び手に取った星新一は私を驚嘆させるに十分であった。彼の作品には無駄がない。それどころではない。未来の人類がどうなるのか、考えさせられる作品が目白押しだ。それを星新一の空想の産物だと斬って捨てるのは簡単だが、先見の明があったのだと今の私は断言できる。例えば、『ボッコちゃん』に収録されている「おーい でてこーい」を読むと、核廃棄物を含むゴミ問題を正確に予想していたことに驚かされる。現代の作家なら、星新一のごく短い物語のアイディアで、長編を書こうとするのではなかろうか。物語は長ければ良いわけではない。

この『未来いそっぷ』も面白い。冒頭の『イソップ物語』のパロディ7編から星新一節が全開だ。シンデレラのその後を描く「シンデレラ王妃の幸福な人生」、未来において女性的なロボットに魅惑されて仕事をし続ける男が登場する「オフィスの妖精」、コンピュータの指示のままカバを「おカバさま」と大事にする人間の顛末を描く「おカバさま」など、魅力的な作品が多数並んでいる。

星新一の作品は漢字に読み仮名さえ振ってあれば小学3年生でも読める。しかし、ひねりのきいた面白さを味わえるのは大人なのかもしれない。50代になって星新一を再発見できた私は幸運だった。

(2015年8月6日)

石角友愛 『ハーバード式脱暗記型思考術』

石角友愛の『ハーバード式脱暗記型思考術』(新潮文庫)を読む。

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原題は『私が「白熱教室」で学んだこと』だったらしい。著者はアメリカの高校・大学を卒業し、ハーバード・ビジネス・スクールを卒業した後、グーグルで働く才媛だ。彼女の目から見たアメリカのエリート教育の実態が分かりやすく述べられている。

この本を読むと、アメリカの高校・大学での教育と日本のそれは目指す方向が違いすぎて、もはや相手にもなっていないと思わせられる。アメリカでは日本のように知識偏重の教育を行わず、物事の本質に迫るべく討議を重ねることが縷々述べられている。また、この本を読む限り、アメリカで教育を受ければ、人間的にも大きく成長できそうだ。こうなると日本教育はアメリカに完敗ということになる。そして、著者は日本人の考えている「勉強」が世界標準の「勉強」とは大きくかけ離れていると主張する。

実際にアメリカで教育を受けてきた人の文章なので、その点では確かに説得力はある。しかし、仮にもハーバード・ビジネス・スクールを卒業した方の著書がこの程度の感想文で良いのだろうか。もう少し日米の教育についてケース・スタディをしても良かったのではないだろうか。また、アメリカの教育方法が「世界標準」だと断言する根拠が不明だ。本当にそうなのだろうか。著者はこうしたことを検討する必要もないと判断したのだろう。しかし、私はその比較研究の結果を知りたいのだ。たとえ結論が同じになったとしても、その検討・研究は無駄ではないはずだ。

(2015年8月5日)

鷲田清一 『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』

鷲田清一の『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』(ちくま文庫)を読む。

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鷲田は「身体は<像(イメージ)>」であると最初に言い切る。人間は自分の顔を自分で直に見ることはできない。背中や後頭部も、下半身の局部もそうだ。自分で知覚できる部分は思っているほど多くない。だから、鷲田はこう続ける。

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ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、このぼくの身体って離れてみればこんなふうに見えるんだろうな・・・・・という想像の中でしか、ぼくの身体はその全体像を表さないと言っていいはずだ。つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり<像(イメージ)>でしかありえないことになる。

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鷲田はファッションについて書き始めた頃、恩師から「世も末だ」と呆れられたという。確かに哲学者がファッションについて研究し、語るというのは我々が考える哲学者の仕事とは違うように最初は感じられる。しかし、どうだろう、「身体は<像(イメージ)>である」ということから説き始める鷲田のファッション論は刺激に満ちた哲学ではないか。鷲田の名著『モードの迷宮』が出版されたのは1989年だったが、大評判になったのは当然だ。鷲田の恩師は鷲田の真価を理解していなかったのだ。

(2015年8月4日)

鷲田清一 『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』

鷲田清一の『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)を読む。

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平易で明解。『じぶん・この不思議な存在』より平易なので瞠目したが、それには理由があった。底本がNHKラジオ番組のためのテキストだったのである。全体は13の章に分かれ、それぞれの章で鷲田思考のエッセンスがエッセイ風に述べられていく。これだけ平易・明解なら中学生にも安心して薦められる。

上記のような成立事情であるために、どの章の内容も鷲田の著作を読んできたものにとっては目新しくはない。しかし、逆に、鷲田がどのようなことを考え、述べてきたかを一望するためには有用だろう。「問いについて問う」「こころは見える?」「顔は見えない?」「ひとは観念を食べる?」「時は流れない?」など魅力的な章がずらりと勢揃いだ。

鷲田の文章の魅力はいくつもあるが、そのひとつに例え話がとびきりうまいことが挙げられる。会社を定年退職して家庭に戻ろうとする男とその妻について鷲田は以下のように書く。

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(二人が)同じ<時>の流れのなかを生きてきたというのはひどい幻影であり、二つの異なる列車が同速度で並んで走っているときに、二つの列車に別々にいるひとがたまたま同じ列車内にいると勘違いしていただけのことなのだ。
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鷲田は現実を直視するので、恐ろしいことをいとも簡単に分かりやすい例を使って説明する。さすがとしか言いようがない。

(2015年8月3日)

鷲田清一 『じぶん・この不思議な存在』

鷲田清一の『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)を読む。

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鷲田清一の著書の中では抜群に平易な言葉で書かれた良書だ。難解な哲学用語を使わずに、中学生でも分かるように記述している。

鷲田は、「《わたしはだれ?》という問いに答えはない」とこの本のエピローグで述べているが、その一方で「〈わたし〉というものは《他者の他者》としてはじめて確認されるものだ」とも主張している。鷲田はそれがいかなることかつぶさに説明していて、大変読み応えがあった。例えば、電車の中で化粧をする女性を見ると、ある人は腹立たしくなるが、それは、その女性にとって、それを見ている人が他者でないからである。要するに人としてさえ認識されていないのである。それが直感的に分かるから嫌な気持ちになるのである。

一頃、「自分探しの旅」という言葉をよく見かけたものだ。私は「自分は自分なのに、探さなくてはいけないのか? また、どこかへ旅に出ることで自分は探せるのか?」と疑問を抱いたものだった。鷲田清一の考え方を使えば、一人旅をして仮に誰とも関わらず、風景の一部になってしまうのであれば、誰からも「他者」として確認されないことになる。そのような事態に陥るのであれば、「自分探しの旅」は本来の目的とは逆に自分を喪失する旅になる。やはり「自分探しの旅」は自分探しではあり得ないのだ。

(2015年8月2日)

鷲田清一 『哲学の使い方』

鷲田清一の『哲学の使い方』(岩波新書)を読む。

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「著者渾身の書き下ろし」という言葉に嘘偽りはなかった。

哲学は日常生活から極端に遊離し、時代の困難から最も隔絶した学問になっているが、鷲田はむしろ同時代の問題こそ哲学を必要としていると主張する。その例として現代の諸問題を列挙する。環境危機、生命操作、先進国における人口減少、介護・年金問題、食品の安全、グローバル経済、教育崩壊、家族とコミュニティの空洞化、性差別、マイノリティの権利、民族対立、宗教的狂信、公共性の再構築・・・。どれも頷けるものばかりだ。しかし、そうであるにもかかわらず、哲学はあまりの難解さから問題解決の手がかりとして求めてくる人間を門前で拒絶している。拒絶されたという経験を持たない人など、どれだけいるのか。また、門前で拒絶するほど敷居が高い学問が他にあろうか。鷲田はそのような状態に堕した哲学の再生のために、対話形式という西洋哲学の伝統に立脚した「哲学カフェ」を紹介している。哲学に光明を感じさせる本だ。