田中美知太郎  『生きることの意味』

田中美知太郎『生きることの意味』(学術出版会)を読む。

ikiru

一文一文を噛みしめながら読んだ。明解な名文である。

200ページほどの本に15の短い文章が掲載されている。そのうち二つは戦前のものだ。最も新しいものでも1963年。どれも古さを感じさせない。15編を読むと、まるで田中が現代社会に生きていると錯覚する。田中の考えが普遍的であるからだろう。

田中の文章は相変わらず明解だ。
最終章「考える葦」(1949年)の終わり頃には以下のように書いている。

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我が国においては、いわゆる知識人と大衆との間に大きな溝があるというようなことが言われるけれども、そのような溝は、すでに知識人自身の思想と生活との間に存在しているのではないかと疑われる。つまりその思想は、その生活から遊離していて、自然にその生活を支配するような力を欠いているのではないかと疑われる。
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もうひとつ、田中節とも言える決然たる文章がある。「自由と偏見」(1946年)の最後である。痛快極まりない。

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人々は自分でものを考える苦労を嫌って、何でもたちまちのうちに解明してくれるような哲学を求めた。流行の哲学は、これさえあれば他に何も考えないですむような工夫ばかり教えようとしたのである。その結果、哲学の勉強がかえって思想の自由を失わせることにもなった。わたしたちは哲学大系を何か一つ呑み込んで、いろいろな事柄を、その哲学大系の用語で片言なりとも喋ることができれば、それで満足するような人たちに何も期待することはできない。哲学の思惟は、法律の適用に頭をはたらかせる属吏の思惟ではなくて、法律が世のため人のためになるかどうかを吟味する、立法者の思惟なのである。思想の自由なくしては、哲学は不可能である。そしていかなる暴政のもとにも、哲学だけは、思想の自由を保持しなければならない。自由に考えることは、その義務であり、徳なのである。そしてかく自由に考えることによってのみ、それは国のため、世のため、人のために尽くすことができるのである。もしこれを怠るなら、それはまさに断罪されなければならない。
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(2015年8月19日)