月別アーカイブ: 2015年7月

筒井康隆 『エディプスの恋人』

筒井康隆の『エディプスの恋人』(新潮文庫)を読む。

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前作『七瀬ふたたび』で殺されたはずの七瀬が何事もなかったかのように生きている。

主人公七瀬は美貌の女性で、人の心を読めるという特殊能力を持つ。人の心が読めるということは、周囲の男どもの淫らな欲望をすべて知ってしまうことを意味する。その描写は「七瀬三部作」に共通している。その描写があるがためにこのシリーズは通俗エロ小説に堕してしまいかねないのだ。少なくとも女性にはおいそれとこの本を薦めるわけにはいかない。セクハラと受け止められるのは間違いないからだ。

七瀬はとある高校で教務事務をしている。その高校で七瀬は超常現象を引き起こす男子生徒に出会う。実は超常現象を引き起こしているのは彼ではなく、彼を守ろうとする「意思」だった。それが一体何なのか七瀬は知ろうとする。そして、彼を守っていたのが宇宙の超絶対者的存在だと判明する。

ここまでで終わっても物語は完結させられそうだ。しかし、筒井康隆はその先に重大な疑問を投げかける。宇宙の超絶対者的存在はどのようなことでも可能だ。人の存在の有無・生死を決定し、その思考を左右できる。不可能なことはない。七瀬も思想と行動を操作されている。その力によって高校生の少年と恋に落ちているのだ。しかし、それを突き詰めていけば、この世界はいったい何なのか。そして自分とは何なのだと思わざるを得なくなる。そもそも七瀬は前作で死んだはずだ。それなのに超絶対者によって「使える」と判断され、この世に存在しているのではないだろうか。死んだはずの自分はどうして今生きているのか。他にも七瀬は疑念を抱く。例えば、音楽に熱狂する人々は、そうするように思考と行動を操作されているのではないか。そのようなことを考えるとやるせない気持ちになっていく。自分とは何か、それが分からなくなるという恐るべき結末だ。これが筒井康隆の「七瀬三部作」の結末なのだが、最後の最後まで考え抜かれた内容に私は唸った。女性がこの作品をどう評価するか疑問だが、私は十分堪能した。「七瀬三部作」の最高傑作はこれである。

デカルトはすべてを疑うが疑っている自分の存在だけは疑う余地がないと結論したが、この作品を読んだらどう思うだろうか。

(2015年7月31日)

筒井康隆 『七瀬ふたたび』

筒井康隆の『七瀬ふたたび』(新潮文庫)を読む。

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前作『家族八景』と第3作目の『エディプスの恋人』を併せて「七瀬三部作」と通称するらしい。

主人公が得心術を使える美貌の女性七瀬であることは変わらないが、前作と異なり本作品には七瀬の他に数人の超能力者が登場する。超能力者は常人にはない特殊能力を持つのだが、そのような特殊能力を持った人間が社会で歓迎されるはずがない。恐怖と憎悪の対象となるからだ。だから、彼らは社会の中では目立たないようにひっそりと暮らす。しかし、彼らには危機が迫る。謎の組織が彼らの抹殺を図っているのだ。そして、謎の組織は情け容赦なく超能力者たちを殺処分していく。物語は主人公の七瀬の死で終わっている。

超能力者たちが無残に虐殺されるこの物語の読後感は極めて微妙だ。陰鬱である。また虚構と分かっていても切迫感ある恐怖を感じさせる。それだけ考え抜かれた作品であり、筒井康隆の筆致は冴えている。

しかし、「七瀬三部作」の最高峰はこの作品ではないのだ。

(2015年7月30日)

筒井康隆 『家族八景』

筒井康隆の『家族八景』(新潮文庫)を読む。

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人の心を読むことができる主人公の七瀬は18歳の若い身空なのに女中として住み込みで働いている。そんな人が女中として働いていれば、その家の家族模様が嫌でも完全に分かってしまう。「八景」というだけに8つの家族が描かれているが、どの家庭においてもほのぼのとした温かい愛が溢れているなどということはない。それどころか、どす黒い感情で夫は妻を妻は夫を、子は親を親は子を見ていることが明らかにされる。筒井康隆は人間の暗黒面を暴いていく。筒井康隆は売れる作品、刺激的でおもしろい作品を目指してこのように書いたのだろうが、それでもこの作品が家族の真実を表していることは否定できない。恐ろしい作品だ。

本作品は1972年に刊行されている。高度経済成長時代を反映してか、登場人物たちは男も女もギラギラしている。将来への不安を抱えた人物は登場してこない。その意味では誠に前向きなのであるが、多くの場合、その前向きさが自分の欲望の実現に向かっている。筒井康隆がもし現代を舞台にこの作品を書くとしたらどんな作品になるのであろうか。

(2015年7月29日)

筒井康隆 『愛のひだりがわ』

筒井康隆の『愛のひだりがわ』(新潮文庫)を読む。

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近未来の日本が舞台である。治安は著しく悪化しており、暴力、強盗、殺人が日常茶飯事になっている。主人公の愛は左手が動かない少女だ。愛の父親は失踪している。母親は愛を育てるために飲食店で働くが、そこで死亡する。すると、飲食店の店主は愛の母が持っていた現金をくすね、さらに愛をこきつかい、虐待する。ある日、愛は父親を捜す旅に出る。その道中、愛の左側には犬や様々な人がついて愛を助ける。『愛のひだりがわ』というタイトルはそこから来ている。愛は父親探しの旅の中で何度も辛酸をなめさせられ、次第に強くなってくる。愛は荒涼とした現実社会の中で強く生きるのだ。物語は当然、父親と感動の再会をしてハッピーエンドで終了するのかと思いきや、そうはいかなかった。なんと、愛は零落した父親を捨てるのである。

愛の父は家族がいるのに行方をくらませた男である。その後、人にも言えないような仕事をしたりしていたが、ギャンブルで身を完全に持ち崩す。借金取りに怯えながら身を隠して暮らしていたが、とうとう愛が働かされていた飲食店に引き籠もる。物語の最後に愛は父親とそこで再会するのだが、父から「一緒に暮らそう」と言われて、即座に拒否する。母子を事実上捨てた父、引き籠もるばかりで自力再生をしようともせず、美人になった愛を見て「金になるかも」などと最低の妄想を働かせる父に愛は何の同情も感じなかった。そして躊躇うことなく父を捨てるのである。安易な感動的再会よりも、この終わり方の方がよほどリアルだし、説得力がある。

作品中、愛は自分で自分を守ることを覚えていく。そして強くなっていくのだが、そのように自分の力で何かをやっていこうとしない限り、誰かが手をさしのべてくれるなどということはないのだ。人は自分でがんばらなければ、実の娘にすら捨てられるのだ。『愛のひだりがわ』はただの娯楽作品かもしれないが、安易な解決を示していない。

(2015年7月28日)

二宮晧監修 『こんなに違う! 世界の国語教科書』

二宮晧監修『こんなに違う! 世界の国語教科書』(メディアファクトリー)を読む。

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私は日本の小学生が使う国語教科書があまりに薄っぺらいのを見ていつも嘆かわしい気持ちになったものだった。本当に薄っぺらい。活字は大きく、長い文章は掲載されていない。その一方で、授業時間数は決して少なくない。ということは、生徒たちはその貧弱な国語教科書に書いてある文章を粘り強く読んで鑑賞しているわけだ。その時間は楽しいのだろうか。

『こんなに違う! 世界の国語教科書』を読んで、ますます日本の国語教育は危ういのではないかと心配になってきた。この本で紹介されている事例を見ると、何の哲学も感じられない日本の国語教科書とは雲泥の差だ。詩や戯曲を扱うだけでなく、その中にたっぷりとユーモアを盛りつけるイギリスの教科書、本格的な文学作品や芸術作品を掲載し、それについて考えさせるフランスの教科書の内容を知ると羨望を禁じ得ない。すごいのはロシアだ。小学4年生になるとかなりの大作を読ませるという。「短い作品ばかり読ませていて、ドストエフスキーが読めるようになるのか」という声があるのだという。至極ごもっともだ。

どのような教師も父兄も、「国語はすべての科目の基礎なので重要だ」と声を揃える。しかし、本当にそう思っているのであれば、どうして今のような国語教科書が放置されているのだろうか。私にはさっぱり分からない。

(2015年7月28日)

『中学生からの大学講義 5 生き抜く力を身につける』

『中学生からの大学講義 5 生き抜く力を身につける』(ちくまプリマー新書)を読む。

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これは各界の最前線にいる方々が桐光学園で行った講義をまとめたもので、全5巻。

このシリーズは講義を収録したものだから、語り口は平易であるが、内容は十分に刺激的だった。中高生向けに出版された本でありながらも、大人にも訴えかけるものも多く、これまでの講義の中でも鷲田清一、村上陽一郎の講義は非常に読み応えがあった。

どの巻においても冒頭の講義が出色だ。この第5巻でも冒頭の大澤真幸「自由の条件」から強い印象を受けた。「なぜ自由な社会で息苦しさを感じるのか」「人間が「自由な主体」になるためには」など、現代を生きる我々に自由について考えさせる。

このシリーズはこの第5巻で完結しているのだが、続編を出せないものか。終わらせるには惜しい企画だ。

(2015年7月27日)

白取春彦編訳『超訳 ニーチェの言葉 Ⅱ』

『超訳 ニーチェの言葉 Ⅱ』(ディスカバー)を読む。

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「Ⅱ」が刊行されたというからには「Ⅰ」が相当売れたのだろう。

私も「Ⅰ」を買って読んだ。そして、衝撃を受けた。なぜなら、私が知らないニーチェの言葉が大量に並んでいたからである。その驚きは筆舌に尽くせない。私は高校生の頃からニーチェを読んできたのに、その私に未知の言葉が次から次へと出てくる。私はニーチェを読んだつもりになって、実際にはニーチェを全く理解していなかったのだと愕然としたものである。

しかし、謎はすぐに解けた。『超訳 ニーチェの言葉』は翻訳書ではなかったのである。編訳者である白取春彦氏が、ニーチェの言葉を自分の解釈でくるんで本にしたのが『超訳 ニーチェの言葉』だったのだ。「超訳」とは何のことだろうと思っていたのだが、要するに自分の解釈をニーチェ風に書き換えたのだ。

とはいえ、『超訳 ニーチェの言葉』を全否定する気はさらさらない。白取春彦流人生訓の書と見なせば十分おもしろい。「Ⅱ」もそのつもりで読んだ。白取春彦氏の言葉だと割り切って読んでいると、人生訓どころか、心理カウンセリングの本のようにも思えてきた。例えば、最後に掲載されている「悩みの小箱から脱出せよ」の前半部分を抜粋すると次のとおりだ。

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悩む人というのはいつも閉じ籠もっている。従来の考え方と感情が浮遊している狭くて小さな箱の中に閉じ籠もっている。その箱から出ることすら思いつかない。
その悩みの小箱に詰まっているのはみな古いものばかりだ。古い考え方、古い感情、古い自分。そこにあるものはすべて昔から同じ価値を持ち、同じ名前を持っている。
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この部分の出典は『ツァラトゥストラはかく語りき』(至福の島々で)らしい。できれば『ツァラトゥストラはかく語りき』を参照して、どのようにニーチェの言葉を変容させたのか確認したいところだが、引っ越しの際に書物をほぼすべて処分してしまったのでそれが叶わない。身を軽くしたのは良かったが、自分にとって重要な書物はむやみに処分してはならないのだ。もっとも、そんなレベルの人生訓は『超訳 ニーチェの言葉』の「Ⅰ」にも「Ⅱ」にも記載されていない。

(2015年7月25日)

シェイクスピアの『リア王』

シェイクスピアの『リア王』(光文社古典新訳文庫)を読む。

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とてつもない作品だった。私が子どもの頃に聞かされたリア王とは全く違う。この作品を知っているつもりだったが、そんな自分が恥ずかしい。

リア王は狂死、コーディリア姫は絞殺されるという悲劇的結末だけでなく、辛辣で含蓄のある言葉の奔流に圧倒される。このような傑作には、翻訳物だとはいえ、そこいらへんの緩い小説が束になったってかないっこない。シェイクスピアの天才ぶりには驚くばかりだった。

おかげで、JRの新小岩駅で降りるのを忘れてしまった。ここまで熱中して本を読むのは久しぶりだった。こういう作品を読むと、言語ではどんな言葉を使っているのだろうと興味がわく。英文学者やマニアたちが取り憑かれてしまうのは当然だ。

(2015年7月24日)

吉本ばなな 『キッチン』

吉本ばななの『キッチン』を読む。

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1987年作品。これがデビュー作らしい。この作品から既に登場人物の死と不思議な男女関係が描かれている。吉本作品は、『キッチン』の延長なのだろう。数ある作品の中では読後感がかなり良い方だった。

吉本ばななは時々はっとするようなことを書く。「キッチン2」には、お気楽に料理教室に通ってくる女性たちについて、「彼女たちは幸せを生きている」と書き、さらに「幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。」と言い切る(新潮文庫 p82)。作家というのはこういうことをさらりと書いてのける人たちなのだ。

『キッチン』にはもうひとつ、「ムーンライト・シャドウ」という短編が掲載されている。これも特殊な人間関係が出てくる。主人公さつきの彼氏には高校に通う弟(柊 ひいらぎ)がいる。その弟には彼女がいた。さつきの彼氏は、自分の弟の彼女を車に乗せて送っている途中交通事故で死ぬ。もしかしたら残された物同士が恋仲になるのかと思わせる展開だったが、物語では2人がどうなるのかは明かされなかった。

「ムーンライト・シャドウ」で印象的だったのは、高校生の彼女と死別した男の子(柊)が、彼女が着ていたセーラー服で登校し、町を闊歩していることだった。そんなことを本当に実行できる男子高校生がいるのか疑問だが、私には到底思いつかない設定だ。さすが作家はすごい。なお、彼女の死を悼むこの男子高校生の行為は、馬鹿にされるどころか、学校の女子に同情・評価され、彼はもててもててたまらないのだとか。なるほどね。

(2015年7月23日)

よしもとばなな 『海のふた』

よしもとばななの『海のふた』(中公文庫)を読む。

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死は出てくるが特別な男女関係は出てこない。ある女性がかき氷屋を開く。お金を儲けるためというより好きでやっている。メニューも独特。しかし、彼女はそれでやっていく。彼女と暮らす少女はネット上でぬいぐるみ屋を始める。

自分で仕事を始める時っていうのは、こうして自分がやりたいことを自分の好きなようにやっていかなければ嘘だ。どこかで現実と妥協しなければならないというのが実情としてあるのかもしれないが、せめて物語として読む時にはそう思いたい。よしもと作品の中でこれほど読後感がよかった作品はなかった。

(2015年7月23日)

よしもとばなな 『王国 その4 アナザー・ワールド』

よしもとばななの『王国 その4 アナザー・ワールド』を読む。

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タイトルだけを見ると、少年少女をわくわくさせるファンタジーっぽい。ファンタジーには違いないのだろうけれども、私には心理カウンセリングの本のように思えてならなかった。

よしもとばななの作品の設定はどれも普通でない。よしもとばななの中ではすべてが普通なのだろうが。『王国』の場合は、主人公の祖母が人を癒やす特殊能力の持ち主。主人公本人もその力を少し持っている。主人公の上司は特殊能力を持った占い師で、ゲイ。占い師には彼氏がいる。こうした設定が標準だ。

『王国 その4』が完結編なのだろうが、今度はその3までの主人公の娘さんが出てきて、主人公に成り代わっている。彼女は同性愛者で、やはり同性愛者の彼氏を見つける。こういう設定の中での緩やかな生活風景を描くのがよしもとばなななの魅力なのだろう。

しかも、吉本(よしもと)作品では登場人物の死がよく起きる。不思議な男女関係や死がセットになっている。それが人生の中核だということなのだろうか。実に不思議な読書体験である。

(2015年7月21日)