小泉義之 『デカルト哲学』

小泉義之の『デカルト哲学』(講談社学術文庫)を読む。原本は1996年の『デカルト=哲学のすすめ』である。

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2015年5月に転居する前、本棚を整理していたら、デカルトの『方法序説』が3冊も出てきた。それらは訳がすべて違う。買う度に読んだはずだから、私は少なくとも3回『方法序説』を読んだことになる。肝心なのはその結果だ。おぼろげにしか覚えていないのである。特に、デカルトが神を証明する箇所は繰り返し読んでも納得できなかった。いくらデカルトでも証明方法に無理があるのではと恐れ多くも西洋哲学の大家に疑惑の目を向けながら読んだので消化不良である。そもそも『方法序説』を3回も買って読んだということは、「読んだ=自分のものになった」という実感がなかったからだろう。異なる訳で読んだところで理解はそれ以上深まらなかった。3冊をどの順に読んだのかさえ不明である。全く情けない(残念ながら3冊はすべて処分した)。

そんな状態だから、『デカルト哲学』などというタイトルの本が目に入ると、飛びついてしまうのである。しかし、この本はデカルト哲学の解説本ではなく、デカルトの言葉を著者がどう解釈しているかを記した本である。解釈を明確に示すために著者は時折具体例を述べているが、これが大変激烈な書きぶりだ。序章から雲行きが怪しかったのだが、痛烈に批判精神を発露させている。立命館大学での授業はおそらくかなり熱気の入ったものに違いない。それでもデカルトがより身近になれば私は満足である。が、そうも言えない。著者は入門書の形を取っておらず、最初からデカルトの文章をごく短く抽象化してまとめたりするので出発点の位置が高くなってしまっている。これからデカルトを読むという人にはかなり厳しい内容だろう。

そういうことなら、やはり訳書であっても原典に当たるべきなのだ。『方法序説』でも『省察』でも『情念論』でも、原典を読んでデカルトに近づくべきなのだ。解説本を手にしたところで、ただの遠回りなのだ。分からないのであれば分からないなりに4回でも5回でも読むしかない。私は『デカルト哲学』を読んで、4冊目の『方法序説』を手にする必要を感じた。

(2015年8月13日)