塩野七生 『ギリシア人の物語 Ⅰ 民主制のはじまり』

塩野七生の『ギリシア人の物語 Ⅰ 民主制のはじまり』(新潮社)を読む。

greek

これは私にとって待望の本だった。ギリシアが当時の超大国ペルシアに勝てたのはなぜなのだろうか、という疑問がずっとあったからだ。私は塩野七生の大ファンなので、ギリシャを取り上げた本をぜひ書いてもらいたいとかねてから願っていた。しかし、塩野七生は15冊に及ぶ『ローマ人の物語』の後、十字軍の時代まで書き上げている。さすがにもうギリシャ時代に戻ることはないのではと私は半ば諦めていたのである。だから、この本が出版されると知った時は欣喜雀躍した。塩野が私のために書いてくれたのではないかとさえ思っている。

それはともかく。

この戦役についての個別情報なら私だって少しは知っている。

BC490 (第一次ペルシア戦役)

  • アテネが主力のギリシア軍、マラトンでペルシア軍を撃破。

BC480 (第二次ペルシア戦役)

  • スパルタ軍、テルモピュレーでペルシア軍相手に玉砕。
  • アテネを主力とするギリシャ軍、サラミスの海戦にてペルシャ軍を撃破。

BC479

  • スパルタを主力とするギリシア軍、プラタイアでペルシア軍を撃破。

テルモピュレーの戦いは戦史マニアには著名だ。スパルタの王レオニダスがわずか300の兵でペルシアの大軍を迎え撃った戦いである。この模様は近年の映画『300』でもドラマチックに描かれている(激突シーンはこちら)。また、マラトンの戦いもサラミスの海戦も『300』の続編『帝国の進撃』で取り上げられていた。しかし、映画を観たところで、ペルシア戦役の全体像が掴めるわけではない。映画は絵になるところしか扱わないし、脚色が激しすぎ、支離滅裂になる場合もあるからだ。実際に、『300』と『帝国の進撃』にはあり得ないと思われるシーンが続出する。

『ギリシア人の物語』は違う。塩野はアテネやスパルタの政体、ギリシャの状況を描きながら、迫り来るペルシアの脅威に対してギリシアの人々がどのような考えのもと、どのような行動を取っていったのかを克明に示している。これなら、ギリシア勝利の理由はよく分かる。

塩野はギリシャの勝利について以下のようにまとめている。

**************************************************************
ペルシア(東方)は、「量」で圧倒するやり方で攻め込んできた。それをギリシア’(西方)は、「質」で迎え撃ったのである。
「質」といってもそれは、個々人の素質というより、市民全員の持つ資質まで活用しての、総合的な質(クオリティ)、を意味する。つまり、集めて活用する能力、と言ってもよい。
これによって、ギリシアは勝ったのである。ひとにぎりの小麦なのに、大帝国相手に勝ったのだった。
この、持てる力すべての活用を重要視する精神がペルシア戦役を機にギリシア人の心に生まれ、ギリシア文明が後のヨーロッパの母体になっていく道程を経て、ヨーロッパ精神を形成する重要な一要素になったのではないだろうか。
この想像が的を突いているとすれば、今につづくヨーロッパは、東方とのちがいがはっきりと示されたという意味で、ペルシア戦役、それも第二次の二年間、を機に生まれた、と言えるのではないかと思う。
勝負は「量」ではなく、「活用」で決まると示したことによって。
(p175-176)
**************************************************************

多分このようなことなのだろうと予想はしていたが、塩野はそれを歴史的事実をできる限り積み上げることで説明している。物語の体裁をとってはいるものの、立派な歴史書たり得ると思う。

(2016年2月18日)

恩田陸 『蒲公英草子 常野物語』と『エンド・ゲーム 常野物語』

恩田陸の『蒲公英草子 常野物語』と『エンド・ゲーム 常野物語』(集英社文庫)を読む。

tanpopo end

光の帝国 常野物語』を読んで感動した私は貪るようにして「常野物語」第2作『蒲公英(たんぽぽ)草子』と第3作『エンド・ゲーム』を手にしたわけだが、第1作ほどの感動は得られなかった。

『蒲公英草子』では日清戦争後、日露戦争前の旧家を舞台にしている。その旧家には余命幾ばくもない美しく若い女性がいるが、彼女は常野一族の血が流れているために、未来に起こることを予知できるという特殊能力があった。その少女を巡るはかなく、美しい物語が『蒲公英草子』だ。古い時代の雰囲気を違和感なく表現している点は悪くはない。

しかし、『エンド・ゲーム』の方は、物語が意味不明だ。この作品に登場する家族は敵を「裏返す」ことができる。逆に、敵は自分を「裏返」そうと攻撃を仕掛けてくる。問題は、その敵が一体何で、「裏返す」とはどのようなことなのか最後まで理解できないことだ。「常野物語」はこの後も続くらしい。だから完全な謎解きは続編を読んでのお楽しみということなのだろう。しかし、ここまで説明不足では、続編に期待できない。第4作以降がこの「裏返す」力を持つ家族の話になるのであれば、「常野物語」は読む気がしない。人の記憶を自分のものとして「しまう」ことのできる一族の物語が続くことを期待しよう。

(2015年12月3日)

恩田陸 『光の帝国 常野物語』

恩田陸の『光の帝国 常野物語』(集英社文庫)を読む。

hikari

時間を忘れて読んだ。デビュー作『六番目の小夜子』、『蛇行する川のほとり』、そして『球形の季節』と読んでいって、もう恩田陸は私に縁がない作家だから、これ以上この作家の作品を読む必要はないのではないかと思ったが、そうではなかった。少し嬉しい。

常野(とこの)という場所には特殊能力を持った人たちがいる。ある人たちはなんでも記憶することができる。ある人たちは遠い場所の音を正確に聞き分け、何が起きたのかを知ることができる。またある人たちは人の姿を見てその人の未来を読み取ることができる。さらに、ある人たちは心に思っただけで人を一瞬にして焼き殺すことができる。

そのような特殊能力を持った人たちにはありふれた幸福はないものだ。筒井康隆の『七瀬ふたたび』でも超能力者たちは全員抹殺されている。だから、この作品においても、彼らは世界中に散らばって目立たないように暮らしているし、過去には暗い記憶もある。しかし、それでも、彼らにはこれから何かを一族をあげて成し遂げる必要があるらしい。それが語られそうなところで本編は終了した。続編が2冊あるが、読むのを待ちきれない。

恩田陸の学園ものを読むのは苦役に等しかったが、『常野物語』を読んで私の恩田陸評は一変した。ある作家について語るのであれば全集を読んでからにすべしと言ったのは小林秀雄だが、その通りなのだ。

(2015年11月23日)

恩田陸 『蛇行する川のほとり』

恩田陸の『蛇行する川のほとり』(中央公論新社)を読む。

kawa

高校生の美少女、美男子を描く浮き世離れした小説だった。このような作品が存在すること自体に驚く。確かに高校生くらいの年齢には大人になる前の純粋さや無垢な感じはあるかもしれないが、美化しすぎると、非現実的なアニメでも見ているような気分にさせられる。

単行本の表紙を上に掲載したが、この絵は裏表紙にも続いている。どこかで遊ぶ4人の少女の絵である。作画は酒井駒子だ。作中には4人の少女がこのような下着姿で遊ぶ場面は登場しない。おそらくこれは編集者がおおよそのイメージを酒井駒子に伝えて書かせた図版であろうが、奇しくも浮き世離れしたこの作品の姿を表現している。酒井駒子の西洋趣味の絵は一頃大変もてはやされた。それは理解できなくもない。日本人離れした美少女への憧憬を表現したからだろう。確かに目を引くのだが、絵の吸引力が強すぎてテキストを薄めてしまう傾向があった。ところが、本作品はこの絵がどんぴしゃだ。これほど表紙のイメージと内容のイメージが一致した例はない。この表紙が文庫本にはない。本作品をパッケージとして鑑賞したいのであれば単行本を手にした方が良い。

物語は美少女、美少年が子供の頃に起き、迷宮入りした殺人事件を追想するものである。その意味ではミステリー小説に分類すべきだろう。

(2015年11月22日)

吉成真由美 『知の逆転』

吉成真由美のインタビューによる『知の逆転』(NHK出版新書)を読む。

ti

サイエンスライターである吉成真由美が当代の知性に対して行ったインタービューをまとめたもの。2012年12月初版である。

インタビュー先は以下の6人である。

  • ジャレド・ダイヤモンド
  • ノーム・チョムスキー
  • オリバー・サックス
  • マービン・ミンスキー
  • トム・レイトン
  • ジェームズ・ワトソン

このうち、トム・レイトンのインタビュー内容は彼我の差異を如実に感じさせるもので、まさに衝撃的であった。トム・レイトンはアカマイ・テクノロジーズ社の協同設立者で、MITの数学教授でもあるという。アカマイ・テクノロジーズと言われても私には未知の企業である。ところが、同社は「誰も知らないインターネット上最大の会社」らしい。我々が利用する大手サイトは、この会社のサーバによって迅速に表示されているという。同社のサーバ台数はこのインタビュー時点で9万台もある。それを世界各地に配置し、サイトへの大量アクセスに対処しているのである。それはサーバの台数が確保できるから成り立つ業務ではない。数学理論の導入によって初めて可能になる。数学教授としてのレイトンは、現実社会では殆ど役にも立たないと思われていた数学をインターネットの世界で駆使し、巨大ビジネスに成長させたのである。

アメリカではインターネットに対する研究がかなり本格的に行われているらしい。アメリカ発の技術だからしかたないのかもしれないが、インターネットの根幹はアメリカで作られ、発展させられている。アメリカの優秀な頭脳がインターネットの世界でしのぎを削っているのだ。それに引き替え、我が国はインターネットを利用しているだけである。供給する側には回っていないのだから、インターネットそのものでビジネスはできていないし、アメリカのように最先端の研究が行われているとも思えない。これでは大人と子どもであり、とても勝負にならない。日本はインターネットという現代社会のインフラに対して手も足も出せず、単に使う側に回るお客さんに成り下がっている。

かつては「技術立国」を標榜していた国はどこに行ったのだろうか。・・・なんてことを他人事のように書いているからダメなんだね。

(2015年11月16日)

村山由佳 『翼 cry for the moon』

村山由佳の『翼 cry for the moon』(集英社)を読む。

tubasa

前半は何度も投げ出したくなった。なぜなら、夢も希望もない物語として開始された上、簡単に人が死ぬからである。私は登場人物が簡単に死ぬ作品が好きではないのだ。そのような展開は安易に感じられるのである。人間がいとも簡単に死ぬ時はある。戦争や争乱、あるいは災害や事故が起きた時だ。しかし、それ以外では人間はそう簡単に死なない。死なないし、死ねない。だから、人はどんなに辛く、苦しくても現実の中で生きなければならないのだ。物語の展開上、人の死が必要な場合もあろうが、そういう設定は現実的でないし、物語としての魅力に欠ける。

それはそれとして。

本作品の主人公真冬はニューヨークで暮らす日本人だ。父親の海外赴任のため、彼女は子供の頃ボストンで育った。しかし、その父はボストンで拳銃で頭を撃ち抜いて自殺する。彼女の母は父と仲違いしていたくせに父の死を目撃していた真冬を忌避し、虐待する。その虐待は言葉によるもので、真冬が人を不幸にすると言い続ける。実際に彼女の周りの人は不幸に陥るのである。真冬が子持ちのアメリカ人男性と結婚する時も母はその結婚を祝福しない。そして、母の予言通り、真冬が結婚式を挙げた1時間後、新郎は射殺されるのである。ここまででもう私はギブアップしそうだった。

しかし、その後がこの物語の主部なのである。結婚後わずか1時間で死んだ夫には前妻との間の連れ子がいた。真冬はその子とともに亡き夫の生家があるアリゾナに行くのである。そこで真冬は亡き夫の一族と過ごし、ネイティブ・アメリカンのナバホ族の風習に接する。その中で彼女は少しずつ生きる力を取り戻していくのである。

530ページを読み終わってみれば、作者の主張はおおよそ把握できる。前半で投げ出さなくて良かったとは思う。ただし、読書のカタルシスを得るにはやや物足りない。

(2015年11月7日)

村山由佳 『天翔る』

村山由佳の『天翔る』(講談社)を読む。400ページを一気に読み切った。

ama

不幸な境遇にいる少女の物語である。母は男を作り家を出た。少女は小学校では父の仕事が鳶職だったためにいじめに遭っていたが、その父は仕事中事故で死ぬ。そんな少女に大人たちが手をさしのべる。だが、その大人たちだって訳ありの人生を送ってきているのだ。少女は不登校になっているが、乗馬の才能があった。やがて彼女は大人たちの支援を得ながら、アメリカで開催される100マイルのレースに出場し、完走するというのが大まかなストーリーだ。

売れっ子作家の作品だけにツボを押さえた作話だ。有り体に書くと、泣かせる。不幸に襲われたのは主人公の少女だけではない。登場人物は誰もが人生の苦難と直面し、それと戦いながら生きている。少女は主人公には違いないが、登場人物たちそれぞれが懸命に生きる姿が描かれている。少女は最後には不幸ではない。そして、懸命に生きてきた周囲の大人も不幸ではない。読者に明るい希望を与える本だ。

(2015年10月25日)

トゥルゲーネフ(ツルゲーネフ) 『初恋』

トゥルゲーネフ(ツルゲーネフ)の『初恋』(光文社古典新訳文庫)を35年ぶりに読む。少年の初恋の女性が誰かに恋をしている。その相手が自分の父だったという有名な物語だ。

hatu

少年は自分の初恋を図らずも父に踏みにじられた。しかし、その父に対する恨みは全くない。私はそんなに単純なものかと若干疑問だが、もしかしたら少年の初恋は目の前に妙齢の女性が現れたことに対する条件反射的なもので、恋や愛とは違ったものだったのかもしれない。

古典とはいえ、物語には背徳的な雰囲気はない。微塵もない。19世紀においては、これ以上の描写がなくても、実の父が21歳の若い女性と深い仲になったという物語があるだけでも十分刺激的であったのだろう。背徳的な内容の小説・映像は現代に溢れているが、それが後世に残るかどうかは疑問である。

(2015年10月19日)

松田道雄 『続 人生ってなんだろ』

松田道雄の『続 人生ってなんだろ』(筑摩書房)を読む。

jin

1974年発行。「続」というのだから「続」がつかない正編があるのだろうが、図書館にはなかった。

中学生向けに書かれた文章をまとめた本である。2ページ見開きに、ひとつのテーマに対する文章(主に人生訓話)がまとめられ、全部で100の文章が掲載されている。私は軽い気持ちで読み始めた。

すると、これが名文揃いなのである。わずか2ページに著者の考えはこれ以上ない明確さで表されている。言葉も文体も平易であり、まるで中学生に語りかけているかのようである。著者は読者に理解してもらえるように平易に書いている。これは大変な文章力だ。これほどお手本になりそうな優れた文章にはなかなかお目にかかれない。

果たして、著者が「文章について」というテーマで書いた文章が出てきた。長いが、後半部分を引用しておく。
***********************************************************
文章もていねいであればわかる。ていねいというのは、相手にわからせようという熱意のあることだ。その意味で、文章はたんなる技術ではない。だれに、どんな気持ちではなしかけるかということが大事だ。
私は結核の無料相談所の医者であったことで、文章のけいこができたと思っている。
病気のことを何も知らない病人ばかりやってきた。無料相談所へくるのは、貧乏でこまっている人だったから、中学にもいけなかったような人がおおかった。
そういう結核の病人に、病気のおこってくるわけを、わかるようにはなさねばならなかった。私は熱心にはなした。私のはなしがわからないで、病人が養生しなかったら、死んでしまう。それは人の命にかかわることだった。
私はていねいにはなすことを自然にまなんだ。だから文章をかくときも、ていねいにはなすようにかけた。
このごろの大学生がくれるビラにかいている文章は、わけのわからないのがおおい。あれは、ていねいでないからだと思う。
演説をきいても、だれを相手にしているのかがはっきりしない。自分だけわかって満足し、相手にわからせようとしない。
***********************************************************
やはりそうだったかと唸る。

(2015年10月15日)

梨木香歩 『エンジェル エンジェル エンジェル』

梨木香歩の『エンジェル エンジェル エンジェル』(新潮文庫)を読む。

angel

車中の暇つぶしのために手にした本だったが、予期せぬ傑作だった。

女子高生のコウは母親の自慢の子で、天使のようだと言われている。彼女は死期が迫る祖母の世話をしている。その仕事の引き替えのようにしてコウは母親から熱帯魚を飼ってもらう。エンゼルフィッシュだ。このエンゼルフィッシュは名前がエンゼル=天使なのに、残虐この上ない。コウが水槽に入れておいた小さな魚を攻撃し、食べ尽くす。小さな魚がいなくなると体格の良いエンゼルフィッシュが小さなエンゼルフィッシュを攻撃し、食らう。エンゼルフィッシュは自分を制御できないらしいのだ。

物語は、重層的だ。まず、コウの目で現在の世界が描かれている。そこではコウがおばあちゃんを世話している。もうひとつは、おばあちゃんの若かりし頃の物語がある。おばあちゃんは女学生の頃、エンゼルフィッシュよろしく、何も悪くない級友に対して異常なほど攻撃的であった。

おばあちゃんはエンゼルフィッシュの残虐さを見て、エンゼルフィッシュを嫌う。なぜなら、過去の自分と同じだからだ。しかし、エンゼルフィッシュだって、女学生の頃の自分だって、自分で自分を制御できなかったのだ。そのような時、創造主である神は「私が悪かった」とつぶやいてくれるのだろうか。そんなことをコウとおばあちゃんは話している。

文庫版のページ数は150ページほどしかないが、構成は重層的かつ複雑で、作者が人間の業を淡々と描くその筆致が素晴らしい。『西の魔女が死んだ』や『裏庭』よりずっと深い。心に残る作品だ。

(2015年10月11日)

村上龍 『希望の国のエクソダス』

村上龍の『希望の国のエクソダス』(文春文庫)を読む。

exod

単行本初版は2000年である。執筆時から言えばこの作品は近未来小説だ。

2002年、日本中の中学生たちが反乱を起こす。中学校は中学生たちによって見捨てられるのである。彼らの事実上のリーダーは同じ中学生のポンちゃんである。ポンちゃんは中学生とは思えないほど突き抜けたものの考え方ができる少年だ。彼は中学生80万人のネットワークを使ってビジネスを始める。やがて、日本が通貨危機に見舞われた時、ポンちゃんはインターネット経由で国会演説を行う。それによって日本は通貨危機を凌ぐ。その後、巨大なビジネスグループの総帥となったポンちゃんは北海道に独立国を作り始める。これが大まかな物語だ。

内容的には非常に興味深い。閉塞感漂う日本社会の中で、中学生のポンちゃんが台頭してくる様は痛快である。村上龍はこの作品を書くために膨大な資料を読み、近未来を描くのに使ったが、驚くべきことに、村上龍が描いた近未来である2000年代の様子は、2015年の現在を表現しているかのような真実味がある。そうした点は村上龍の面目躍如である。

しかし、読後感は全く良くない。村上龍は日本が嫌いで仕方ないのだろう。彼は日本を愚劣な人間が巣食う最低の国だとでも思っているのではないか。あるいは、村上龍はすべての日本人が無能で馬鹿に見えるのかもしれない。その気持ちが文章から滲み出ているので、正直申しあげてこの作品を読むのにはうんざりした。それは事実を突きつけられたことに対する私の拒否感や嫌悪があったためなのだろうが、自分が生きる国に対して村上龍がここまで愛がないのは不思議だ。

(2015年10月10日)

佐藤多佳子 『第二音楽室』

佐藤多佳子の『第二音楽室』(文春文庫)を読む。

ongaku

小学生から高校生が主人公の短編集。すべて女子が主人公で、音楽が絡んでいる。ただし、何かの大舞台があって、誰かが華々しい成功を収めるようなサクセスストーリーではない。楽器からして地味である。

「第二音楽室」 主人公:小5女子 楽器:ピアニカ
「デュエット」 主人公中学女子(学年不詳): 楽器:歌
「FOUR」 主人公:中1女子 楽器:ソプラノリコーダー
「裸樹」 主人公:高1女子 楽器:ベースギター

私は佐藤多佳子の作品を生理的に受け付けない。若者の口語をそのまま活字にしたような文章を読んでいると、本を放り出したくなる。この本でも、冒頭の表題作から最終作に向けて若者口語体度はどんどん上がっていく。最終作「裸樹」は今時の女子高生の独白そのもので、最初の1ページで本を閉じたくなった。

ところが、この「裸樹」が最も印象に残る作品だった。

主人公の女子は中学の時に不登校の経験がある。彼女はある日路上で歌う女性の歌に魅了されてギターを始める。それによって何かが変わると信じて。彼女は高校に入ると軽音学部でベースギターを弾き始める。そして、そこで何年も高校を留年している幽霊部員の先輩に出会う。その先輩こそ昔路上で歌を歌っていた当人だった。先輩もまた不登校であり、リストカットや薬の経験者でもあった。彼女との接点ができてから、臆病だった主人公は大きく変わり始めるのである。

主人公には未来が開けているように思えた。作者はあえてこの作品を短編にしたのだと思うが、是非続編を読んでみたい。

私事ではあるが、私の長女は不登校であった。この物語を読むとどうしても長女と主人公を重ねてしまう。私の嫌う文体で書いてある作品であるにもかかわらず、物語は私を捉えて放さなかった。今まで忌避していた作家だが、再度挑戦してみよう。

(2015年10月5日)

なだいなだ 『心の底をのぞいたら』

なだいなだの『心の底をのぞいたら』(ちくま文庫)を読む。

nada

初版は1971年である。長く読み続けられているのは、平明でありながらも読者の心に残るものがあるからだろう。おそらく中学生を対象にして書かれているが、大人にとっても読み応えがある名著だ。

後半になるにつれて内容は深まっていく。人間はなぜ兄弟げんかをするのか、男女の肉体上の違いはどんな影響をもたらすのか、思春期とは何か、思春期に友情を育むことができるのは何故か、などについてなだいなだは明解に解説する。

私が注目したのは、逃げることについてなだが積極的な評価をしていることであった。なだはこう言う。
**********************************************
攻撃のための武器、牙だとか、角だとかがなくても、ただ逃げるための速い足をもっているだけで、この地上の生存競争で、生きぬき、生き残っている動物がどれだけいるかわからない。そのことは、この地上の動物を見まわしてみればすぐわかる。弱肉強食の原則の厳しい自然で、弱い、ただ逃げるだけしかとりえのない動物が、たくさん生き残っていて、強い、りっぱな牙や角を持った動物が、死にたえそうになっている。
**********************************************
なだによれば、逃げることは決して卑怯ではない。逃げることによって生き残った方が良いのだ。そして、なだは、社会的な価値を持ってしまった勇気というものに疑問を投げかける。これは第4章「三十六計、逃げるにしかず」わずか16ページの中で述べられているが、本当に考えさせられる。多分、中学生には強いメッセージになって届くだろう。こうしたことが書かれているからこそ本書はロングセラーになっているのだろう。

(2015年10月3日)

ホーマー・ヒッカム・ジュニア 『ロケット・ボーイズ 上・下』

ホーマー・ヒッカム・ジュニアの『ロケット・ボーイズ 上・下』(草思社)を読む。

ro_1 ro_2

作者の自伝的小説である。映画「October Sky 邦題 遠い空の向こうに」の原作である。映画は渋い名作だったが、原作に到底及んでいない。

1957年、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げた。これは当時のアメリカ人に強烈な精神的打撃を与えたらしい。その中で、自分もロケットを打ち上げたいと一念発起した高校生がいた。それがこの作品の主人公ホーマー・ヒッカム・ジュニアである。彼は高校3年間をロケットの作成に明け暮れる。仲間もできる。支援してくれる先生、大人が現れる。主人公はロケットの設計のために数学も物理も化学も熱心に勉強する。そして、科学フェアの全国大会で優勝する。しかし、好きな女の子は自分に気がない。彼の父は兄を偏愛し、自分に好意を持ってくれない。どうすればいいのか。・・・という物語である。

これは翻訳書だが、文章が素晴らしい。日本の作家ならさぞかし感動的に描くと思われるエピソードがさらっと書かれている。例えば、主人公たちは科学フェアでは勝ち進んでいくが、勝利の瞬間は数行で終わる。実に淡々としたドライな文章だ。それだけに、読者は行間を読むことができるわけで、上下巻を読み通した時には大いに充実感を味わった。

ロケットを打ち上げる物語は作家の挑戦意欲を駆り立てるらしい。日本では池井戸潤の『下町ロケット』(傑作)や川端裕人の『夏のロケット』のような作品が生まれている。日本からもフィクションではなく、ノン・フィクションとしてこうした本が出てくることを期待したい。

(2015年10月1日)

奥田英朗 『マドンナ』

奥田英朗の『マドンナ』(講談社文庫)を読む。

madonnna

5つの短編が収録されている。表題作は、『ガール』の「ひと回り」と逆の設定だ。「ひと回り」では年上の女性社員のところに若いイケメン男子が現れるが、「マドンナ」では男性課長のところに若い女性が現れる。男性課長は自分の好みぴったりの部下に心を奪われるのである。本作は大人の小説にありがちな愛欲を描いたものではなく、この課長のならぬ恋がどんな顛末を迎えるのかをコミカルに描く。

この短編集で最も私の興味を引いたのは「ボス」だった。空席になった部長の席に自分が座ると思い込んでいた男は、そこに自分と同じ年の女性が座ることを知り愕然とする。その女性上司は欧米流の仕事ぶりで部門を改革していく。その途上で主人公の男とぶつかる。残念ながら男は女性上司の相手にもならず常に粉砕されるのである。あまりにも強い女性上司は非現実的だと私は思ったのだが、ふと思い直すとそうでもない。これが出世した女性管理職の典型という気がした。女性が男性社会の中で管理職として生きていこうとすれば、強くならざるを得ないだろう。

(2015年9月27日)

奥田英朗 『ガール』

奥田英朗の『ガール』(講談社文庫)を読む。

girl

三十路の女性が主人公の5本の短編が収録されている。どれも男目線の三十路女像なのだが、なかなかリアルだと感じた。見方によっては女性の老いをテーマにしているとも言える。

自分はもう「ガール」ではないのではと密かに悩む女性や、管理職に抜擢されたばかりに、自分より年上の男子社員と業務上で衝突する女性などが登場する。

エンタメ性も十分だ。一番楽しめたのは、最終話の「ひと回り」だ。35歳の独身女性の部署にイケメンの新入社員が配属される。彼女は年齢が一回りも違うイケメン新人を教育指導する係なのだが、彼女は会った瞬間から彼にのぼせてしまう。一方的な恋の始まりだ。イケメンを落とそうあの手この手で接近してくる社内の女性は指導教官としての権限をフルに利用して自分の手でシャットアウトする。女性が女性を見る目は鋭い。女は女の意図をすぐさま見破るのである。イケメンに女性たちが悉く色めき立つというのは漫画的で、笑ってしまう。もっとも、男だって、とてつもない美人が現れれば心奪われるのだから同じことか。漫画的とは言えないのかもしれない。しかし、彼女はある時、憑き物が落ちたようにイケメンへの異常な情熱を失う。自分の異常な行動を客観的に捉えることができたからだ。

5話ともに男性作家による女性像である。かなりの真実が含まれているように私は感じたのだが、同じことを女性読者が感じるかどうかは不明である。

(2015年9月24日)

奥田英朗 『家日和』

奥田英朗の『家日和』(集英社文庫)を読む。

home

短編集。6作が収録されている。どれもよくできた話ばかりだ。中でも「家においでよ」は半ば我が事が書かれているような気がした。

主人公の田辺は、ある日妻から離婚を宣告される。夫婦と言っても他人同士だから、気が合わなかったり、家財道具に対する趣味が合わなかったりすると夫婦生活を続けられないのだ。妻は田辺が出張中に自分の家財道具を持って高級マンションに引っ越してしまう。田辺はがらんとしたマンションで1人の生活を始める。

その先が面白い。彼は男の城を築き始めるのである。まず、カーテン、テーブル、ソファを買う。その後は今まで我慢してきたオーディオ機器、しかも、LPが聴ける高級機材を購入する。それでロックを聴くのだ。都合のいいことに彼が住んでいたマンションは防音が行き届いている。それに飽き足らず、彼はホームシアターまで完備させる。本棚は自分が好きな本や雑誌で埋め尽くす。こんな部屋があることを知った会社の同僚たちは田辺の部屋をたまり場にする。毎日が楽しくなる。若い頃には安物の音響機器でしか聴けなかったLPも、立派な装置で聴けば感動もひとしおだ。それに、黒澤明の『7人の侍』も大画面のホームシアターで見れば男どもを唸らせる。

田辺の家に集まる会社の同僚たちはそれぞれが家長であり、一国一城の主ではある。それでも自分の部屋など持ってはいないのだ。持てたところで、田辺のように好き放題はできない。だから、田辺の部屋は男のあこがれなのである。頻繁に通いたくなるのも無理はない。

この短編には意外な結末があった。家を出て行ったはずの田辺の妻が、ある日こっそりその部屋に入り、その変貌ぶりを目の当たりにして動揺するのである。自分がいなくなった後、田辺ががらんとした部屋で寂しい生活を送っていると思いきや、その逆だったのだ。そして、妻はその部屋に興味をもってしまうのである。最後には妻は男の元に帰ってくるのだ。

おいおい、そんなにうまくいくわけないだろうと私は思うのだが、1人の部屋でやっていることは私も田辺もあまり変わらない。私はもっと本格的に男の城を築かなければならないのだろうか。

(2015年9月21日)

奥田英朗 『サウスバウンド』

奥田英朗の『サウスバウンド』(角川書店)を読む。

south

小学6年生を主人公にした小説だが、児童書ではない。小学生の目から見た家族を描いた大人向け作品である。

小学6年生の上原二郎は東京・中野に住む食べ盛りの少年だ。彼にはちょっと変わった父親・一郎がいる。一郎は働かないで毎日家でごろごろしている。家計は母が喫茶店経営をしてやりくりしているのだ。一郎は元左翼の活動家だった。それも伝説の闘士だった。そうしたことは普通過去のこととされるものだが、そのスピリットは今も活動家のままで、国家公安委員会にもアナーキストとして名前を知られている。当然、区役所の役人や学校の先生など、公的部門に勤務する人たちが目に入ると暴れ回る。例えば、子供の修学旅行の積み立て代金は、業者が学校側と癒着して高めに設定し、学校側にはリベートが払われていると決めつけ、学校で大騒ぎする。そんな親を持った子供はたまったものではない。挙げ句の果てに父と子はある殺人事件に間接的に関与してしまい、一家は中野にいられなくなる。引っ越し先は沖縄の西表島だ。

沖縄に行くと、一郎は東京在住の時とは打って変わって労働に精を出す。働く働く。野性的になる。母は母で急に若返ってしまう。電気もない生活だが幸せである。共生の思想がある沖縄では共産主義が実現したくてもできなかった理想社会ができあがっているからだ。まるでこの世の楽園だ。しかし、この物語はこれで終わらない。父はここでも闘争を始めるのだ。島の開発をもくろむ業者と戦うのである。その勇姿を見た家族はすっかりこの父を好きになっていく。

ここまで書くと、著者が左翼の活動家を賞賛しているような内容に思えるかもしれないが、決してそうではない。左翼とは距離を置いている。また、市民活動家に対しては少女の口を借りて「要するに誰かを謝らせたいのよ。それが手っ取り早く叶うのが、正義を振りかざすことなんだと思う」と批判する。むしろ、この本の主題のひとつは、一郎の次の言葉に表されている。

「これはちがうと思ったらとことん戦え。負けてもいいから戦え。人とちがっていてもいい。孤独を恐れるな。理解者は必ずいる」

この小説のように戦えれば男子として本望だろう。

なお、西表島はこの本に書いてあるとおりの場所なのだろうか。もしその通りであって、それを新小岩転居前に知っていたら、私は新小岩でなく、西表島に引っ越していただろう。夢が膨らむ物語である。少なくとも、西表島に行ってみたくなる。

(2015年9月16日)

山口理 『河を歩いた夏』

山口理の『河を歩いた夏』(あすなろ書房)を読む。児童書である。

kawa

千葉県我孫子市に住む少年一平は、小5の時に大学生の叔父と我孫子から利根川の土手を歩いて太平洋に出た。それがひどく辛い経験だったので、彼はもう2度とそんな馬鹿げたことはしないと決心していた。しかし、小6の夏休みに彼はあることを思い立つ。今度は利根川を逆方向に歩き、新潟県にある利根川の水源まで辿り着こうというのだ。我孫子から水源までは300キロある。しかも途中からは山登りだ。山岳部員でもある大学生の叔父はまたもそれに付き合うが、一平のクラスメイトも男女も参加することになる。

私は自分の体験もあるのでこの本を特に楽しく読むことができた。

私は数年前に自転車に乗ってさいたまから新潟県の苗場スキー場に行ったことがある。前橋までは平坦で、自転車で苦もなく行ける。しかし、その後はなかなか厳しかった。月夜野からはずっと上り坂だ。自転車をのんびり漕いでいるわけにはいかない。早く登り切らないと日が暮れてしまうからだ。私は必死に自転車を漕いだ。

さいたまから苗場まではわずか170キロほどだったが、『河を歩いた夏』で少年たちは300キロを踏破している。大人が1人付いているとはいえ子供ばかりだ。小6では体力的にも非常な負担だろう。また、川沿いを歩くというのは、上流に行けば行くほど道が悪くなるので簡単ではない。道が分からなくなることもある。彼らにとっては大変な冒険だったろう。

苦労しながらも彼らの旅は成功するが、そのコースは魅力的だ。大水上山の水源には大きな石があり、さらに最初の一滴がその少し先の雪渓から発しているのだという。私も利根川の水源まで歩いて行ってみたくなった。

(2015年9月14日)

橋爪大三郎 『はじめての構造主義』

橋爪大三郎の『はじめての構造主義』(講談社現代新書)を読む。

kouzou

今頃構造主義でもないかと思いながら手に取る。案の定、1988年初版のこの本の中で著者自身が「構造主義なんかにいまごろまだひっかかっているようでは、”遅れてる”もいいところでしょう」と自嘲気味だ。しかし、同時に「おませな中学生の皆さんにも読んでいただけるように」書いたというキャッチフレーズが気になって読み進めた。230pほどしかないが、中学生が最後まで投げ出さずに読むとはあまり考えられない。しかし、著者は口語調で書いたり、図版を多めに採用したり、学問的な専門用語はほどほどにしたりと、分かりやすく説明する努力をしている。その点は評価すべきだ。

構造主義を説明するのが第4章までだが、第5章の「結び」が読ませる。「構造主義は時代遅れか」に始まる率直な意見が述べられているのだ。一部を引用しよう。

**********************************************************
なるほど、ポストモダンもいいだろう。しかし、いくらこれまでの思想に関係ありません、という貌(かお)をしても、そうは問屋がおろさない。やっぱり思想は思想である。そして思想たるもの、これまで幅を利かせていた思想に正面から戦いをいどみ、雌雄を決する覚悟でないと、とてもじゃないが自分の居場所を確保することすら覚つかないはずだ。どうも(日本の)ポストモダンは、旧世代の思想とまるで対決していないんじゃないか。それをすませないうちは、またぞろ日本流モダニズムの焼直しなんだか、知れたものではないぞ。
**********************************************************

社会学、思想で飯を食うからにはこのくらいのことは言い切れないといけないのだな。

(2015年9月12日)

マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 上・下』

マイケル・サンデルの『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 上・下』(早川書房)を読む。

sandel_2  sandel

私もかつてNHKで放送された「白熱授業」を見たことがある。サンデルがあまりに颯爽としているので、大学の授業ではなく、舞台劇なのではないかと思った。大教室に溢れる生徒を相手にたった1人で講義をし、議論をし、生徒たちを仕切っていく姿は格好良すぎる。サンデルは哲学界のカラヤンだ。(古いか?)

この本はその講義を収録したものだ。サンデルが颯爽としているのは活字を読んでも伝わってくる。活字になってさらによく分かったのは、ハーバード大学生の優秀さである。カントを議論する部分では、私は活字を読んでさえ理解するのに時間がかかるのに、ハーバード大学生たちは口頭でサンデルと丁々発止のやりとりをしている。全く頭のできが違う。

それはともかく、対話形式で哲学を学ぶのはソクラテス以来の伝統ということになっているので、サンデルの授業はまさに哲学の本来の有り様を示している。しかし、我が国で哲学の授業がこのような形式で行われている例を私は寡聞にして知らない。サンデルに続いた、もしくはサンデル同様に対話型で授業を行っている日本人の教授はいるのだろうか?

なお、上下巻の余白に東京大学でのサンデルの特別授業が収録されている。ハーバードでは正課であるので生徒は事前に参考図書を読み、次回の講義でのトピックはWeb上で議論した上で参加しているようだったが、東大ではたった2回の特別授業だ。それ故、議論の深さや抽象度の高さはハーバードに及んでいない。しかし、日本の戦争責任について議論した内容を読むと、実にしっかりとした考えを堂々と述べている。大変喜ばしいことだ。

(2015年9月7日)

田中美知太郎 『哲学初歩』

田中美知太郎の『哲学初歩』(岩波書店)を読む。

shoho

岩波現代文庫に入ったのは2007年だが、底本は1950年に刊行されている。65年も前の本だ。

「哲学とは何か」「哲学は生活の上に何の意味をもっているか」「哲学は学ぶことができるか」「哲学の究極において求められているもの」の4章で構成されている。

読みながら結論が気になったのは「哲学は学ぶことができるか」だ。タイトルからして刺激的である。学ぶことができないという結論になったらどうなるのか。例えば、私はこうして哲学関連書を読んでいるが、この行為は無駄なのだろうか。哲学をもっと学びたいと思って努力してもそれは結局徒労なのだろうか。さらに言えば、世の中にある哲学書は何なのだろうか。学べないならなぜ哲学書があるのか。

田中はプラトンを引用して以下のように述べている。

*******************************************************
プラトンは、哲学の最も大切なところは、自分で見つけ出すよりほかには仕方がないのであって、話したり、書いたりして、これを他に伝えることのできないものであると信じていたようである。そしてこのことを知らずに、それを書物に書いたりする者も、またそういう書物を読んで、何かわかったようなきもちになっている人々も、プラトンはまるで信用しようとしないのである。
*******************************************************

恐ろしいことを平然と言ってのけている。そして、ソクラテスの産婆術について引用した後、こう述べる。

*******************************************************
つまりもし教育というものが、外から知識を授けることではなくて、自分でそれを見いださせることにあるのだとすれば、教師は自分で知識をもっていて、これを外から注入する必要はないのであるから、いっそ余計な知識はもっていないで、人が知識を産み出すのを、わきにいて助ける方がよいわけである。みずから「何も知らない」と言ったソクラテスは、かえってこのような理想的な教師の立場を徹底させていたのだと言うこともできるであろう。
*******************************************************

ここまで読むと結論が見えてくる。田中はこう述べる。

*******************************************************
ソクラテスの産婆術の意味における、教育は可能であり、私たちは問答を通じて、ロゴスによって、人々を知識の想起にまで導くことができるのである。そのかぎりにおいて、智を愛し求める努力も、必ずしも無意味ではなく、プラトンの教育活動も、著作活動も、一概に矛盾であると言ってしまうことはできないであろう。
*******************************************************

これでクリアになった。ただし、やはり部屋に籠もって哲学書を読むことは哲学を学ぶことにはならないのだ。これは肝に銘じておくべきことだろう。

(2015年9月5日)

池井戸潤 『ロスジェネの逆襲』

池井戸潤の『ロスジェネの逆襲』(文春文庫)を読む。

losgene

半沢直樹シリーズの第3弾である。これからも続くのかどうか不明である。

半沢直樹は華々しく活躍しすぎたために銀行本店から証券子会社に出向させられている。今度は証券会社の社員として銀行の証券営業部と徹底抗戦をしている。第3巻にもなると半沢の完全無欠のヒーローぶりが前提で物語が進行する。半沢には影の部分がないので、もはや非人間的な印象さえ受けるのだが、そのように難癖をつけたとしても本作は面白くてたまらない。池井戸潤のプロットは緻密で、企業買収についてもリアルな記述が続く。サラリーマンなら誰もが楽しめる作品だろう。

半沢は銀行の証券子会社にいるのに、銀行本体を敵に回す。そんなことをすれば人事でどのような目に遭わされるか分からないのに、平然として我が道を行く。半沢は、仕事は自分のためにするのではなく、「客のためにする。ひいては世の中のためにする」ものだと言い切る。さらに、「自分のためにした仕事は内向きで、卑屈で、身勝手な都合で醜く歪んでいく」とも。確かに、半沢直樹シリーズには自分のために仕事をしてみじめに敗退していく銀行員が次から次へと出てくる。

池井戸潤のメッセージは明確だ。サラリーマンの殆どは半沢直樹のような完全無欠のヒーローにはなれない。しかし、池井戸潤のメッセージは受け止めても損はしないだろう。

(2015年9月2日)

池井戸潤 『オレたち花のバブル組』

池井戸潤の『オレたち花のバブル組』(文春文庫)を読む。

baburu

これは『オレたちバブル入行組』の続編である。社内の不正と戦う主人公を描く。前作では半沢直樹が牙をむくようになるまで、妻にやり込められたり、葛藤する場面があったが、こちらの半沢は全く逡巡していない。最初からヴォルテージが上がっている。そうなるとまるでアメリカのヒーロー映画でも観ているような気にさせられる。痛快ではあるのだが、不安や迷いがないキャラクターを見ると、「本当だろうか」という気になる。

むしろ、本作で注目したいのは脇役で登場する銀行員 近藤だ。能力がある人物でありながら、上司に潰され、統合失調症になった彼は銀行から出向させられる。出向先では社長から疎まれ、部下からも横柄な態度を取られる始末だ。それでもその出向先で働かなければならない。卑屈になって生きる彼は、ある日、本来の自分を取り戻し、出向先の悪事を追及し始める。卑屈な自分をかなぐり捨てるシーンに私は喝采を送った。

本作の最終ページには、池井戸潤による言葉が載っている。これはこのシリーズにおける主題だろう。
************************************************
人生は一度しかない。
ふて腐れているだけ、時間の無駄だ。前を見よう、歩き出せ。
どこかに解決策はあるはずだ。
それを信じて進め。
それが、人生だ。
************************************************

(2015年8月29日)

池井戸潤 『オレたちバブル入行組』

池井戸潤の『オレたちバブル入行組』(文春文庫)を読む。

hanzawa

テレビ番組「半沢直樹」の原作である。

原作は確かに面白い。銀行内の醜い責任回避、背任行為が描かれており、上司に潰されそうになった半沢がそれに立ち向かうという話だ。私は物語の小気味よいテンポに感心しながら、あっという間に読破してしまった。

文庫本の本文は355ページまであるが、「やられたらやり返す」という有名な台詞は290ページにやっと登場する。ところが、テレビの「倍返しだ」は原典では「十倍返しだ」になっている。テレビの方が穏当だった。テレビのプロデューサーは本の中で1回しか出てこないこのフレーズに目をつけてドラマ化したわけだが、目の付け所はさすがだ。

テレビドラマ「半沢直樹」が大ヒットしたのは、このような主人公に多くの人が憧れたからだろう。組織の中で押し潰されそうになっている人は溜飲を下げたに違いない。しかし、押し潰されないためにはテレビや小説で鬱憤を晴らしているだけではだめだ。できすぎのキャラクターなのかもしれないが、半沢直樹を見習う必要はあるだろう。

(2015年8月26日)

池井戸潤 『不祥事』

池井戸潤の『不祥事』(講談社文庫)を読む。

hanasaki

テレビ番組『花咲舞が黙ってない』の原作である。主人公名はもちろん花咲舞。テレビ化されるだけあって大見得シーンが満載の痛快な作品だ。登場人物は白黒に色分けされていて分かりやすい。

しかし、どうにも漫画的だ。文庫本の表紙からして漫画的である。人間が善玉悪玉に明確に分けられているために物語に深みがない。人間が白黒のどちらかに分類されるなどということはあり得ない。グレーや、他の色はないのか。また、花咲舞は子供番組のヒーローみたいで非現実的すぎる。これなら『銀行総務特命』の方がはるかに陰影のある作品だ。

(2015年8月22日)

池井戸潤 『銀行総務特命』

池井戸潤の『銀行総務特命』(講談社文庫)を読む。

ginko

帝都銀行総務部企画グループには辣腕の特命担当がいる。彼らの仕事は銀行に悪影響を及ぼしかねない内外の不祥事を処理することだ。彼らの手で顧客名簿流出、女子行員のAV出演、取引先との癒着などが次々と解決される。

巨大銀行は万単位の人間を擁するとてつもない組織だ。国の中にある国だ。上下関係が明確で人事は厳しい。そしてお金を扱う組織でもある。これで人間のドラマが生まれないわけはない。「現実は小説よりも奇」であるので、現実の銀行にはもっとすさまじいドラマがあるはずだ。

しかし、銀行が特別なわけではない。私の歳になると、中堅企業でも零細企業でも同じように数々の事件・ドラマが現実に起きることを知っている。仮に10人の企業であろうと、100人の企業であろうと、人間がいる場所にはとんでもないことが起こる。これは現実に起きることなのかと口をあんぐり開けてしまうようなことが起きる。

銀行は絵になる舞台だ。物語の舞台として描くには適しているだろう。だからテレビ番組にもなる。しかし、どのような職場においても暗部はあり、驚愕の事件が起きているのだ。『銀行総務特命』は面白い作品だが、現実はこんな生やさしいものではない。

(2015年8月20日)

田中美知太郎  『生きることの意味』

田中美知太郎『生きることの意味』(学術出版会)を読む。

ikiru

一文一文を噛みしめながら読んだ。明解な名文である。

200ページほどの本に15の短い文章が掲載されている。そのうち二つは戦前のものだ。最も新しいものでも1963年。どれも古さを感じさせない。15編を読むと、まるで田中が現代社会に生きていると錯覚する。田中の考えが普遍的であるからだろう。

田中の文章は相変わらず明解だ。
最終章「考える葦」(1949年)の終わり頃には以下のように書いている。

*********************************************************************
我が国においては、いわゆる知識人と大衆との間に大きな溝があるというようなことが言われるけれども、そのような溝は、すでに知識人自身の思想と生活との間に存在しているのではないかと疑われる。つまりその思想は、その生活から遊離していて、自然にその生活を支配するような力を欠いているのではないかと疑われる。
*********************************************************************

もうひとつ、田中節とも言える決然たる文章がある。「自由と偏見」(1946年)の最後である。痛快極まりない。

*********************************************************************
人々は自分でものを考える苦労を嫌って、何でもたちまちのうちに解明してくれるような哲学を求めた。流行の哲学は、これさえあれば他に何も考えないですむような工夫ばかり教えようとしたのである。その結果、哲学の勉強がかえって思想の自由を失わせることにもなった。わたしたちは哲学大系を何か一つ呑み込んで、いろいろな事柄を、その哲学大系の用語で片言なりとも喋ることができれば、それで満足するような人たちに何も期待することはできない。哲学の思惟は、法律の適用に頭をはたらかせる属吏の思惟ではなくて、法律が世のため人のためになるかどうかを吟味する、立法者の思惟なのである。思想の自由なくしては、哲学は不可能である。そしていかなる暴政のもとにも、哲学だけは、思想の自由を保持しなければならない。自由に考えることは、その義務であり、徳なのである。そしてかく自由に考えることによってのみ、それは国のため、世のため、人のために尽くすことができるのである。もしこれを怠るなら、それはまさに断罪されなければならない。
*********************************************************************

(2015年8月19日)

田中美知太郎 『哲学入門』

田中美知太郎の『哲学入門』(講談社学術文庫)を読む。

tetugaku

何度も読み返したくなる名著だ。

哲学の入門書と聞いて思い浮かべるのは、日本語とは思えぬ硬質な学術用語と、正確さを期すために使われる翻訳調の文体で学説の歴史を止めどもなく説明している解説書だ。この本はタイトルこそ『哲学入門』だが、中身はそうした類書と違う。というより、類書とは比べものにならない。田中美知太郎も過去の大哲学者の言葉を引用しているが、それを咀嚼した上で、自分の考えを述べている。その意味では哲学の学説史などではあり得ない。

全部で240ページ弱の本だが、さらに5つの文章に分かれている。「モームの哲学勉強」「関東大震災の頃」「京都での学生生活」「哲学とその根本問題」「科学史の視点」である。このうち、100ページ弱の「哲学とその根本問題」があるゆえに『哲学入門』というタイトルがつけられたようだ。

「哲学とその根本問題」は昭和30年(1955年)4月から5月にNHK教養大学で行われた講義録である。何と私が生まれる前である。8回の講義の中で、田中は哲学についての予備知識がない人にでも分かる言葉のみを用いて哲学を語る。これ以上分かりやすい文章を他に求めることはできない。また、その内容があくまでも現実を見据えて書かれている点に驚かされる。だからこそ田中の講義は今なお読者に訴えかけるのだ。例えば、第6回講義では「知」と「生」について述べられている。ここで田中はこう語る。

*************************************************************
ソクラテスの考えに従えば、「知る」ということは、「おこなう」ことになるのです。そうならない知は、まだ「知」ではないわけです。医学の知識は、病をいやし、健康をもたらすのであり、建築の知識は、家をつくる。病を治さぬ医学の知識、家をつくることのできぬ建築の知識というようなものは、無意味だということになります。哲学のためには、このようなつながりが必要なわけで、そのためには、哲学の求める智も単に知られるものについてだけ考えられる知ではなくて、知る者を医者にし、建築家につくる、ひとつの力としての知でなければならないでしょう。これらは現実に、技術として存在しています。哲学は、それらの技術の技術でなければならないのです。
*************************************************************

こんな名調子が続く。惚れ惚れとするような文章ではないか。

なお、「モームの哲学勉強」「関東大震災の頃」「京都での学生生活」は哲学者田中美知太郎を知る上でも、読み物としても面白い。

(2015年8月14日)

小泉義之 『デカルト哲学』

小泉義之の『デカルト哲学』(講談社学術文庫)を読む。原本は1996年の『デカルト=哲学のすすめ』である。

descartes

2015年5月に転居する前、本棚を整理していたら、デカルトの『方法序説』が3冊も出てきた。それらは訳がすべて違う。買う度に読んだはずだから、私は少なくとも3回『方法序説』を読んだことになる。肝心なのはその結果だ。おぼろげにしか覚えていないのである。特に、デカルトが神を証明する箇所は繰り返し読んでも納得できなかった。いくらデカルトでも証明方法に無理があるのではと恐れ多くも西洋哲学の大家に疑惑の目を向けながら読んだので消化不良である。そもそも『方法序説』を3回も買って読んだということは、「読んだ=自分のものになった」という実感がなかったからだろう。異なる訳で読んだところで理解はそれ以上深まらなかった。3冊をどの順に読んだのかさえ不明である。全く情けない(残念ながら3冊はすべて処分した)。

そんな状態だから、『デカルト哲学』などというタイトルの本が目に入ると、飛びついてしまうのである。しかし、この本はデカルト哲学の解説本ではなく、デカルトの言葉を著者がどう解釈しているかを記した本である。解釈を明確に示すために著者は時折具体例を述べているが、これが大変激烈な書きぶりだ。序章から雲行きが怪しかったのだが、痛烈に批判精神を発露させている。立命館大学での授業はおそらくかなり熱気の入ったものに違いない。それでもデカルトがより身近になれば私は満足である。が、そうも言えない。著者は入門書の形を取っておらず、最初からデカルトの文章をごく短く抽象化してまとめたりするので出発点の位置が高くなってしまっている。これからデカルトを読むという人にはかなり厳しい内容だろう。

そういうことなら、やはり訳書であっても原典に当たるべきなのだ。『方法序説』でも『省察』でも『情念論』でも、原典を読んでデカルトに近づくべきなのだ。解説本を手にしたところで、ただの遠回りなのだ。分からないのであれば分からないなりに4回でも5回でも読むしかない。私は『デカルト哲学』を読んで、4冊目の『方法序説』を手にする必要を感じた。

(2015年8月13日)

浅田次郎 『蒼穹の昴』

浅田次郎の『蒼穹の昴』(全4巻。講談社文庫)を読む。

subaru_1 subaru_2

subaru_3 subaru_4

これは清朝末期の中国を舞台にした歴史小説である。ミステリーでもあり、ファンタジーでもある。

物語には西太后、李鴻章、康有為、袁世凱といった歴史上の人物が登場する。19世紀末の清朝は日本を含めた列強に国を浸食されており、国威は衰退するばかりである。帝国最盛期を築いた乾隆帝亡き後、清朝は皇帝に人を得ていないが、それには理由があったのだ。ある日乾隆帝は、愛を知らぬ皇帝一人が4億の民を支配する帝政を途絶させることを決意する。そして、天命がある者が持つ龍玉(巨大なダイヤモンド)を隠したのである。しかも、自分の後に英明な皇帝が現れないように呪いを掛けた。その結果、乾隆帝以後の皇帝たちには天命も力もなくなったのだ。乾隆帝の考えを知る西太后は自分の代で清朝の命脈を尽きさせ、二度と中国で帝国が生まれないように必死の努力をしている。

中国の歴史について知識を深めることができる点では優れた作品だ。科挙や宦官についての記述も興味深かった。また、李鴻章や乾隆帝の人物像は非常に魅力的だった。おそらく浅田次郎自身が心酔した人物だったのだろう。

しかし、設定が非現実的という印象が払拭できない。上記のあらすじを書いていて、その感覚はさらに強くなった。天命がないとはいえ、自王朝滅亡を目的とした為政者が本当にいるのだろうか。西太后を悪者として描かず、好意的に評価しようとすれば、このような設定にならざるを得ないのだろうが、私は非現実的だとしか考えられない。そのためにどうしても作品に没入できなかった。感動大作として知られる作品であるにもかかわらず、読後にはカタルシスではなく、長大な物語から解放されたという奇妙な感覚が残った。

(2015年8月12日)