伊東 和明 のすべての投稿

浅田次郎 「はじめての文学」

浅田次郎の「はじめての文学」(文藝春秋)を読む。

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浅田次郎にこのタイトルの作品があるわけではない。文藝春秋社が文学入門として浅田次郎の5作品「ふくちゃんのジャック・ナイフ」「かくれんぼ」「夕暮れ隧道(ずいどう)」「獬(シエ)」「立花新兵衛只今罷越候」を集めて本にしたのだ。

分かりやすい作品が収録されている。極めつけは「夕暮れ隧道(ずいどう)」だ。これはある高校3年生の話である。主人公の男子生徒は、1クラスから15人くらいが東大に入るほどの進学校に通う。彼の前の席にいるのは成績抜群、東大文Ⅰ合格間違いなしの美人だ。彼は授業中、その女子生徒のブラジャーをコンパスの針で外すことに勤しんでいる。ところが、この男子生徒と女子生徒はどういうわけか恋仲になる(いきなりである)。ある日、彼らは海辺に出かける。高校生だし、女子生徒の親は門限を夜7時に設定している。しかし、二人はお互いの下心を確認してラブホテルで一夜を明かすのである。彼らは両家を揺るがす振る舞いをした後、同じ学校のカップルが交通事故で即死したことを知る。

エロスとタナトスというのは隣り合わせであるし、芸術の世界では大きなテーマになる。その意味で浅田次郎の作品は王道をいくものだ。しかし、これが「はじめての文学」? 「はじめて」というのは、小学生向け? 中学生向け? 高校生向け?

他にも、時代劇の撮影に本物の武士が闖入してしまう話を描いた「立花新兵衛只今罷越候」は読み物として面白いが、漫画的すぎないか。

ところが、浅田はそう言い出す教育委員会的な読者のことを想定していたらしい。この本の最後には浅田自身による「小説とは何か」という文章が収録されている。最初の6行にはこうある。

文学とは何か。
文章による芸術表現である。
小説とは何か。
文学のうちの、物語による芸術表現である。
では、芸術とは何か。
人間の営みを含む、天然の人為的再現である。

自作が低俗であるという批判に対して浅田は、「俗」ではあっても「低」ではないという自信はあると反論する。浅田は自作が文学であり、芸術であると確信して「はじめての文学」掲載の5作品を書いたのだ。

(2015年8月11日)

川端裕人 『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』

川端裕人の『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』(ちくま文庫)を読む。

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1997年の作品だが、2010年に文庫化される際に30ページにわたる「文庫版のための少し長いあとがき」が収録された。このあとがきはイルカ漁を巡って日本が国内外から大きな批判を受けた後にまとめられており、非常に優れた資料となっている。川端裕人は小説家でもあるが、こうした分野に対して取材・情報収集を行い、記述するのに優れた力量を発揮する。

なお、私はこの本を読んで思うところは多かったのだが、あえて口をつぐみたい。そういう態度が問題なのかもしれないが。

(2015年8月10日)

『幕が上がる』 小説と映画

本広克行監督の映画『幕が上がる』がDVD化された。主演はももいろクローバーZ。

(左の写真がDVD、右が小説)

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原作は演出家の平田オリザ初の長編小説『幕が上がる』(講談社)だ。映画化された時、上映する劇場が近くになかったため私は観ることができなかった。私はしかたなくDVDになるのをずっと待っていたが、DVDを観ていささか落胆した。映画の出来は小説をはるかに下回るものだったからである。

小説にあって、映画にないものが多すぎる。映画にあって小説にないものは殆ど意味不明のエピソードだ。

この作品の原作は演劇がどのようにして作られていくのか、演出とはどういう仕事なのかを描いている。最大の山場は、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の台本を作る主人公が、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』との出会いによって作品の解釈を一挙に高めるところである。それだけではない。宮澤賢治の詩『告別』も主人公に絶大なインスピレーションを与えるのである。原作では、しがない国語教師の授業が、主人公に大きな影響を及ぼしている。受験間近の教室で、授業は誰もまともに聞いていない。しかし、主人公は退屈そうなその授業から『銀河鉄道の夜』の核心を掴むのである。

こうしたことは、映画では表現しにくいのだろう。重要なシーンであるにもかかわらず、その部分は殆ど映像化されなかった。映画は尻切れトンボになって終わっている。詩の言葉などを映像化することはどのような監督であっても難しいのだろう。それは理解できる。結果的に、映画を観た人も、DVDを見た人も、『幕が上がる』はももいろクローバーZのための映画だとしか認識していないだろう。もったいなさ過ぎる。

子供の頃から映画とその原作の両方を私は知ろうとしてきた。まれに映画化された作品の方が優れていることはある。しかし、殆どの場合、原作の小説を超えることはない。私は映画ファンだし、インターネットの動画もよく見る。映像の力が圧倒的であることを知っている。しかし、それでも映像は活字に勝てないのだ。我々は活字から得られる情報によってひとつの世界を豊かに描き出すことができる。頭の中で作り上げられたそのイメージは映像を凌ぐ。だから活字の世界を完全に映像化するのは無理だ。それでも、努力は不要と言いたいのではない。監督は、言葉を映像に盛り込む努力をもう少ししても良かったのではないか。原作者の平田オリザはこの映画の出来に納得したのだろうか。映像がここまで小説の奥深さに肉薄しようとしなかったことはショックでもある。

(2015年8月9日)

藤本634 『腐ったら負け HKT48成長記』

藤本634の『腐ったら負け HKT48成長記』(角川春樹事務所)を読む。

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腐ったら負けなのでがんばれ、という人生訓が書かれている本ではない。これは、2011年5月11日、AKB48の姉妹グループとしてHKT48の結成が発表されてから現在に至るまでのグループ及びメンバーの成長記録だ。児玉遙、宮脇咲良、田島芽瑠など多くの若手メンバーが苦悩しながら今のHKT48の中で生きてきたことが本人たちのインタビューを交えながら示されている。

この本で改めて明らかになったのは指原莉乃の力だ。それは、結成されてから成長の踊り場にいたHKT48が指原の移籍を機に離陸できたことにとどまらない。指原がHKT48の精神的支柱であり続けていることが重要だ。指原は年端も行かぬ若いメンバーとは精神面で全く違っている。この本では、HKT48のメンバーがどこそこのポジションを取れなかったから悔しい、動揺する、泣く、という記述が延々と続く。しかし、指原についてだけはそのレベルの言及がない。AKB48の指原の中では数々の葛藤があっただろうが、HKT48での指原はそれをおくびにも出さない。AKB48を追放され、HKT48に移籍した瞬間から立ち位置が他のメンバーと違っているのだ。つまり、自分のことだけを考えるのではなく、チーム全体を盛り上げることを最優先にして動いている。昨年出版された指原の『逆転力』(講談社)を読んだ際にも感じたが、HKT48を作り上げたのは指原だ。HKT48という企画は秋元康らのスタッフが作ったが、チームとしてのHKT48は指原が作ったものなのだ。『腐ったら負け HKT48成長記』はそれを再確認させる本だった。

AKBグループは厳しい。かわいい女の子が安穏と楽しい毎日を送っているわけではない。常に人から評価され、順位付けがされる。しかも、自分の力ではどうにもならないことが評価の対象に含まれている。年齢と美貌だ。今はそれが好感されて人気を保っていても、もっと若く、もっと美貌の子がどんどん入ってくる。すると、順位、ポジションは容赦なく変えられていく。これは地獄のようなシステムである。そんな世界で彼女たちは生きているのだから、動揺したり、泣いたりするのは当然だ。指原だって二十歳そこそこの年齢だ。それにもかかわらず、確固たる自分を持ち、超然としながらチームを構築してきた。AKBグループの傑物だとしか言いようがない。

(2015年8月8日)

天童荒太 『あふれた愛』

天童荒太の『あふれた愛』(講談社文庫)を読む。

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4つの切ない短編が収録されている。

第1話「とりあえず、愛」は育児ノイローゼの妻を心配するどころか責めてしまったために離婚を宣告される男の物語だ。

第2話「うつろな恋人」は主人公の男がふと知り合った女性が、現実には存在しない、幻の恋人を見ているという物語だ。その女性は幼少の頃両親から受けた心の傷から精神的に病んでいる。

第3話「やすらぎの香り」は子供の頃からの精神的抑圧で心が壊れてしまった男女が何とか支え合って生きていく物語だ。

第4話「喪われゆく君に」は、目の前で人の死を見た若者の話だ。深夜のコンビニでバイトしていると、目の前で買い物中の客が突然死する。若者は、死んだ客とその妻の思い出の場所を辿る。

いずれも心に響く作品だが、後半の2作品が特に印象深い。私はページをめくる手を止めることができなかった。

(2015年8月7日)

星新一 『未来いそっぷ』

星新一の『未来いそっぷ』(新潮文庫)を読む。

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これは1971年に発表された作品で、文庫化は1982年。私が手にした文庫本は2007年の発行で、62刷と記載されている。この数字は星新一の作品がいかに読み継がれてきているかを端的に示している。

私が10代の頃星新一は大ブームであった。しかし、その当時の私は星新一のショート・ショートを読みやすく分かりやすいが故に馬鹿にしていた。真価を全く理解していなかったのである。しかし、50歳を過ぎて再び手に取った星新一は私を驚嘆させるに十分であった。彼の作品には無駄がない。それどころではない。未来の人類がどうなるのか、考えさせられる作品が目白押しだ。それを星新一の空想の産物だと斬って捨てるのは簡単だが、先見の明があったのだと今の私は断言できる。例えば、『ボッコちゃん』に収録されている「おーい でてこーい」を読むと、核廃棄物を含むゴミ問題を正確に予想していたことに驚かされる。現代の作家なら、星新一のごく短い物語のアイディアで、長編を書こうとするのではなかろうか。物語は長ければ良いわけではない。

この『未来いそっぷ』も面白い。冒頭の『イソップ物語』のパロディ7編から星新一節が全開だ。シンデレラのその後を描く「シンデレラ王妃の幸福な人生」、未来において女性的なロボットに魅惑されて仕事をし続ける男が登場する「オフィスの妖精」、コンピュータの指示のままカバを「おカバさま」と大事にする人間の顛末を描く「おカバさま」など、魅力的な作品が多数並んでいる。

星新一の作品は漢字に読み仮名さえ振ってあれば小学3年生でも読める。しかし、ひねりのきいた面白さを味わえるのは大人なのかもしれない。50代になって星新一を再発見できた私は幸運だった。

(2015年8月6日)

石角友愛 『ハーバード式脱暗記型思考術』

石角友愛の『ハーバード式脱暗記型思考術』(新潮文庫)を読む。

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原題は『私が「白熱教室」で学んだこと』だったらしい。著者はアメリカの高校・大学を卒業し、ハーバード・ビジネス・スクールを卒業した後、グーグルで働く才媛だ。彼女の目から見たアメリカのエリート教育の実態が分かりやすく述べられている。

この本を読むと、アメリカの高校・大学での教育と日本のそれは目指す方向が違いすぎて、もはや相手にもなっていないと思わせられる。アメリカでは日本のように知識偏重の教育を行わず、物事の本質に迫るべく討議を重ねることが縷々述べられている。また、この本を読む限り、アメリカで教育を受ければ、人間的にも大きく成長できそうだ。こうなると日本教育はアメリカに完敗ということになる。そして、著者は日本人の考えている「勉強」が世界標準の「勉強」とは大きくかけ離れていると主張する。

実際にアメリカで教育を受けてきた人の文章なので、その点では確かに説得力はある。しかし、仮にもハーバード・ビジネス・スクールを卒業した方の著書がこの程度の感想文で良いのだろうか。もう少し日米の教育についてケース・スタディをしても良かったのではないだろうか。また、アメリカの教育方法が「世界標準」だと断言する根拠が不明だ。本当にそうなのだろうか。著者はこうしたことを検討する必要もないと判断したのだろう。しかし、私はその比較研究の結果を知りたいのだ。たとえ結論が同じになったとしても、その検討・研究は無駄ではないはずだ。

(2015年8月5日)

鷲田清一 『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』

鷲田清一の『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』(ちくま文庫)を読む。

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鷲田は「身体は<像(イメージ)>」であると最初に言い切る。人間は自分の顔を自分で直に見ることはできない。背中や後頭部も、下半身の局部もそうだ。自分で知覚できる部分は思っているほど多くない。だから、鷲田はこう続ける。

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ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、このぼくの身体って離れてみればこんなふうに見えるんだろうな・・・・・という想像の中でしか、ぼくの身体はその全体像を表さないと言っていいはずだ。つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり<像(イメージ)>でしかありえないことになる。

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鷲田はファッションについて書き始めた頃、恩師から「世も末だ」と呆れられたという。確かに哲学者がファッションについて研究し、語るというのは我々が考える哲学者の仕事とは違うように最初は感じられる。しかし、どうだろう、「身体は<像(イメージ)>である」ということから説き始める鷲田のファッション論は刺激に満ちた哲学ではないか。鷲田の名著『モードの迷宮』が出版されたのは1989年だったが、大評判になったのは当然だ。鷲田の恩師は鷲田の真価を理解していなかったのだ。

(2015年8月4日)

鷲田清一 『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』

鷲田清一の『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書)を読む。

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平易で明解。『じぶん・この不思議な存在』より平易なので瞠目したが、それには理由があった。底本がNHKラジオ番組のためのテキストだったのである。全体は13の章に分かれ、それぞれの章で鷲田思考のエッセンスがエッセイ風に述べられていく。これだけ平易・明解なら中学生にも安心して薦められる。

上記のような成立事情であるために、どの章の内容も鷲田の著作を読んできたものにとっては目新しくはない。しかし、逆に、鷲田がどのようなことを考え、述べてきたかを一望するためには有用だろう。「問いについて問う」「こころは見える?」「顔は見えない?」「ひとは観念を食べる?」「時は流れない?」など魅力的な章がずらりと勢揃いだ。

鷲田の文章の魅力はいくつもあるが、そのひとつに例え話がとびきりうまいことが挙げられる。会社を定年退職して家庭に戻ろうとする男とその妻について鷲田は以下のように書く。

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(二人が)同じ<時>の流れのなかを生きてきたというのはひどい幻影であり、二つの異なる列車が同速度で並んで走っているときに、二つの列車に別々にいるひとがたまたま同じ列車内にいると勘違いしていただけのことなのだ。
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鷲田は現実を直視するので、恐ろしいことをいとも簡単に分かりやすい例を使って説明する。さすがとしか言いようがない。

(2015年8月3日)

鷲田清一 『じぶん・この不思議な存在』

鷲田清一の『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)を読む。

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鷲田清一の著書の中では抜群に平易な言葉で書かれた良書だ。難解な哲学用語を使わずに、中学生でも分かるように記述している。

鷲田は、「《わたしはだれ?》という問いに答えはない」とこの本のエピローグで述べているが、その一方で「〈わたし〉というものは《他者の他者》としてはじめて確認されるものだ」とも主張している。鷲田はそれがいかなることかつぶさに説明していて、大変読み応えがあった。例えば、電車の中で化粧をする女性を見ると、ある人は腹立たしくなるが、それは、その女性にとって、それを見ている人が他者でないからである。要するに人としてさえ認識されていないのである。それが直感的に分かるから嫌な気持ちになるのである。

一頃、「自分探しの旅」という言葉をよく見かけたものだ。私は「自分は自分なのに、探さなくてはいけないのか? また、どこかへ旅に出ることで自分は探せるのか?」と疑問を抱いたものだった。鷲田清一の考え方を使えば、一人旅をして仮に誰とも関わらず、風景の一部になってしまうのであれば、誰からも「他者」として確認されないことになる。そのような事態に陥るのであれば、「自分探しの旅」は本来の目的とは逆に自分を喪失する旅になる。やはり「自分探しの旅」は自分探しではあり得ないのだ。

(2015年8月2日)

鷲田清一 『哲学の使い方』

鷲田清一の『哲学の使い方』(岩波新書)を読む。

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「著者渾身の書き下ろし」という言葉に嘘偽りはなかった。

哲学は日常生活から極端に遊離し、時代の困難から最も隔絶した学問になっているが、鷲田はむしろ同時代の問題こそ哲学を必要としていると主張する。その例として現代の諸問題を列挙する。環境危機、生命操作、先進国における人口減少、介護・年金問題、食品の安全、グローバル経済、教育崩壊、家族とコミュニティの空洞化、性差別、マイノリティの権利、民族対立、宗教的狂信、公共性の再構築・・・。どれも頷けるものばかりだ。しかし、そうであるにもかかわらず、哲学はあまりの難解さから問題解決の手がかりとして求めてくる人間を門前で拒絶している。拒絶されたという経験を持たない人など、どれだけいるのか。また、門前で拒絶するほど敷居が高い学問が他にあろうか。鷲田はそのような状態に堕した哲学の再生のために、対話形式という西洋哲学の伝統に立脚した「哲学カフェ」を紹介している。哲学に光明を感じさせる本だ。

筒井康隆 『エディプスの恋人』

筒井康隆の『エディプスの恋人』(新潮文庫)を読む。

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前作『七瀬ふたたび』で殺されたはずの七瀬が何事もなかったかのように生きている。

主人公七瀬は美貌の女性で、人の心を読めるという特殊能力を持つ。人の心が読めるということは、周囲の男どもの淫らな欲望をすべて知ってしまうことを意味する。その描写は「七瀬三部作」に共通している。その描写があるがためにこのシリーズは通俗エロ小説に堕してしまいかねないのだ。少なくとも女性にはおいそれとこの本を薦めるわけにはいかない。セクハラと受け止められるのは間違いないからだ。

七瀬はとある高校で教務事務をしている。その高校で七瀬は超常現象を引き起こす男子生徒に出会う。実は超常現象を引き起こしているのは彼ではなく、彼を守ろうとする「意思」だった。それが一体何なのか七瀬は知ろうとする。そして、彼を守っていたのが宇宙の超絶対者的存在だと判明する。

ここまでで終わっても物語は完結させられそうだ。しかし、筒井康隆はその先に重大な疑問を投げかける。宇宙の超絶対者的存在はどのようなことでも可能だ。人の存在の有無・生死を決定し、その思考を左右できる。不可能なことはない。七瀬も思想と行動を操作されている。その力によって高校生の少年と恋に落ちているのだ。しかし、それを突き詰めていけば、この世界はいったい何なのか。そして自分とは何なのだと思わざるを得なくなる。そもそも七瀬は前作で死んだはずだ。それなのに超絶対者によって「使える」と判断され、この世に存在しているのではないだろうか。死んだはずの自分はどうして今生きているのか。他にも七瀬は疑念を抱く。例えば、音楽に熱狂する人々は、そうするように思考と行動を操作されているのではないか。そのようなことを考えるとやるせない気持ちになっていく。自分とは何か、それが分からなくなるという恐るべき結末だ。これが筒井康隆の「七瀬三部作」の結末なのだが、最後の最後まで考え抜かれた内容に私は唸った。女性がこの作品をどう評価するか疑問だが、私は十分堪能した。「七瀬三部作」の最高傑作はこれである。

デカルトはすべてを疑うが疑っている自分の存在だけは疑う余地がないと結論したが、この作品を読んだらどう思うだろうか。

(2015年7月31日)

筒井康隆 『七瀬ふたたび』

筒井康隆の『七瀬ふたたび』(新潮文庫)を読む。

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前作『家族八景』と第3作目の『エディプスの恋人』を併せて「七瀬三部作」と通称するらしい。

主人公が得心術を使える美貌の女性七瀬であることは変わらないが、前作と異なり本作品には七瀬の他に数人の超能力者が登場する。超能力者は常人にはない特殊能力を持つのだが、そのような特殊能力を持った人間が社会で歓迎されるはずがない。恐怖と憎悪の対象となるからだ。だから、彼らは社会の中では目立たないようにひっそりと暮らす。しかし、彼らには危機が迫る。謎の組織が彼らの抹殺を図っているのだ。そして、謎の組織は情け容赦なく超能力者たちを殺処分していく。物語は主人公の七瀬の死で終わっている。

超能力者たちが無残に虐殺されるこの物語の読後感は極めて微妙だ。陰鬱である。また虚構と分かっていても切迫感ある恐怖を感じさせる。それだけ考え抜かれた作品であり、筒井康隆の筆致は冴えている。

しかし、「七瀬三部作」の最高峰はこの作品ではないのだ。

(2015年7月30日)

筒井康隆 『家族八景』

筒井康隆の『家族八景』(新潮文庫)を読む。

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人の心を読むことができる主人公の七瀬は18歳の若い身空なのに女中として住み込みで働いている。そんな人が女中として働いていれば、その家の家族模様が嫌でも完全に分かってしまう。「八景」というだけに8つの家族が描かれているが、どの家庭においてもほのぼのとした温かい愛が溢れているなどということはない。それどころか、どす黒い感情で夫は妻を妻は夫を、子は親を親は子を見ていることが明らかにされる。筒井康隆は人間の暗黒面を暴いていく。筒井康隆は売れる作品、刺激的でおもしろい作品を目指してこのように書いたのだろうが、それでもこの作品が家族の真実を表していることは否定できない。恐ろしい作品だ。

本作品は1972年に刊行されている。高度経済成長時代を反映してか、登場人物たちは男も女もギラギラしている。将来への不安を抱えた人物は登場してこない。その意味では誠に前向きなのであるが、多くの場合、その前向きさが自分の欲望の実現に向かっている。筒井康隆がもし現代を舞台にこの作品を書くとしたらどんな作品になるのであろうか。

(2015年7月29日)

筒井康隆 『愛のひだりがわ』

筒井康隆の『愛のひだりがわ』(新潮文庫)を読む。

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近未来の日本が舞台である。治安は著しく悪化しており、暴力、強盗、殺人が日常茶飯事になっている。主人公の愛は左手が動かない少女だ。愛の父親は失踪している。母親は愛を育てるために飲食店で働くが、そこで死亡する。すると、飲食店の店主は愛の母が持っていた現金をくすね、さらに愛をこきつかい、虐待する。ある日、愛は父親を捜す旅に出る。その道中、愛の左側には犬や様々な人がついて愛を助ける。『愛のひだりがわ』というタイトルはそこから来ている。愛は父親探しの旅の中で何度も辛酸をなめさせられ、次第に強くなってくる。愛は荒涼とした現実社会の中で強く生きるのだ。物語は当然、父親と感動の再会をしてハッピーエンドで終了するのかと思いきや、そうはいかなかった。なんと、愛は零落した父親を捨てるのである。

愛の父は家族がいるのに行方をくらませた男である。その後、人にも言えないような仕事をしたりしていたが、ギャンブルで身を完全に持ち崩す。借金取りに怯えながら身を隠して暮らしていたが、とうとう愛が働かされていた飲食店に引き籠もる。物語の最後に愛は父親とそこで再会するのだが、父から「一緒に暮らそう」と言われて、即座に拒否する。母子を事実上捨てた父、引き籠もるばかりで自力再生をしようともせず、美人になった愛を見て「金になるかも」などと最低の妄想を働かせる父に愛は何の同情も感じなかった。そして躊躇うことなく父を捨てるのである。安易な感動的再会よりも、この終わり方の方がよほどリアルだし、説得力がある。

作品中、愛は自分で自分を守ることを覚えていく。そして強くなっていくのだが、そのように自分の力で何かをやっていこうとしない限り、誰かが手をさしのべてくれるなどということはないのだ。人は自分でがんばらなければ、実の娘にすら捨てられるのだ。『愛のひだりがわ』はただの娯楽作品かもしれないが、安易な解決を示していない。

(2015年7月28日)

二宮晧監修 『こんなに違う! 世界の国語教科書』

二宮晧監修『こんなに違う! 世界の国語教科書』(メディアファクトリー)を読む。

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私は日本の小学生が使う国語教科書があまりに薄っぺらいのを見ていつも嘆かわしい気持ちになったものだった。本当に薄っぺらい。活字は大きく、長い文章は掲載されていない。その一方で、授業時間数は決して少なくない。ということは、生徒たちはその貧弱な国語教科書に書いてある文章を粘り強く読んで鑑賞しているわけだ。その時間は楽しいのだろうか。

『こんなに違う! 世界の国語教科書』を読んで、ますます日本の国語教育は危ういのではないかと心配になってきた。この本で紹介されている事例を見ると、何の哲学も感じられない日本の国語教科書とは雲泥の差だ。詩や戯曲を扱うだけでなく、その中にたっぷりとユーモアを盛りつけるイギリスの教科書、本格的な文学作品や芸術作品を掲載し、それについて考えさせるフランスの教科書の内容を知ると羨望を禁じ得ない。すごいのはロシアだ。小学4年生になるとかなりの大作を読ませるという。「短い作品ばかり読ませていて、ドストエフスキーが読めるようになるのか」という声があるのだという。至極ごもっともだ。

どのような教師も父兄も、「国語はすべての科目の基礎なので重要だ」と声を揃える。しかし、本当にそう思っているのであれば、どうして今のような国語教科書が放置されているのだろうか。私にはさっぱり分からない。

(2015年7月28日)

『中学生からの大学講義 5 生き抜く力を身につける』

『中学生からの大学講義 5 生き抜く力を身につける』(ちくまプリマー新書)を読む。

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これは各界の最前線にいる方々が桐光学園で行った講義をまとめたもので、全5巻。

このシリーズは講義を収録したものだから、語り口は平易であるが、内容は十分に刺激的だった。中高生向けに出版された本でありながらも、大人にも訴えかけるものも多く、これまでの講義の中でも鷲田清一、村上陽一郎の講義は非常に読み応えがあった。

どの巻においても冒頭の講義が出色だ。この第5巻でも冒頭の大澤真幸「自由の条件」から強い印象を受けた。「なぜ自由な社会で息苦しさを感じるのか」「人間が「自由な主体」になるためには」など、現代を生きる我々に自由について考えさせる。

このシリーズはこの第5巻で完結しているのだが、続編を出せないものか。終わらせるには惜しい企画だ。

(2015年7月27日)

白取春彦編訳『超訳 ニーチェの言葉 Ⅱ』

『超訳 ニーチェの言葉 Ⅱ』(ディスカバー)を読む。

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「Ⅱ」が刊行されたというからには「Ⅰ」が相当売れたのだろう。

私も「Ⅰ」を買って読んだ。そして、衝撃を受けた。なぜなら、私が知らないニーチェの言葉が大量に並んでいたからである。その驚きは筆舌に尽くせない。私は高校生の頃からニーチェを読んできたのに、その私に未知の言葉が次から次へと出てくる。私はニーチェを読んだつもりになって、実際にはニーチェを全く理解していなかったのだと愕然としたものである。

しかし、謎はすぐに解けた。『超訳 ニーチェの言葉』は翻訳書ではなかったのである。編訳者である白取春彦氏が、ニーチェの言葉を自分の解釈でくるんで本にしたのが『超訳 ニーチェの言葉』だったのだ。「超訳」とは何のことだろうと思っていたのだが、要するに自分の解釈をニーチェ風に書き換えたのだ。

とはいえ、『超訳 ニーチェの言葉』を全否定する気はさらさらない。白取春彦流人生訓の書と見なせば十分おもしろい。「Ⅱ」もそのつもりで読んだ。白取春彦氏の言葉だと割り切って読んでいると、人生訓どころか、心理カウンセリングの本のようにも思えてきた。例えば、最後に掲載されている「悩みの小箱から脱出せよ」の前半部分を抜粋すると次のとおりだ。

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悩む人というのはいつも閉じ籠もっている。従来の考え方と感情が浮遊している狭くて小さな箱の中に閉じ籠もっている。その箱から出ることすら思いつかない。
その悩みの小箱に詰まっているのはみな古いものばかりだ。古い考え方、古い感情、古い自分。そこにあるものはすべて昔から同じ価値を持ち、同じ名前を持っている。
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この部分の出典は『ツァラトゥストラはかく語りき』(至福の島々で)らしい。できれば『ツァラトゥストラはかく語りき』を参照して、どのようにニーチェの言葉を変容させたのか確認したいところだが、引っ越しの際に書物をほぼすべて処分してしまったのでそれが叶わない。身を軽くしたのは良かったが、自分にとって重要な書物はむやみに処分してはならないのだ。もっとも、そんなレベルの人生訓は『超訳 ニーチェの言葉』の「Ⅰ」にも「Ⅱ」にも記載されていない。

(2015年7月25日)

シェイクスピアの『リア王』

シェイクスピアの『リア王』(光文社古典新訳文庫)を読む。

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とてつもない作品だった。私が子どもの頃に聞かされたリア王とは全く違う。この作品を知っているつもりだったが、そんな自分が恥ずかしい。

リア王は狂死、コーディリア姫は絞殺されるという悲劇的結末だけでなく、辛辣で含蓄のある言葉の奔流に圧倒される。このような傑作には、翻訳物だとはいえ、そこいらへんの緩い小説が束になったってかないっこない。シェイクスピアの天才ぶりには驚くばかりだった。

おかげで、JRの新小岩駅で降りるのを忘れてしまった。ここまで熱中して本を読むのは久しぶりだった。こういう作品を読むと、言語ではどんな言葉を使っているのだろうと興味がわく。英文学者やマニアたちが取り憑かれてしまうのは当然だ。

(2015年7月24日)

吉本ばなな 『キッチン』

吉本ばななの『キッチン』を読む。

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1987年作品。これがデビュー作らしい。この作品から既に登場人物の死と不思議な男女関係が描かれている。吉本作品は、『キッチン』の延長なのだろう。数ある作品の中では読後感がかなり良い方だった。

吉本ばななは時々はっとするようなことを書く。「キッチン2」には、お気楽に料理教室に通ってくる女性たちについて、「彼女たちは幸せを生きている」と書き、さらに「幸福とは、自分が実はひとりだということを、なるべく感じなくていい人生だ。」と言い切る(新潮文庫 p82)。作家というのはこういうことをさらりと書いてのける人たちなのだ。

『キッチン』にはもうひとつ、「ムーンライト・シャドウ」という短編が掲載されている。これも特殊な人間関係が出てくる。主人公さつきの彼氏には高校に通う弟(柊 ひいらぎ)がいる。その弟には彼女がいた。さつきの彼氏は、自分の弟の彼女を車に乗せて送っている途中交通事故で死ぬ。もしかしたら残された物同士が恋仲になるのかと思わせる展開だったが、物語では2人がどうなるのかは明かされなかった。

「ムーンライト・シャドウ」で印象的だったのは、高校生の彼女と死別した男の子(柊)が、彼女が着ていたセーラー服で登校し、町を闊歩していることだった。そんなことを本当に実行できる男子高校生がいるのか疑問だが、私には到底思いつかない設定だ。さすが作家はすごい。なお、彼女の死を悼むこの男子高校生の行為は、馬鹿にされるどころか、学校の女子に同情・評価され、彼はもててもててたまらないのだとか。なるほどね。

(2015年7月23日)

よしもとばなな 『海のふた』

よしもとばななの『海のふた』(中公文庫)を読む。

umi

死は出てくるが特別な男女関係は出てこない。ある女性がかき氷屋を開く。お金を儲けるためというより好きでやっている。メニューも独特。しかし、彼女はそれでやっていく。彼女と暮らす少女はネット上でぬいぐるみ屋を始める。

自分で仕事を始める時っていうのは、こうして自分がやりたいことを自分の好きなようにやっていかなければ嘘だ。どこかで現実と妥協しなければならないというのが実情としてあるのかもしれないが、せめて物語として読む時にはそう思いたい。よしもと作品の中でこれほど読後感がよかった作品はなかった。

(2015年7月23日)

よしもとばなな 『王国 その4 アナザー・ワールド』

よしもとばななの『王国 その4 アナザー・ワールド』を読む。

oukoku

タイトルだけを見ると、少年少女をわくわくさせるファンタジーっぽい。ファンタジーには違いないのだろうけれども、私には心理カウンセリングの本のように思えてならなかった。

よしもとばななの作品の設定はどれも普通でない。よしもとばななの中ではすべてが普通なのだろうが。『王国』の場合は、主人公の祖母が人を癒やす特殊能力の持ち主。主人公本人もその力を少し持っている。主人公の上司は特殊能力を持った占い師で、ゲイ。占い師には彼氏がいる。こうした設定が標準だ。

『王国 その4』が完結編なのだろうが、今度はその3までの主人公の娘さんが出てきて、主人公に成り代わっている。彼女は同性愛者で、やはり同性愛者の彼氏を見つける。こういう設定の中での緩やかな生活風景を描くのがよしもとばなななの魅力なのだろう。

しかも、吉本(よしもと)作品では登場人物の死がよく起きる。不思議な男女関係や死がセットになっている。それが人生の中核だということなのだろうか。実に不思議な読書体験である。

(2015年7月21日)